第3話 夜魚――22時8分、第九天菱号
髪を乾かして、
どこもかしこも様々の広告が投影されてチカチカするくらいのことは十分に許容範囲だ。青菊は自分でシャンプーやリンス、石鹸を持ってこない。共用バスルームの中で合計一分あまりの広告を視聴すれば、おおよそ一回分の色々な洗浄剤やトリートメント剤が壁のディスペンサーから受け取れる。シャワー中は音声がなくても構わないテキスト主体の広告がそこら中に流れ、脱衣所ではスキンケア商品や新発売の清涼飲料水、船内イヴェントなどのお知らせが表示される。
この広告類は、船員証での認証時に性別や年齢を読み取った情報から利用者に合わせた内容が表示される仕組みになっていた。だから青菊の利用時にはアルコール飲料やダイエット商品の広告は出ない。それでも時には、子供が認証して入った共用スペースに要レーティング内容を含む広告が表示される不具合が起きてニュースになったりする。
大手通販会社のクリスマスセール広告を途中で見捨てて廊下に出ると、バスルームと自動販売機が並んだ一角には他にも何人かの客分船員がいた。地上で大雪に降られて帰って来れば、誰も考えることは同じと見える。
顔見知りに軽く挨拶をして、青菊は自分の部屋に戻る。
第九
その、天井の低い廊下を歩いていく。絨毯敷きで窓はない。廊下の左右には同じ色をした船室のドアが並んでいた。
巡航船は海の船と違い細長い船体ではなく、そのうえ海の船より巨大だ。フロア図面上はほぼ円形や楕円形であることが多いため、外を覗ける窓のないインサイドの船室の方が遥かに多く、窓のあるアウトサイドの船室は空室待ちが出るほどの人気だった。青菊が運よくアウトサイドの一室を割り当ててもらえたのは、その部屋が例外的に人気の低い『奥地』にあるためだ。
客分船員の居住区には幾つかの出入口があるが、『奥地』というのは文字通り、どの出入口からも遠いエリアを指す。同じような風景の中を、何度も曲がり、悪ければ階段を通り、やっと辿り着ける。奥地になるほど設備や治安が悪いといったようなことは特にないのだが、緊急時の避難ルートが長く迷いやすいことは、例えば身体にハンデのある者や老人・子供のいる世帯にとっては決して無視できないデメリットだ。それに、客を招くにも道順案内がしにくい。
アウトサイドの船室が奥地に当たるというのも本来おかしな話ではあるが、これはかつて客分船員の世帯の多様化に伴って、元々は精々が二人寝起きする程度の広さの船室しかなかったものを一部改築して続き部屋のある家族者用にするなどの対応を進めたためだ。そのやり方があまり計画的でなかった時期があり、結果として各所で通路が細切れになり、階段などを繋いだやや無理矢理な接続も起きた。
避難経路の寸断や複雑化が起こるような改築は防災対策上よろしくないとのことで現在は法律で禁止されている。ただ、天菱はその法律の施行前に段階的に改築を終えてしまっていた。
結果として青菊が割り当てられた船室は、改築の結果、長く曲がりくねった道程の行き止まりに位置することになった。青菊は特に気にしていない。インサイドの船室で南国の海でも極夜のオーロラでも好きな風景を映し出せる大きな
部屋には、壁に固定されたベッドがひとつ、その上下左右に作り付けの収納。二つ並んだ窓に向かって少し長い机がこれも作り付けにしてあり、その脇には小さな冷蔵庫がある。壁に埋め込みのテレビ、それから鏡と洗面台、非常用の内線電話。
実際、小さな部屋だ。でもこれで満足している。
今の自分にはこのくらいがちょうどいい、と青菊は思う。
身体は十分に温まったし、凝りも少しは
夜のうちに天候は回復するだろうか。天菱号は気まぐれな性格の船で、悪天候の時ほど通常航路から大きく膨らんで広範囲を動く癖がある。もしも明朝、天菱がいつものような時間に
そこまで考えながらタオルを干したところで、青菊はひとつ頭を振った。どうも疲れてしまった。洗濯は明日にしよう、と思った時、薄暗い部屋の机の上で
船内の定食屋から通知が来ているらしかった。一目見て、即決定する。そうだ、夕食をとっていない。鯖味噌定食は逃せない。
十分と経たないうちに、青菊は別フロアの商業エリアにある『
既に十時半を過ぎていたが、普段のこの時間帯よりは客が多い。帰船が遅れた人々が沢山いるのだろう。来る途中に見かけた他の店も、比較的混んでいるようだった。
「ああ、お帰り。ここ空いてるよ」
対面式の厨房から、店主の
「ただいま」
年の割には和食を好む青菊を、花沢はかなり早くから気に入ってくれている。
「鯖味噌でいいの?」
「はい。お願いします」
カウンタの席に座ると、固定式の丸椅子から船体の振動が少し伝わってきた。店舗内に窓はないため見えないが、既に雲上である。深い雲と雪を逃れ、船は星空の下を航行する。
「どうよ地上は。酷いみたいね」
「めちゃくちゃです。天気予報、大外れ。ガチガチに冷えちゃいました」
「なんて言いつつ、撮影はして来たんでしょ?」
「それがあんまり……手がかじかんで、うまくカメラ使えなくって。さすがに手袋が要るなあと思ってるとこ」
あんた手袋くらい買いなさいよと花沢は呆れた顔をした。青菊はへらっと笑ってから、出された番茶を飲む。
「死ぬほど寒かったけど、良い絵だったんで明日あたりまたトライします」
「写真ってのも大変だねぇ」
青菊が写真家の
初めての写真集が出版されてから、まだ一年経っていない。写真家としてはまだまだぴよぴよのぴよこですね、と出版社の担当には言われているし、自覚もしている。
最初の写真集はそれなりに話題になった。自分自身、写真が本当に好きだと分かったし、他に将来の夢もない。一発屋で終わるのはちょっと寂しい。
頑張るしかないのだ。
自分の表現だけを武器に世間の評価を問うことは、想像するよりずっと重く、怖いことだった。それでも、自分で選んだ道だから出来るだけのことをしなくてはならない。
毎日最初のシャッタを切る前に、青菊は思う。義務で撮ってる訳じゃない。好きだから、撮る。
好きだから。
だが、フィルムはまた値上がりした。
「フィルムが高くなっても、時給は上がらないし」
「あ、そうか。このご時世に、デジタルじゃないんだもんな」
「今のところは、残念ながら」
「天菱の中でバイトすればもうちょっと時給高いのに」
「でもそれだと、地上に降りるヒマがなくなっちゃうんですよねえ……」
空に住んでも、被写体の大半は依然として地上にある。青菊の欲しい偶然は地上でより多く起こるし、道路や建築外観は巡航船の中にはない。
……それで、思い出した。
最初に捕まえた偶然は、今のところ写真集には載せられない。何年も前に撮った姉の写真を、是非載せたいと思ったけれど断られた。
――写真が足りないなら新しいのを撮ればいいじゃない。
時間は
しばらく間を置いてもう一度頼んでみるしかない。青菊はどうしてもいつか、その古い写真を載せたい。本当ならいつまでも中原家とは関係のない個人としてやっていきたいけれど、出版社が身元を明らかにしたがっている。まあそれはそうだろう、その方が売れるのだろう。気は進まないけれど、中原の娘だと割れた状態で写真集を出すなら、その一回目にやはりあの写真がほしい。
だが、白音と会話をするのは苦手だ。
昔から白音とはすれ違う。
あの写真を撮った時だって。
「……はい、お待ち!」
その時、目の前に鯖味噌定食の盆が現われて、青菊の追想はいったん途切れた。
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