青と白 ―巡航船第九天菱号のクリスマス―
鍋島小骨
十二月二十三日
第1話 帰船――21時10分、鴬台空港
降りしきる雪の向こうに
冗談のように寒い。
街頭ヴィジョンの隅に、気温がマイナス五度と表示されている。これは嫌なものを見た、と
げんなりしたまま持ち上げたカメラのファインダを覗いて、焦点を合わせようとするとピントリングの回転が重かった。数秒後に、シャッタを切った。
指が完全にかじかんでいる。冬季に手袋を持たないというのはこういうことだ。雪山なら死ぬ。手袋と帽子とマフラーと、ちゃんとしたブーツと防寒着がないと死ぬ。
……街でも死ぬかもしれないな。
前の冬は、もはや冬がなかったと言っても過言ではないくらいの歴史的な暖冬だった。だからこれは実質上、肌に感じる二年ぶりの冬だ。
暦の上では確かに冬。しかし少なくとも今日は、こんな温度でこんな天気になる予定ではなかった。お天気お姉さんは、予想最高気温十三度、最低気温八度、降水確率三十パーセントと言ったはずだ。
それが、この大雪である。気温マイナス五度、少し風も出てきた。切り替わったヴィジョンの表示によれば大雪着氷警報が発令されている。
制服に秋のハーフコートを羽織っただけの女子高生には、あまりにも状況が悪かった。
スニーカが雪で濡れて水が沁み、冷たくて気持ち悪い。手と同様、足先も凍えているので歩きにくい。さっさと何とかしないと、本でしか読んだ事のない『霜焼け』になりそうな予感がする。
歩きながらレンズにキャップをつけてカメラのケースを
踏み出すたび、足首まで新雪に埋まる。一歩一歩が重く冷たい。視界の隅で車が緩やかにスピンして路線バスにぶつかり、車の屋根にのっていた雪が物理法則に従って流れ落ちた。遠くで救急車のサイレンが聞こえるが、その音源があまり移動しないのは恐らく渋滞で進めないのかもしれない。
かなり努力してポケットから
寒すぎる。吐いた息は当然白く、鼻の頭に当たって酷く体温を奪う。頬に分厚い氷が張っているのではないかと思うくらい冷たい。微妙に呼吸もしにくくて、余計に疲れる。
とにかく、早く空港に入らなきゃ。
青菊は凶悪な現状をなるべく無視して、未来の事だけを考えることにした。
誰かプレゼントしてくれないかな。オーバーとブーツなんて現実的すぎるプレゼント、誰もくれないか。第一、私にクリスマスプレゼントを贈りそうな人間なんていたっけ?
ふ、と笑うと白い息が少しだけ遠くへ動いた。睫毛に雪が落っこちて来たが、溶けるのが遅い。よくよく冷えている。
もうちょっと、もうちょっとで建物の中に入れる。頑張れ私。
凍死なんてしたくない。
部屋に帰りたい。
雪を踏む感覚がもうあまりない。転ばないように気をつけているのと強烈に寒いせいで、さっきから酷く肩と背中が凝っていた。
路線バスが停まり切れずにバス停を二十メートル近くも超えて斜めに停まった。それを追って、並んでいた人の列がのろのろと動いていく。
街路樹から雪の塊がなだれ落ちて、下を歩いていたサラリーマンを直撃した。撮れたら面白かったのにな、と青菊は溜息をつく。吐いた白い息が鼻先や頬に当たり続け、湿気はたちまち冷気を集めてしまう。冷え切った頬の筋肉はそろそろ動かない。
鴬台空港の外壁面に設置された巨大ヴィジョンには今後の発着予定が表示されている。一時間ほど前から発着情報のネット配信に障害が起きており、
……マイナス七度。下がりやがった。
全く車が来ないタクシー乗り場の大行列を苦労してすり抜け、ようやく鴬台空港の地上フロアに入ると、中は雪から逃れた人々や乗船待ちの人々でどこも大変な混雑だった。店では傘や帽子、手袋などがが売り切れたという張り紙を出している。
気温は外とあまり変わらないような気がする。けれどもそれが、暖房がキャパを超えて暖まっていないせいなのか、自分の感覚が麻痺しているからなのか、青菊には分からなかった。
満員のエレヴェータに乗って、出発ロビーのある上層階へ登る。ぎゅうぎゅうで、まるで朝の電車みたいだ。階数表示の下の細長いディスプレイにテキストニュースが流れている。曰く、『豪雪で一部地域が停電』。この寒さで電気がなかったら、人死にが出るのではないだろうか。
窓ガラスが盛大に結露したエレヴェータからやっと吐き出された頃には、じわじわと皮膚の感覚が戻ってきた。暖かいと言おうか、痒いと言おうか、何とも言えない居心地の悪さ。ただ足の感覚はなかなか戻らない。濡れたタイルの床は、雪道より更に転びそうで嫌だ。青菊はあまり運動神経に恵まれていない。
もうちょっと、もうちょっと。
何だか冷え過ぎて膝もちゃんと曲げ伸ばし出来ないけど、もうちょっと頑張れば帰れる。
出発ロビーの天井には離発着状況を示す巨大ディスプレイが鈴なりになっている。きちんと読むまでもない、表示が全体にとても赤い。おおむね運休し始めているのだ。乗りたい
有難いことに、発着表示のディスプレイには『第九天菱号 乗船中』の文字が出ていた。遅延、天候確認中の文字が続いているものの、天菱はこの鴬台に接岸していてすぐ乗れる。最高にラッキーだ。定刻通りならもっと前に通過しているはずの
青菊はセキュリティゲートを抜けて、天菱号の停泊しているベイへ向かった。ゲート内は絨毯敷きなので、転ぶ心配もあまりない。所々に雪の小さな塊が落ちていて、室温がさほど高くないことを示している。
出発フロアの窓の外には、巨大な天菱号のお腹の部分が見えていた。普段は表示している外装上の巨大ホロ広告も今夜は出ていない。ある程度以上濃い雪や雨の日には広告効果が閾値を下回ると判断されて消灯する。
第九
飛行船とは言っても、前世紀に建設されたものとはまるで別だ。船体は航物という特別な物質で出来ており、鉛直上向きに浮上する航物の特性を利用して航行する。各空港は航物の作用を打ち消す力を備えた特別の物質を使って飛行船を離発着させる。飛行船自体の巨大さや反航物質を使用することなどから、空港は地上を離れ巨大タワーの最上層に置かれることが普通になった。
この数十年で飛行船は著しく巨大化が進み、輸送手段でありながら商業施設、宿泊施設、集合住宅などが抱き合わせになった一種の街として空に存在していた。このような、輸送以外の機能を備え常時運行となった大型船を
これは、単に定期航路を定めた通りに飛ぶということではない。一定量以上の航物を用いた船は、それ自体がおおよその定期航路を固有して自律的に飛ぶようになり、乗り組む人間がどう無理に舵を切っても他の航路に変えることができない。半分生き物のような空中の巨大建造物として
また、
青菊が天菱の客分船員資格を得たのは、単独申請可能年齢の十六になってすぐの頃だった。資格取得からほとんど間を置かず地上から移住して、早いもので一年近く経つ。クルーを除いた天菱の住人の中では若い方だ。お陰で何かと可愛がられるが、人付き合いがあまりうまくなくて今でも多少気を遣う。
それでも地上から飛びたかった。
青菊は、空の上の暮らしが気に入っている。
『第九天菱号よりご利用のお客様へお知らせ致します――』
聴き慣れた地上スタッフの声がスピーカから流れ出す。
『第九天菱号は、只今を持ちまして、旅客定員一杯となりました。これよりのご乗船は、客分船員のみとさせていただきます』
ざわ、と出発フロアの空気が揺れる。ここでもまた文句を言い出す人がいる。
騒がしいフロアをすり抜けて、青菊は改札に乗船証を通し搭乗口へ向かった。
接岸ベイは地上三百メートル程度の高さにある。窓から覗くと濃い雪と反航物質の霧とが入り交じり、何とも言えない眺めだ。停泊帯にお腹をつけてじっと佇む天菱号は、既に離岸準備を終えつつあるらしい。
元々運行時間がフラフラした
顔馴染みの職員に挨拶しながら搭乗口を通り、ブリッジを渡って搭乗した瞬間、思わず溜息が出た。
帰ってきた。
すぐ部屋に帰ってお風呂に入って、乾いた服を着て、ご飯を食べてからベッドで眠る。
絶対にそうする。
少し安心して、青菊は天菱号の乗下船ロビーから住人専用のエレヴェータに乗り込んだ。
ガラス張りの壁越しに、メインホールの雑踏が見える。飾り付けられた合成品の
この大雪がなくても、薄暗く閉ざされる地上を逃れて空の近くへ人が集まる季節だ。
上りエレヴェータの中から見えるホールの大時計は九時半を指していた。八時には戻って来られるはずだったのに。
上六階でエレヴェータを降り、レジデントオフィスの職員にただいまと挨拶して通過。この階の、くねくねと続く通路を進んだ行き止まりにある左舷アウトサイドの一室が青菊の部屋だ。天菱では最も多い、バス・トイレ・キッチンがついていないタイプ。特に料理をしたい訳ではないので、それで全く構わない。やりたいと思えば区域ごとに共有キッチン等もある。
部屋に入ると、濡れた服や靴をどんどん脱いで適当に干し、乾いた服に着替えた。足先はちょっと不安になるほど生白かった。こんな色になったのは見たことがない。写真を撮ろうかと思ったが、何だか悪趣味な気がしてやめた。
船が揺れる。とうとう鴬台空港から離岸したらしい。青菊はバスタオルを抱えて部屋を出た。
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