第20話 お見舞い――18時29分、第九天菱号

「つまり、柴さんて青ちゃんの連絡先も知らないんだな……」


 ラジオてんりょうパーソナリティのせきひとは、テーブル兼のマルチ情報ディスプレイに肘をついて珈琲を飲みながら言った。離れたところに置かれたポットには、艶のいい毛並みの黒猫がくっついて寝そべっている。ポットの飾りではなく本物の猫だ。

 テーブルには先程送られてきたメッセージが表示されている。送り主はしば国明くにあき。汐の知人でもある連絡船パイロットだ。それが、番組宛のメッセージではない。バイトのほんかい個人に宛てて書かれている。柴は海里の個人的な連絡先を知らないので番組に送ってきたらしい。柴のシップでもサービスエリア内を飛べばラジオ天菱は聴取できるから、送り先をメモするくらいは訳ないことだろう。


「逆に言うとあの人、連絡先交換してる相手自体がほとんどいないと思いますよ」


 海里が今更遠慮もないといった様子で汐の向かいに座った。


「知り合ってしばらくになるけど、俺も今回初めて柴さんのID見ました。正直、携帯端末ワンド持ってるかどうかも疑ってたんですよね」


「とにかく君が柴さんに連絡先教えておかないからこうして番組が踏み台になるんでしょ」


「教える機会もないもん、仕方ないじゃないですか」


 まったくねえ、と苦笑して汐はまたテーブルに視線を落としている。指先が天板上をすっと撫でると、触れたアイテムがアクティヴになり拡大されて現れる。

 フライト中の柴から送られてきたそのメッセージは海里宛てで、客分船員の中原なかはら青菊あおぎくが無事かどうか見てきてくれという内容だった。鴬台おうだい空港から天菱へのフライト時、負傷者の家族として搭乗させた乗客リストに中原という名前があったのが気になるという。


 中原青菊はこの一年ほど天菱に住んでいる高校生で、今の時代には珍しくフィルムカメラを持ち歩いている。ポシェットみたいにカメラを下げて歩いている女の子は船内にはそういないから、クルーの中でも知っている者は多い。万年人手不足のラジオ天菱でも急な取材の資料写真撮影を手伝ってもらったことが何度かあり、海里や汐はそれで青菊と知り合った。柴が共通の知人だと分かったのは後からである。

 海里の父親は天菱クルーでエンジニア。柴の住んでいる旧ジェット発着場の改装時に知り合ったといい、その縁で海里は今でも柴と柴のシップの住処を訪れる。去年のどの時点だったか、柴が寝室に使っている部屋の壁にひどく美しいオリオーザの写真が掛かるようになり、それを撮ったのが鍵倉かぎくらはなという写真家だとは聞いていた。

 しばらくして、鍵倉花は中原青菊だ、と分かったときは驚いた。青菊は単なる写真好きカメラ好きではなく、もう立派な写真家だったのだ。

 汐もずいぶん驚いたらしかった。番組でよくかけていたようという歌手のアルバムに使われた写真を番組でもずいぶん誉めていて、それが鍵倉花の作品だというのはよく知られたことだったからだ。

 巡航船の住人の間では暗黙の了解のようなルールがあって、人のことを何でもかんでも知ろうとしないし勝手に話したりもしない。その習い通りに柴も、青菊が鍵倉花だということを誰にも言わないでいた。海里と汐がそのことを知ったのは偶然で、柴と青菊がオリオーザの写真について話しているのをたまたま聞いてしまったからである。青菊はすんなり事実を認めて、内緒ですよ、と笑った。

 ラジオ天菱の発注で撮ってくれる写真が全く鍵倉花っぽくないのは、被写体や光を自分で選んでいないし、撮影に使うのが携帯端末ワンド搭載のカメラで後処理もしていないからだと青菊は言っていた。


 その青菊が今回の事故の負傷者に含まれているかどうか。汐はラジオ天菱の数少ないパーソナリティで、時にはニュースも読む立場だが、ラジオ天菱として負傷者リストを持っているわけではない。

 そこで海里が自分の端末から直接青菊に問い合わせたところ、骨のひびと打撲で自分の船室にいるという。事故発生当時、現場となった中一階フードコートに居合わせたらしい。


「てなわけなんで、なんかお見舞いでも持って行ってきます。汐さんはまだここ離れられないから無理っすよね」


「そうだね、あとしばらくは僕以外ニュース読みがいないから。くれぐれもよろしくお伝えください。船室どのへん?」


「上六左舷アウトサイド627、札付きの奥地ですよ」


「そりゃ深い。アリアドネの糸が必要かな」


「大丈夫ですよ、端末ワンドでマップ見られるから」


 海里が立ち上がりかけると、それまでテーブルの隅で長々と横になっていた黒猫が、その見事な毛並みを波打たせて流体のように立ち上がり駆け出した。柴のメッセージを蹴って飛び上がり、海里の肩に着地する。海里は笑顔を見せながら猫を抱き降ろした。


はやさんはダメだよ。お仕事あるでしょ」


 その黒猫こそ第九天菱号伝統の守り神、名誉船長の千早だった。テーブルの上でまた伸びて寝転がった猫の柔らかいお腹に、海里は顔をくっつける。肉球が頬に当たる。猫の身体から、ぐるぐるという低い振動が伝わってくる。

 ほら猫吸ってないで行っておいで、と汐の笑った声が聞こえた。




 三十分後、西井屋のカットフルーツとウィルバートカフェのボトル入り珈琲を持って青菊の船室を訪れた海里は、ただ一言、なるほど、と言った。


「なるほど?」


「うん、点と線が繋がったよね……」


 柴が鴬台から乗せた負傷者の家族の中に、中原という名前があった。

 一方でこの一時間ほど、船外との接続が回復したネットワーク上である噂が飛び交っていた。曰く、鴬台の出発ロビーで中原なかはらしらと中原えいを見た。この雪閉せっぺいなのに、飛ぶ船もろくにないのにグラウンドスタッフが出てきて一緒に改札を抜けていった。あるいは曰く、事故のあと天菱で中原白音によく似た人を見た。

 つまりこうだ。天菱の事故で負傷した者の家族がどうも、あの中原父娘だった。そして海里と汐と柴の友達は、名前を中原青菊という。

 そういうことだ。

 だから今、中原青菊の船室に、中原白音と中原鋭児がいる。

 俺一応驚いてるよ、と海里は言った。だろうね、と青菊が答えて、事実確認はそれで終了である。あとは友達の家族に初めて会ったときと同じように挨拶して自己紹介をする。

 四人でカットフルーツをつまんでいるうちに青菊の端末に入電があった。ちょっと話してすぐに青菊は、通話を保留にした。天菱の宿泊部から鋭児と白音の都合を聞いてきたという。


「ホテルの部屋はいっぱいになっちゃってるから、泊まりたいなら客分船員用のキャビンで空いてるとこを使わせてくれるって言ってる。鴬台直通便はいつまた降りられるか分からないからって」


「そうだな、慌てて動いてトラブってもつまんねえもんな。もう夜だし、仕事もブッ飛んじゃってるし泊めてもらうか。白音どう?」


「家に帰っても停電してるしね。その方がいいかも」


 青菊は頷き、宿泊部と短いやり取りをしたあと通話を切った。


「この部屋の割と近くに一人用の船室が二つ空いてるから、そこの鍵と臨時の滞在証をあとでレジデントオフィスに届けてくれるって。それがあれば居住区を出入りできるしシャワーも使える。届いたら私に通知がくるから……」


 喋りながら青菊は、問題点に思い至ったようだった。


「着替えとか持ってきてる? 歯ブラシとか。買った方がいい?」


 あっ、と鋭児が気の抜けた声を出した。


「何も持ってこなかった。全力で慌てたもんで」


「私もだ……着替えもそうだけど、メイク落としがないと死ぬ。持ってる?」


 モデル兼俳優が妹にメイク落としの有無を聞いたが、妹は無情にもふるふると首を横に振った。


「ごめん。私、化粧しないから」


「嘘でしょ。あんたね、年齢的にこの一、二年のうちにメイクは覚えないと、それもこういう乾燥しやすい環境じゃ、……待って、巡航船ってお店何時まで開いてるの? 買い物行って大丈夫かな」


 小さな窓の外の天海は夜。

 一瞬の沈黙が通り過ぎたあとで、口を開いたのは海里だった。


「着るものも多少あるようなドラッグストアがいいんですよね。じゃあショッピングモール真ん中の大きいとこじゃなくて、上七階のあけぼのドラッグあたりなら穴場じゃないかな」


「あ、そうか。あのへんなら地上客は全然いないから」


 青菊がそう反応したのに頷いて、海里は白音と鋭児に言った。


「天菱の客分船員は、雲の上じゃ地上シャバの身分なんか関係ねぇってのが暗黙のルールなんで、実際、休業した芸能人がしばらく住んでたりしても誰も何にも言わないしネットワークにタレ込んだりもしないのが身上なんですよ。地上客が書き込んじゃっても公開のものは結構削除されますしね。あと、船内もこれだけデカいと地上の街と同じくゾーンごとのキャラクターがあって、地上からの客がほとんどいないゾーンってのがありますから、そういう所なら行っても騒ぎになる心配ないと思いますよ」


 それにさ、と海里は再び青菊に視線を向ける。


「夕食まだでしょ。あの辺りならテイクアウトできるお店が結構ある。クリスマスイヴに夕食抜きもやばいし、クリスマスの朝に食べるものがないのもやばいじゃん」


 クリスマスイヴ。

 青菊は不意に呆けたような表情になって、そして。


「忘れてた」


 ……そう言った。

 夕飯のことを忘れていたのか、今夜がイヴだということを忘れていたのか、海里には分からない。けれどもとにかくそれは、海里も時々見たことのある表情だった。

 お正月、雛祭り、七夕、お盆、大晦日。この時代になっても人々が当然のように執り行う年中行事の話題になるとき、青菊は決まって、その行事にログインするIDやパスは付与されていないので、といったような引いた表情を見せる。それはある意味では巡航船シップの住人らしい顔つきだった。そもそもここは、世間並みの家族イヴェントに乗り切れなかったようなタイプの者が多いからだ。

 中原青菊は、この華々しい知名度を備えた家族とうまくいっていなかったのだろうか、と海里は思う。ほんの短い時間見ていた限りでも、確かにそれほど仲良しという感じはしない。険悪でもなく身内感はちゃんとあって滞りなく会話は進行するものの、特に姉妹の間には多少の距離を感じる。

 心配というわけではない。青菊が怯えたり恐れたりしている素振りはない。夕飯を何にしようかと普通に話し合っている。


「……そうだ、柴さんに連絡しないと」


 本当に今の今まで忘れていた。そもそも海里は、柴に頼まれて青菊の様子を見に来たのだ。

 お見舞いに来た事情を話すと、青菊は何とも言えない表情になって海里を見た。


「汐さんの番組宛てに? え、柴さんって携帯端末ワンド持ってたのか……」


「そう思うよね。俺も持ってないと思ってた。今時レアだけどあの人シップの通信設備あるし部屋にも有線引いてあるし」


「はあ……、それで、私が死んでないか確認したいと」


「怪我したけど割と元気ってことで連絡しとくね。何か柴さんに伝えることある? クリスマスプレゼントに欲しいものとか」


「クリスマスプレゼント」


 まただ、と海里は気付く。年中行事やイヴェントに対する外部感。青菊は一段階感情を引っ込めたような表情を見せた。けれども一旦冷えたかに思えたその表情はすぐまた砕け、小さな窓の外の夜を見る。


「何にも要らないから、柴さんが無事に帰ってきてくれたらそれでいいな」


 天気が悪いのに今朝からずっと飛んでるんだし、病人や怪我人乗せて飛ぶのは普通より気が張るだろうし、ちゃんとご飯食べてるか分からないし、柴さんの能力疑うわけじゃないけどちょっと心配にはなる。だからもし今欲しいものを聞かれたら、柴さんの無事。……青菊はそう言った。

 そうだ。シップとは本来そういうものだった。航海はいつも命懸けだった。それでも人は船を出す。

 送り出した側は船人の無事を祈る。悪天候に見舞われぬように、難破に遭わぬように、無事に帰ってくるように。

 青菊も同じことを願っている。

 青菊自身、船に乗って陸を離れた船人でありながら、この巡航船シップという相対的な陸で待つ側でもあるのだ。青菊だけではない。汐も、海里自身も、巡航船を我が家とする船員クルーたちは皆。


「あの人のことだから大丈夫でしょ」


 いかにも能天気なふうに答えるのがこの場合は一種の礼儀でもあろうと思う。肩を寄せ合って手を取り合って、震えて事故や喪失の心配をするなんて、青菊も海里も望んではいない。そんなことをしたって何にもならない。だからただ言えることはひとつ。


「いつも頭の半分は凍ったように冷静じゃないとだめだ、自分がどの程度無理できるか、どうしたら無理しないでやれるか、読み間違ったら自分だけの被害じゃ済まないって、あの人いつも言ってるじゃん」


「言ってる」


「サンタクロースのそりが横切って邪魔くさかったとか言いながら帰ってくるよ」


「……そうだね」


 微笑んで頷く青菊を、中原鋭児が感慨深そうに見ているのが印象に残った。


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