決断と躊躇

第31話

 雪山に軟禁されて三泊四日。

 ゲレンデとホテル以外に行く場所もなく、部屋に閉じ込められていただけあって、鈴は藤原さんと平野さんとそれなりに親しくなったようだった。そして、私は知らなかった鈴をいくつか知った。


 スキーが意外に上手いこと。

 寝起きが想像以上に悪いこと。

 二人でいるときは、先輩の電話に出ないくらいには想われているであろうこと。


 どれも初めて知ったことだ。

 雪に囲まれた異空間から帰ってきて五日、四人の友情が深まったことに比べると、鈴との関係はそれほど変わっていない。知らない部分が塗り潰されていっても、以前と同じような放課後を鈴と過ごしている。今日もこの授業が終わった後、寄り道をして帰ることになっていた。


 けれど、チャイムが鳴っても先生は喋り続けている。私は、欠伸をかみ殺してから、窓の外を見る。風が強いのか、雲の流れが速い。太陽がグラウンドを照らしているけれど、暖かそうには見えなくて肩がびくりと震えた。

 雲の流れが速いときは、天気が悪くなるという話を思い出す。ロッカーの中に折りたたみ傘が入れっぱなしになっているはずだなんて考えていると、先生が授業の終わりを告げた。


 ほっとする間もなく、担任の先生がやってきてホームルームが始まる。けれど、今日は先生たちに長々と話す呪いがかかっているらしく、ホームルームもすぐには終わらなかった。結局、いつもより十五分ほど遅れて、全てから解放される。と言っても、私には日直という仕事が残っているから、すぐに帰ることはできない。机に向かって、日誌の空欄を埋めていく。


「晶、もう書けた?」


 私の一つ前の席、藤原さんという主を失った椅子に座った鈴が日誌を覗き込んでくる。


「まだ。でも、ここ書いたら終わりだから」


 その日あったことや感想を書く“今日の出来事”なる難題に頭を悩ませながら答える。

 空欄は許されず、かといって『先生の話が長かった』と書くことも許されそうにない。日直のときは、いつもこの欄がなかなか埋まらず時間がかかる。

 当たり障りのないことはないかと考えていると、向かい側から犬か猫かわからないイラストが描き込まれた。


「ちょっと、鈴。邪魔しないでよ」

「晶のかわりに空欄埋めてあげたのに」

「埋めなくていいから」


 私は消しゴムで謎の生物を消して、『修学旅行から時間が経って、クラス内が落ち着いてきた』と記して日誌を閉じる。


「職員室、行ってくる」


 そう言って立ち上がると、「一緒に行く」と鈴も立ち上がり、藤原さんの机の上に置いてあった薄っぺらい鞄とコートを掴む。私も日誌と一緒に鞄とコートを持つ。クラスメイトがまだ何人か残っている教室を後にして、職員室へ向かう。

 二人並んで廊下を歩く。

 職員室へ行く手前、校内でコートを着ないようにという決まりを守っているから空気がやけに冷たく感じる。隣を見ると、鈴の鼻の頭が赤くなっていた。


 職員室がある別館に入ると、明らかにすれ違う生徒の数が減る。二月に入り、三年生が自由登校になったせいかもしれない。三分の一近くの生徒が学校から消えたせいか、物寂しい雰囲気が漂っている。

 来年の今頃は、自分も学校に来ていないかもしれない。

 そんなことを考えていると、職員室に辿り着く。


「日誌、渡してくる」

「鞄、持っててあげる」

「あ、ありがと」


 鈴に鞄を預けて扉を開ける。けれど、職員室に担任の先生はいなかった。私は机の上に日誌を置くと、急いで鈴の元へ戻る。


「帰ろっか」


 声をかけて、歩き出す。窓はすべて閉められていて冷気が遮断されているはずなのに、やっぱり廊下の空気は冷たい。

 早歩きで別館を出て、昇降口へと向かう。

 キュッキュッと赤い上履きが床を鳴らす。

 廊下を歩く音が重なる。

 並んで歩く鈴の手に、指先が触れる。

 さっきまで冷たかった手が熱を持つ。

 廊下には、誰もいない。

 下駄箱が見えてきて、小さく息を吐く。

 私は、隣に手を伸ばす。けれど、手を繋ぐ前に聞き覚えのある声が聞こえてきて、鈴が足を止めた。


「随分と遅かったね。二人で何してたの?」


 下駄箱の影から青い上履きが見えて、すぐに白川先輩が姿を現す。隣を見ると、珍しく鈴が驚いたような顔をしていた。


「……自由登校じゃないの?」


 固い声の鈴に、先輩はまったく気にしていないという風ににこりと笑う。


「休むのも登校するのも自由だから、登校してるの。この制服、着られるのもあと少しだしね」


 先輩がコートを翻しながらくるりと回り、長い髪もふわりと揺れる。

 何度か見たときは結んであった先輩の髪は、今日は結ばれていない。そのせいか、初めて会ったときよりも柔らかい雰囲気を身に纏っているような気がする。


「で、先に質問したの、あたしなんだけど。晶ちゃん、何してたの?」

「えっ、あ、職員室に、日誌を出しに」


 唐突に話の矛先と笑顔を向けられて、あわあわとつかえながら答える。それと同時に、制服の裾を引っ張られて鈴を見る。どうして答えたのかと批難するような目に、私は「あはは」と乾いた笑いを返した。


「日直だったんだ?」

「はい」


 素直に返事をすると、今度は強く袖を引っ張られる。けれど、それほど親しいわけでもない先輩を無視するほど図太くもいられない。仕方がないでしょ、と心の中で呟くと、鈴が不機嫌な声で言った。


「先輩、用事はなに?」

「あたし? あたしは鈴からお土産をもらおうと思って。あと、ちょっと話があるから」

「お土産とかない」


 端的に素っ気なく鈴が答える。

 数日前のゲレンデよりも温度の低い声に、先輩が機嫌を損ねるんじゃないかと背筋がぞくぞくとする。でも、取り付く島もない鈴に、先輩が返したのはため息だった。


「随分と冷たいね。修学旅行中も電話に出ないし、さっき送ったメールにも返事をくれないし」


 先輩はそう言って、持っていたぺったんこの鞄を膝で軽く蹴る。一瞬浮いた鞄は、鈴と同じように何も入っていなさそうだった。


「晶ちゃん。借りてもいい?」


 鈴の緩めたネクタイを掴んで、先輩が私に微笑む。

 声は、鈴に対するものよりも優しかった。けれど、有無を言わせない響きを持っていて、私は言葉に詰まる。


 鈴は貸し借りするものではないし、借りられても困る。

 返事をするなら駄目だと言うべきで、でも、こういうときに駄目だと強く言えるほどの勇気もなくて言葉が出てこない。

 胸の辺りが雨雲に覆われたみたいになって、体が重くなる。

 それでも、駄目だと言おうとコートを掴む手に力を入れると、私が言うべき言葉が私ではない人間から発せられた。


「だめ」


 鈴が短く答えて、掴まれたネクタイを取り戻す。


「鈴じゃなくて、晶ちゃんに聞いてるんだけど」

「晶も同じ答えだから」


 鈴が私の心を読んだみたいな言葉をはっきりと口にする。そして、先輩を見ることなく鞄を私に押しつけると、コートを着て、下駄箱から二人分の靴を引っ張り出す。黙ってローファーを履いた彼女に鞄を返すと、ひったくるようにして私の鞄ごと受け取った。


「電話に出ないだけじゃなくて、そんなに不機嫌そうにされると、さすがに傷つくかな」


 声は、明るかった。

 けれど、張り付いていた笑顔は消えていた。

 先輩が困ったように眉根を寄せて、私の腕を掴む。


「じゃあ、タピオカ」


 言葉とともに腕をぐいっと引っ張られて、思わず「えっ?」と声が出る。


「奢るから、三人で行こっか。それで許してあげる。お土産がないことも、電話に出なかったことも」

「話、今度じゃ駄目なの?」


 強引に話を進めようとする先輩に逆らうように鈴が問いかけると、「今ならいいよ」と即座に返ってくる。

 黙り込む鈴を前に、先輩が私の背中を押す。履け、とは言われなかったけれど、早くと急かすように靴を指さされ、私はローファーを履いて、決まり事のようにコートを着る。


「電話、出なかった過去の自分を呪って」


 二人でするはずの寄り道が三人になることが決定したようで、鈴が諦めたように言った。


「晶、一緒に来て」


 預けっぱなしだった、と言うよりも、奪われっぱなしだった鞄が私の元に戻ってくる。


「じゃあ、とりあえず駅まで行こうか」


 先輩がわざとらしいくらいに明るく言って、歩き出す。

 外に出ると、雪山ほどではないけれど風が冷たい。

 コートのボタンを一番上まで留める。

 空を見ると雲の流れが相変わらず速くて、私は傘がロッカーにあるか確かめて来なかったことを後悔した。

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