第30話

 窓から見える小さな夜空は、吸い込まれそうで不安を増幅させる。雪は、降っていない。室内から見るゲレンデはそれほど寒そうに見えないのに、胃の中が凍りそうに冷たく感じる。


「切れちゃったね」


 ペットボトルの蓋を閉めてゆっくりと言葉を吐き出すと、鈴が確認するように言った。


「本当に電話に出ても良かったの?」

「よくない」

「じゃあ、なんで――」


 私は鈴の言葉を遮って、一気に喋る。


「よくないけど、私のことを無理に好きになって欲しいわけじゃないから。もちろん、先輩が好きだって言われるのも困るけど」

「晶、白川先輩のことどう思ってるの?」

「どっちかって言うと、それ、私の台詞じゃない?」

「私の台詞でもあるの」


 鈴よりも私にしっくりくるであろう言葉を向けられて、少し考える。

 先輩に対して思っていることは、色々ある。それを口にすることは簡単だけれど、色々全部を口にすれば自分が嫌な人間になりそうだということもわかる。そして、何も答えないという選択を鈴が許さないということも知っている。

 だから、短く、簡潔に。

 でも、オブラートには包まずに答えることにする。


「鈴と仲良いし、キスしてたし、好きだと思う?」

「ごめん」

「謝ってほしいわけじゃない」


 遠回りせず、一直線に向けた言葉は彼女を傷つけるためでも、謝罪させるためでもない。ほんの少し、意地悪をしたかっただけだ。

 言葉を選ばなかったことに罪悪感を覚えないでもないけれど、これくらいのことは許されると思う。


「でも、ごめん」


 押しつけるように鈴が言って、短い沈黙が訪れる。

 切り取られた夜空は、ゲレンデの雪のせいか街で見るよりも濃く見える。はっきりと境界があって、夜の闇と雪の白はどこまで行っても混じることがなさそうだった。


「もういいから」


 右手に持ったペットボトルを揺らしながら答える。ぽちゃん、と茶色い液体が容器の中で踊る様子を見ていると、不意にそれが奪われた。

 鈴がペットボトルの蓋を開ける。私が何か言う前に、無造作に容器に口を付けて中の液体を一口飲む。そして、「ありがと」という言葉とともにペットボトルが返却された。

 共有されたペットボトルに、胸の奥がざわつく。友達となら何でもないことが何でもあることになって、頭の中を支配していく。


 季節外れのプールに突き落とされたみたいに体温がおかしくなって、水底へ沈んでいくような気がする。くぐもった音に囲まれた空間でもがいているのは、良い気分とは言えない。

 私は「なんでもない」と心の中で唱えてから、アイスティーを飲む。ぬるくなりかけた液体が喉を通ると、鈴が内緒話をするみたいに静かに言った。


「――お正月のあとも、白川先輩と会ってたって言ったら?」


 彼女の言葉は驚くほどのものではなかったけれど、水の中で漂っていた私の意識がはっきりとする。

 鈴の言葉を咀嚼するまでもない。仮定として提示されたそれは、仮定ではないはずだ。


「やっぱり、って思うだけ。本当は会って欲しくないし、電話にも出て欲しくない。でも、会わないでって言っても、電話に出ないでって言っても、鈴は会いたかったら会うし、電話に出たかったら出るでしょ」


 短く、簡潔にまとめて告げて終わりにしたはずだったのに、飲み込んだはずの言葉が溢れ出る。

 こういう自分は、望んでいなかった自分だ。

 私は吐き出してしまった言葉に、肩を落とす。


「晶の中の私って、最低じゃない?」

「最低だよ」

「どこが好きなの?」


 鈴という人間を客観的に見ると、本人が言うように良い人には分類できない。それでも、どこが好きなのかと尋ねられたら、どこが好きなのだろうと考え、頭の中で数を数えるほどに彼女に心を預けてしまっているのだから理不尽だと思う。


「よくわかんない。よくわかんないけど、鈴と一緒に食べるケーキは美味しいし、一緒に勉強したら楽しかったし、鈴が良いって思っちゃったんだもん」


 不合理な理由を並べて、彼女を見る。


「鈴は、どうしてあのとき私に好きだって言ったの? 雪花ちゃんとは違うから、だけ?」


 夕陽に染まった教室での出来事。

 数ヶ月前に私を選んだ理由を尋ねると、鈴の視線が窓の外へと向けられた。彼女はしばらく暗闇とにらめっこをしてから、ゆっくりと口を動かす。


「……一人でいることが多くて、人から何か頼まれたら断れなさそうだったから」

「私じゃなくても良かったよね、それ」

「お人好しなところとか、優しいところとか。そういうところ、いいなって思うよ」

「言わせたみたいになった」

「言わされたんだよ」


 鈴が口角を上げてくすくすと笑いながら、夜空を映していた瞳を私の方へと向ける。笑い声に誘われるように重くなりかけていた空気が流れ出す。ふわりと柔らかくなった雰囲気に、私は両手を上げて伸びをした。


「先輩のことは好きじゃないよ」


 付け足すように鈴が言って、「本当だから」と念を押す。


「……雪花ちゃんに似てるから?」

「わかんない」


 乱暴に言い捨てられた言葉が、鈴の本当の気持ちを隠す。

 ほんの少しの時間しか雪花ちゃんを見ていないけれど、二人は似ていると思う。それは、鈴が一番よく知っているはずだ。雪花ちゃんに似ていなければ、おそらく鈴は先輩を選ばなかった。


「鈴。私のこと、好きになってよ」

「好きだよ」


 即座に返されて、私は天を仰ぐ。

 油断すると、鍵をかけて閉じ込めておきたい自分がどこからか這い出てくる。無理に好きになって欲しいわけじゃないと言ったはずなのに、その言葉を自ら打ち消したことに嫌気がさす。


「ごめん。こういうつまらないこと、言いたくないのに」

「つまらないことじゃないよ。そういうの、結構嬉しいから」

「鈴ばっかり喜んでる」

「じゃあ、晶を喜ばせるにはどうしたらいいの?」


 尋ねられて、私は「うーん」と唸る。

 一緒にいてくれるだけでいいよ、なんて言うのは少し恥ずかしい。かといって、他に思い浮かぶこともない。だから、私は真面目な顔を作って仰々しく答えた。


「お風呂でからかったり、筋肉痛の私を突いたりしなければ嬉しい」


 すぐに鈴が吹き出して、私は彼女の肩をばしんと叩く。それでも、笑い声は止まらない。


「そろそろ戻ろうよ」


 素っ気なくそう言って立ち上がろうとすると、笑い続けていた鈴が私の腕を掴んだ。ぐいっと引っ張られて、浮きかけたお尻がソファーに着地する。


「ねえ、晶。お風呂で言ってた奥井さんって……」

「続きは?」


 私はすぐに途切れた言葉を促すように、鈴を見た。


「やっぱり何でもない」

「先輩とは違う。友達だよ」


 諦めたように話を切り上げようとする鈴に、間違いのない事実を口にすると、彼女の顔が不機嫌そうに歪む。


「……ごめん。ちょっと意地悪した」

「謝らなくてもいいよ。悪いのは晶じゃなくて、私だもん」


 自嘲気味にそう言って、鈴が立ち上がる。けれど、私がソファーから立ち上がる前に新しい疑問が投げ出された。


「……奥井さんとは、ケーキ食べに行った?」

「行った。一人でケーキ食べても美味しくないもん」

「晶、一人でスイーツ系のお店行くの苦手だもんね」


 鈴の言葉に、息苦しさを感じる。

 きゅっと気道が締め付けられるような気がして、私は静かにゆっくりと息を吸う。

 昔から甘い物が好きだった私は、人見知りで一人では行動しようとしない菜都乃を連れてケーキを食べに行ったり、クレープを食べに行ったりした。菜都乃一人じゃお店に入りにくいでしょ、なんて言いながら。


 いま思えば、それは都合の良い理由で、本当は私自身が一人でそういう場所に行くことが苦手だっただけだ。菜都乃という存在を上手く使って、良い人を演じながら、自分の欲求を満たしていた。

 気がつかない振りをしていた事実に、ぎゅっと目を閉じる。


「藤原さんと平野さん、まだ戻って来ないって騒いでそうだし行こう」


 鈴の声が聞こえて勢いよく立ち上がると、手にしたペットボトルがぽちゃんと音を立てた。私は、中身を飲み干してから空の容器をゴミ箱に入れる。


「よし、出発!」


 意識して明るい声を出すと、鈴が「急ごう」と言って歩き出す。ぺたぺたと筋肉痛の足を引きずって、部屋に向かう。

 私も鈴も、いつまでも過去に囚われている。沼の底から伸びてくる手から、逃れられずにいる。

 でも、いつまでもこのままではいられないことは、私も鈴もわかっている。

 私たちは、足首を捕まえる手を取って沼の底から引き上げ、それと対峙すべきなのかもしれなかった。

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