(三)

第13話 十三粒――16時53分、第九天菱号

 地上で除雪車と救急車が接触事故を起こしたというあまり洒落にならないニュースを聞きながら、青菊あおぎくは滅多に通らないショッピングモールを歩いていた。


 大型巡航船シップの商業施設は、地上のデパートやモールをしのぐ規模になることも少なくない。てんりょうはまさにそのタイプとして建造された巡航船の古株だった。

 航物で飛行する新世代の飛行船は、従来のジェット飛行機等と同じ輸送目的のほか、導入初期から輸送外目的の建築に利用され始めた。従来の航空機に比べ、サイズや外形の縛りがゆるく巨大化が可能で、離着陸時の速度負荷もなく、ずっと浮いていることが宿命づけられているためだ。それははじめ、輸送船で訪れることのできる空中庭園として実現し、次第に宿泊施設や商業施設が設けられるようになった。政府が公営集合住宅の空中設置を検討したこともある。

 第九天菱号は、『空中の大型施設』が次々と建設され始めたそんな時代に作られた跳ねっ返りだった。

 跳ねっ返りと呼ばれた理由はいくつかある。まず名前だ。第二十五福栄丸とか、第六十二黒川丸とか、数字を冠した船は海を見ればいくらでもあるが、通常は四や九の字を避けることが多い。天菱はこれを無視し、最初から第九の文字を掲げた。うちは屋根に天使ではなく鬼をいただいて魔除けとするタイプでやっていく、というのが運行会社の言い分で、海の船がかつてそうしたように三毛猫の雄を守り神に飼うことが流行った当時の巡航船界隈にあって、天菱がその運行開始日に招き入れたのは黒猫の仔だった。以来今に至るまで、第九天菱号の守り神は代々黒猫のみと決まっている。

 そして何より天菱は、巡航船が客分レジデント船員クルーの資格を設けて定住者を受け入れた最初の世代のシップだ。青菊が、シップに住むなら天菱にしたいと思った理由はそこにある。かつて定住者受け入れ計画を発表した最初期のシップ群のうち、青菊のそれまでの生活圏に最も近いところを飛んでいたのが天菱だった。

 学校に校風があるように、巡航船にもそれぞれの気風がある。これは一定以上の航物がまとまると発生する性質で船心とか船神と呼ばれており、飛行ルートが律儀だとか放浪型だとか様々な性格を示す。生命ではない物質のくせに、定期航路が大体決まっていて人間には変えられないというのがおかしくていい、と青菊は思っている。

 カメラみたいだ。カメラも機械だが、個性は色々だ。

 青菊の好きな本に、小説家で巡航船評論家の添島そえじまたけが書いた『主要巡航船要覧』がある。今となってはずいぶん古い本だが、ベテラン格の巡航船について概要を知るには役に立つ。

 その第九天菱号の項の冒頭には、こうある。


  *


 第九天菱号はごく気紛れなシツプだ. 夜間や悪天候時,この船は矢鱈に移動したがる傾向が明らかである.

 巡航船では『船心(或は船神)』なるものがシツプの性格や航路を左右するが,天菱号は規律正しさで評価すれば中の下,いや下の上と云つてもよいレヴエルである. アラビヤ数字の8を描く航路は必ず母港たる鴬台空港を交叉点とする. 天菱が守る規律と云つたら殆どそれだけだ. 一日何巡するかも不定だし,8の字は時に酷く拡大し,遥か遠方の飛行場に停泊することもある.

 それでも母港を持たず定格航路も無しに放浪し続けるボヘミヤン型の船心に比べたらましなのだらうが,『堅い仕事の勤め人は天菱号に住んではならない』と云はれる所以である. 巡航船から地上へ毎日定刻の通勤がしたければ,同じ鴬台を拠点とするシツプ,例へば冬衛号が無難だ.

 或は船内で働くこと. これで大抵の問題は解決する.


  *


 あるいは船内で働くこと。大型巡航船が定住者を受け入れるという発想の源のひとつは、船内商業施設等の従業員を確保する方法の模索にもあったと言われている。

 青菊は地上の高校に通う必要があったので、航路のふらつきが大きい天菱に住むことは一定のリスクだ。一方で、たとえ写真家として一発屋で終わっても地上で働きたくない、家族の姿と名前を浴びながら暮らし続けたくない、と思っていた。一部のリゾート地や田舎町がそうであるように、シップは世間とある程度乖離している。写真で食べられないようなら本格的に地上を捨てて、シップの中で仕事に就こう、そう考えて客分船員の資格を取った。

 ただ結局、撮影の都合で地上でバイトしてしまっているけれど。

 ……撮りたいものは地上の方に多い。今のところは、まだ。つまり自分は、本当は地上も好きなのだろうなと思う。

 けれどもあんなに息苦しい。

 父も母も姉もあまりにも圧倒的過ぎる。

 彼らから離れた『私』でいることができなくて苦しくなる。

 今朝、柴には言わなかった。昨夜、『夜魚』の花沢にも言わなかった。青菊は、バイト先ではうまくいっていない。

 学校でもバイト先でも、まるで言葉の通じない場所にいるような気分になる。しかも正体がバレるのを恐れて振る舞い続けている。

 辞めようと思っていた。でも昨日の大雪で、オーバーとブーツを新調しなければ死ぬ可能性があると思ってしまった。それからできれば手袋もほしい。貯金は足りていない。要するに働かなければならないので、まだ辞められない。

 本当は、一昨年までに買ってもらったオーバーもブーツも手袋も、地上の実家に置いてある。青菊はまだ背が伸びていて、足のサイズもひとつ上がったから古いブーツは履けなくなっているかもしれないが、オーバーと手袋は十分使えるはずだ。でも置いてきてしまったし、取りに帰るのも、連絡して送ってもらうのも気が進まなかった。

 去年の冬は、冬というものが消えてしまったのかと思うほどの記録的な暖冬で、防寒具なしでもまあまあ過ごせてしまった。だから送ってもらったり取りに帰ったりしなかった。そのまま二度目の冬が来て、今度は街の機能が大半停止するレベルの大雪。

 どうしたものか。

 高一の秋、まだ真新しい制服を着て、カメラと本の他にはほとんどトランクひとつで家を出た。それ以来帰っていない。

 自分はあの家にふさわしい子ではなかったからだ。

 そのあと写真集が一冊出て多少売れたが、その程度では父や母や姉と肩を並べるようなレベルではない。

 恐らく自分が抜けた方があの家は雑味なく完成する、と青菊は思った。

 そのまま、空に千切れた。

 けれども今はまだ仕送りを受けているし、未成年でどうしても保護者との繋がりから離れられない。

 だから付き合いは絶やすわけにいかない。

 連絡が来れば返事をする。

 誕生日に何か送って来ればこちらからも送る。



 クリスマスを迎えた食品売り場はターキーやらケーキやらの売り出しで酷く騒がしい。雪閉せっぺいで商品の入荷は遅れているようだが、それでも大変な賑わいだった。

 洋菓子店のショウケースから選んで、チョコレートを一粒ずつ買う。バラ売りのない店もあったが、そういう店はあまり気にせず通り過ぎた。

 人に贈るものを選ぶなら、一粒ずつを売ってくれないチョコレート屋は信用するな、自分で味を確認してから贈りなさい、と母親のまどかに言われている。そうすれば少なくともはっきりと不味いものを贈らなくて済むから、と。それに、そもそもお金にあまり余裕がない。

 どの店がいいか良く分からないので、とりあえず試食して決めようと思ったのだが、十三粒のチョコレートは女子高生にとって悪魔も同然である。今夜必ずニキビが出るはずだ。


 ……まあ、いい。元々顔が売りの人間じゃない。


 売り場の雑踏から抜け出すと、耐圧ガラスを張った大きな窓から眼下に雲海を見下ろすフードコートがある。青菊は少し考えた。


 ここで食べるか。

 いや、落ち着かないな。やっぱり上に戻ろう。


 窓の外の空は紫色に染まっている。遠くにバスの光が見えた。地上へのラインはまだほとんど欠航だが、巡航船同士をつなぐラインは一部再開されている。

 しばも結局、飛んで何処かへ行ってしまった。もし帰って来なかったら、南極まで一緒に行った一眼レフはお前にやるよとずっと前から言われている。……それはちょっと欲しいけれど、柴がちゃんと帰って来る方が嬉しい、と思った。

 空が綺麗だ。

 早く展望室に行って、チョコレートを試すのは空の写真を撮ってからにしよう。

 ここにいたくないのは多分、クリスマスを天海上で過ごそうと滞在している家族連れが多いからだ。そう気付いて苦笑した瞬間、巨大な空気の塊が辺りの何もかもを無差別に殴りつけるように回転した。

 指先からチョコレートを全部入れた紙袋の持ち手が千切り取られるように離れた、それに気付いた時には足が床から浮いていた。

 ラジオから流れるクリスマスソングが急に遠ざかって耳がすっと寒くなる。ヘッドホンが飛んだ。どうして? ……フードコートが斜めになった、そう認識しながら青菊は床に叩きつけられていた。

 轟音と悲鳴が突沸したような訳の分からない音響の中に青菊はいた。床をてんでに滑る椅子、人、人の持ち物、どこかの商品。あらゆる細かなモノがつぶてのように降っている。横向きに。ぶつかる。思わず目をかばった。

 立ち上がろう、窓を見ようとしたけれど、窓がどっちにあるのか分からない。痛い。どこか痛い、体が動きにくくなっている。ようやく視界に捉えた窓では、防護シャッタがのろのろと降り始めている。大きな耐圧窓の一つが割れて強烈な力で空気を吸い出しているのだ、とようやく脳が理解した。ばん、と嫌な音がして瞬時に窓がひび入り、穴がまた大きくなる。シャッタが進めず同じ場所を行ったり来たりする。

 床に這いつくばった人々の悲鳴を叩き潰すように、耳障りな警報音が響き渡った。

 身体はまだよく動かない。恐らく床に落ちたとき、固定式のテーブルの脚か何かにぶつかってどこかを痛めたらしかった。

 風が渦巻いている。


 これは、航空事故だ。


 頭の中が真っ白になっていた。アナウンスが何か叫んでいるのにちっとも頭に入らない。

 割れた窓の欠損部から直接見える空の紫は、窓越しに見るよりもずっと鮮烈な色をしていた。そんなことを考えている場合ではないのに青菊は、耐圧ガラス越しでさえなければあの色が撮れるのか、と思った。

 風圧で人が引きずられていく。倒れたクリスマスツリーが窓にぶつかって飛び出しざまに割れ目を広げ、更に状態を悪くした。確か今、海上の航路だ。ツリーは海に墜ちる。


 海上に船がいなければいい。空中にもバスがいなければいい。

 何より人が。

 人が落ちないでくれさえすれば。


 ……そう思ったとき、背中から何か大きな硬いものに殴りつけられた。


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