第22話

 ゆっくり、ゆっくりと。

 鈴が距離を縮めてくる。

 吐き出した息が混じり合う。

 唇に触れる指先に一瞬力が入って、彼女の動きが止まる。

 鈴が視線を落とし、私に触れていた手が離れた。


「ごめん、やっぱりできない」


 珍しく鈴が許しを請うように言う。こんなとき、誤魔化して終わりにしそうな彼女がはっきりと意思を示したことは、好きじゃない、と言われたも同然に思えた。

 縮まった距離はあっという間に離れて、鈴が座り直す。落としていた視線を上げて、私を見る。


「晶、隣に来て」


 今、私を拒絶したはずなのに、随分と我が儘な物言いだと思う。さらりと切り替えられた彼女の気持ちについていけず、座ったままでいると彼女の方から私に近づいてくる。そして、恋人という関係は解消されていないと主張するようにぺたりと肩をくっつけた。


「雪花ちゃん」


 唐突に投げ出された名前に、親しげな近所のおねーさんの顔が浮かぶ。すぐに、「ここに来る途中で会った人」と私の想像を肯定する言葉が付け加えられたけれど、続く言葉はなかった。かわりに、ぎゅっと袖を掴まれる。

 しばらく迷うように袖を引っ張ったり、離したりしてから、鈴がぼそりと言った。


「初めて好きになった人で、初めて付き合った人」


 雪花ちゃんと一緒にいる鈴を見たときの不安。

 あのとき感じた胸の奥のちくちく。

 ピンクのマフラーと、鈴の鞄で揺れていたピンクのキーホルダーが結びついて、ああ、と体から力が抜ける。


「いつも付けてるキーホルダーと、そこのクマのぬいぐるみ。雪花ちゃんからもらったの?」

「うん」

「恋人だったんだ」


 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。


「私にとってはね」

「相手にとっては?」

「違ったと思う」


 鈴が断定的な口調で、不確かな言葉を使う。

 あの人と何があったのかは知らないし、知りようもない。でも、雑誌やテレビの占いなんかよりも正しい言葉なんだと思った。


「私、雪花ちゃんが帰ってきてるって知ってた。だから、晶を誘ったの」

「雪花ちゃんの前で恋人のふりがしたかった、ってこと?」


 適材適所、なんて嫌な言葉がよぎる。肩にかかった体重がやけに重く感じて鈴を少しだけ押し返すと、余計にぺたりとくっつかれた。


「ふりじゃないよ。晶は私の恋人でしょ」

「好きじゃないから、触れられなかったのに?」


 指先は唇に触れた。でも、それだけだった。

 唇同士が触れ合うことが恋人の証、というわけではないと思う。そう思うけれど、好きなら触れたいと言ったのは鈴で、そうすることが出来なかったのも鈴だ。

 お正月早々、生暖かい空気と沈黙が混ざり合って居心地が悪い。私は、居座ろうとする沈黙を窓の外へ追いやるために口を開く。


「今でも好きなの?」

「今、好きなのは晶だよ」


 投げたボールは真っ直ぐに、緩やかに投げ返される。弧を描くようにしてやってきた言葉には、私を納得させるだけの力はない。

 部屋の片隅、イルカのキーホルダーが付けられた薄い鞄が目に入る。

 鈴と一緒に帰るようになってから、ずっと付けられているキーホルダー。

 おそらく私と帰るようになる前から、ずっと付けられているキーホルダー。

 ピンク色のそれがいつも付けられている意味は、考えなくてもわかる。


「嘘ばっかり」

「――本当にするために言ってるの」


 鈴の髪のようにふわりとした言葉が舞い降りる。

 本当の気持ちを聞くために来たはずなのに、聞きたくなかったと思う。


「晶を好きになりたい」


 それは、今は好きじゃないという意味で。

 やっぱり、聞きたくはなかった言葉だった。


「それって、等価交換ですらないよ」


 屋上へ続く階段で聞いた言葉を覚えている。

 

『好きって等価交換じゃないよ。私の好きと晶の好きは同じじゃないし、同じになったりしない』


 目に見えないものを秤で量ったみたいに同じように与え合うなんて不可能だと、知っている。ただ、同じにならなくても、好きでいて欲しいと願っていた。

 思い返せば、私が鈴のことを好きではなかったように、彼女も私のことを好きではなかったのだから、スタートは一緒だった。けれど、私たちはいつの間にか異なる景色を見ていた。向いている方向が違っていたのだから、同じに近づくことすらない。


「私と雪花ちゃんって似てるの?」

「似てない。晶の百倍は不真面目」

「私、それほど真面目じゃないと思うけど」

「真面目な方だよ。雪花ちゃんとは違うから、晶がいい」


 身勝手な理由に「先輩は?」と聞きかけて、その姿が雪花ちゃんと重なる。そういえば、切れ長の目元が似ていた。親しげに鈴と話す雰囲気も似ていた。だから、先輩を選んだんだとわかる。


 私は、そうか、と納得して、酷いなと思う。

 そして、ずるいとも思う。

 鈴はいつだってずるくて、酷い。


 一緒にいると牛乳みたいに白かったはずの気持ちに、コーヒーみたいな黒い気持ちが注がれてカフェオレ色になる。曖昧な気持ちを持て余すことになる。

 こんなのが恋だなんて、馬鹿みたいだ。

 恋をしたら世界が輝いて見えるなんて言うけれど、今、見えている世界はお世辞にも綺麗とは言えない。


 私は、必要なもので構成された鈴の部屋を見る。彼女にとって必要とは思えない私が異質なものに思えてきて、視界がひび割れていく。

 これ以上、鈴に振り回されるのは御免だ。

 今さら好きになりたいなんて、勝手な話だ。

 もう、終わりにしてしまえば――。


 そう思うのに、楽しかったこともいくつもあったなとか、またそういう時間を過ごしたいとか思ってしまう。亀裂の入った世界はカフェオレ色なのに、ちょっとした思い出がキラキラして見えるなんてとても理不尽だ。


「鈴、恋人になってよ」


 彼女と行動を共にするようになってから、私の頭は上手く働かない。頭蓋骨に大切に守られている脳が用をなさない。酷く馬鹿げたことばかりしている。

 鈴と付き合う前の私なら、今、こんなことを絶対に言ったりしない。


「大丈夫。何もしないから。キスしたり、エッチなこともしない。好きだって言ったら、好きだって返してくれたらそれでいいよ」


 放課後の教室で、まだ柴田さんだった鈴から聞いた台詞をそのまま返す。


「晶って、お人好しだよね」

「そういうところが良いんでしょ」

「そうだね」


 隣からほっとしたような声が聞こえて、私は彼女の手を握った。


「鈴、好きだよ」

「うん。私も好き」


 冬休みが終わったら、鈴とまた一緒に寄り道をしようと思う。でも、この休みは、頭の中からピンク色を追い出す作業に費やすことになりそうだった。

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