第20話
いつも反対方向の電車に乗る鈴が下りる駅、そこから十五分ほど歩いて八時五十分、菜都乃とは違って待ち合わせの場所に彼女はいた。
ちらつく雪と同じ色のコートにスカート。
少し寒そうにも見える格好で、神社へと続く坂を見上げている。
私は、寒さに負けてコートのポケットにしまっていた手を出す。歩くスピードを上げようとするけれど、変わらない。それどころか、かえって遅くなった気がした。心臓が耳にあるみたいに、どくんどくんという音が大きく聞こえる。
鈴に声が届くほど近づく前に、足が止まる。私は地面に張り付いた足を無理矢理剥がし、彼女の側へ行く。
「寒くないの?」
白い息と共に、声をかける。
「遅い。寒くて風邪ひく。寝込んだら、晶のせいだからね」
鈴がわざとらしく首を縮こまらせて、文句を言う。寒いという言葉は事実のようで、鼻の頭が赤い。薄雲の向こうに見える太陽の光は弱々しくて、彼女の吐く息も私と同じように白かった。
「一応、約束の時間よりは早く着いたんだけど」
「早いけど、私よりは遅い」
「年が明けても、鈴って感じ」
休み前と同じように振る舞う鈴は、マイペースで私のことなどお構いなしだ。
「年が明けたくらいで変わったら、その方が大事件でしょ。それより、大事なことが一つあると思うんだけど」
私の心の中を読んだかのように言って、鈴がこちらを見る。けれど、大事なことが何を指しているのかわからない。黙っていると、鈴がしびれを切らして口を開いた。
「明けましておめでとう」
おめでたい雰囲気が欠片もない呆れた声が聞こえてきて、私は新年の挨拶すら忘れていたことに気がつく。鈴に声をかけなければという気持ちだけが先走り、お正月の定型文とも言える言葉が頭からすっかり抜け落ちていた。
「ごめん、忘れてた。明けましておめでとう」
ぺこりと頭を下げると、鈴が満足げに「おめでとう」ともう一度言ってから、コートのポケットに手を入れた。そして、こほん、と小さな咳をして、すぐにポケットの中から手を出す。ぐーとぱーを何度か繰り返すと気が済んだようで、口を開いた。
「休み、何してたの?」
「いろいろ、かな。親と一緒に年末の買い出しに行ったり、宿題やったり」
「クリスマスは?」
白い息をたくさん吐き出しながら、鈴が言った。さっきよりも冷たく聞こえた声に、私の肩がぶるりと震える。やましいことはないけれど、何となく答えにくい質問だった。
私は、努めて冷静に答える。
「藤原さんと平野さんに会ってた」
「仲良いもんね」
平坦な声に、皮肉が混じって聞こえる。それは、私の気持ちの問題なのか、実際に鈴がそういったものを言葉に含めたのかはわからない。ただ、急に気温が下がったみたいに私の喉が凍った。
空から落ちてくる雪が鈴に着地する。
髪に、コートに落ちては消える。
私も鈴も気まぐれに舞っている雪を見ているだけで、二人の間から言葉も消える。何事もなかったかのように会話を続けることが難しくて、視線が下を向きかけたとき、鈴が歩き出した。
「そろそろ行こっか」
私は、言葉よりも先に坂を上り始めた鈴を追う。
去年と変わらない自己中心的な鈴に、少し救われる。あのまま空白の時間が長引いたら居心地が悪いし、隣を歩くのも落ち着かない。一歩ほど後ろを歩く方が気が楽だった。
私たちは、ゆっくりとうねうねと曲がりくねった坂を上っていく。
息を吸って吐いて、右足を動かして左足を動かして。
そうやって黙って坂を上っていると、波のように揺れていた気持ちが凪いでいく。
冬の風が肌を刺し、通り抜けて頭の中に入り込む。その冷たさは、ずっともやがかかり、淀んでいた思考を明瞭にする。寒さに手はかじかんでいるけれど、気分は悪くない。
鈴を見る。
いつもと変わらない鈴のようで、思い返すと今日の彼女はどこか違うような気がした。私と同じように久しぶりに会うことや沈黙に気まずさを感じて、自分勝手な理屈を口にしたり、歩き出したりしたように感じる。
都合の良いように考えたいだけかもしれない。でも、そう思うと気持ちが軽くなる。軽くなったけれど、足は重かった。
初めて上った坂は考えていたよりも急で、息が苦しい。鈴のペースも落ちてきて、いつの間にか隣を歩いていた。
「疲れた」
そう言って、鈴が足を止めて空を仰ぐ。はあ、と大きく息を吐き出して、辺りを白く染める。そして、乱れた呼吸を整えることもせずに、恨みがましく空に文句をぶつけた。
「坂、急すぎじゃない? なんでこの神社にしたの。もっと楽なところが良かった」
「鈴の家から近い方が良いかなって」
「良くない。なんで、お正月からこんな酷い目に遭わなきゃいけないの」
「酷い目に遭わせることが目的だったわけじゃないんだけど」
「目的じゃなくても酷い。これ、苦行でしょ」
私は、上ってきた坂を見下ろす。視線の先にあったのは結構な傾斜で、もう一度上れと言われたら確実に嫌だと答えたくなるようなものだった。
「鈴、鷲緒神社来たことないの?」
「ある」
「じゃあ、上るの大変だって教えてくれたら良かったのに」
メールで目的地を伝えたときに忠告してくれたら、他の場所にした。言わなかった鈴にも責任があるのではないかという想いを込めた愚痴を口にすると、間髪入れずに言葉が返ってくる。
「いつもは車だから、歩いたらどうなるかなんて知らなかった」
そっか、と返して、私はこれから上るべき坂を見る。
この坂に関して言いたいことはいくつもあるけれど、文句の言い合いをしているのは建設的ではない。口を動かすくらいなら、足を動かす必要があった。
「苦行でも上らないと、神社に着かないから。もう少し頑張って」
私は道路の端でため息をつく鈴の手を取り、足を止めている彼女を引っ張るように歩き出す。鈴は私の手を握り返さなかったけれど、振りほどきもしなかった。手を引かれたまま、坂を上っていく。
思わず触れた手は、思ったよりも冷たくなかった。もっと体温を感じたくてもう少しだけ強く握ると、重なった手が屋上へ続く階段での記憶を読み出しかける。私はそれを上書きするように、鈴の手を引いた。
意識を手に集めると、伝わってくる温度に足が幾分軽くなる。もう、坂が急なのかもわからない。心臓は、百メートル走でもしたみたいに忙しなく動いている。でも、それは坂を上っているせいなのかもしれない。
ガードレールの向こう側に、小さくなった街が見える。時々、後からやってきた人に追い抜かれ、背中を見送る。息苦しさを感じながらも、右足と左足がロボットみたいに規則正しく動く。けれど、鈴が私の手を強く握り、機械的な動きに割り込んできた。
「晶。ちょっ、と、待って」
言葉と同時に進行方向とは逆に力がかかって、足が止まる。
「休憩」
肩で息をしながら、鈴が言う。
「疲れた?」
「うん。あと三分の一くらい?」
「たぶんね」
カーブの先にある神社を思い描きながら答える。実際に行ったことはないから、頭に浮かんだのは神社のホームページで見た写真だ。鈴の頭の中には、どんな光景が描かれているだろうと少しだけ気になる。
想像が重なることがあるのかなんて考えていると、隣から低い声が聞こえてきた。
「――晶、恨むからね」
「私も自分を恨んでる」
坂のおかげで触れた手は、当たり前のように繋がれたままだった。ぎこちなかった会話も、そうして喋ることが当たり前のように続けることができている。
「神社に着いたら、神様にいっぱい褒めてもらおう」
そう言って、鈴が繋がったままの手をぶんっと振る。
「褒めてもらうって、具体的にはどんなこと?」
「いっぱいお願い叶えてもらう。お小遣いアップとか、成績アップとか、なんかいろいろ」
「高額なお賽銭を要求されそう」
胸を張って宣言された素直な欲望にまみれた願いを叶えるためには、いくら必要なのか。
神様だってそれなりの対価を要求しそうだと思いながら鈴を見ると、自信に満ち溢れた笑顔を向けられる。
「学割あるから、大丈夫。と言うわけで、目的地に向かって出発」
もう一度、繋がったままの手をぶんっと振って、今度は鈴が私の手を引っ張って歩き出す。休憩の効果を感じさせる足取りに、私たちは時間が巻き戻ったように笑う。
鈴に手を引かれたり、私が鈴の手を引いたりしながら、一歩、また一歩と坂を上る。ガードレールの向こうに見えていた街は、随分と小さくなっていた。
人の二倍、いや三倍ほど。
たっぷりと時間をかけて神社に辿り着く。私たちは鳥居をくぐって、手水舎の前で繋いでいた手を離す。片手の中にあった体温がなくなって、冷えかけた手を手水で清める。
それほど有名ではない神社ということもあって、参拝客が長蛇の列を作っているということはなかった。控えめな列の最後尾につけば、あっという間に賽銭箱の目の前で、私は神様にお願いしたいことが決まらないまま百円玉を入れる。
鈴緒を振ってがらがらと音を鳴らして、頭を二回下げて柏手を二回打つ。
神様に頼るなら、鈴のことだと思う。
解決したいことはたくさんあって、でもたくさんを叶えてもらうほど欲深くはなれないし、叶うとも思えない。だから、解決の糸口になりそうな勇気をくださいとお願いする。そして、私の中にそういったものが宿ったかわからないまま、最後に頭をもう一度下げた。
鈴を見ると、私よりも長く神様に何かを伝えていた。
「晶、なにお願いしたの?」
雪がやみ、力を取り戻した太陽の下、鈴が言った。
「鈴は?」
「健康長寿」
「嘘でしょ」
「ほんと。晶は?」
「私も健康長寿」
願い事を口にしたら叶わないなんて言うつもりはないけれど、正直に答えたくもなくて嘘をつく。きっと、鈴も嘘をついているからお互い様だ。健康で長生きをしたいかよくわからない私たちは、神様の前でも素直にはなれない。
彼女は信じたわけでもなさそうなのに「同じかあ」と笑って、歩き出す。
「どこ行くの?」
「おみくじ、引きたい」
神社と言えばおみくじでしょ、と主張する勢いで鈴が朱色の箱の前に立つ。
「自動販売機の中からおみくじが出てくるのって、ちょっとありがたみがないよね。一度、筒の中から棒出てくるやつでおみくじ引いてみたい」
ないものねだりをしながら、鈴が自動販売機に百円玉を入れる。
「筒のやつ、私もやってみたい。一度もああいうので、おみくじ引いたことないし」
「いかにもって感じだしね」
私たちはいつか一緒に引いてみようと言うこともなく、自動販売機から出てきたおみくじを開く。
結果は中吉と小吉。
特別に良くも悪くもないおみくじを読んで、私は中吉のおみくじをみくじ掛に結ぶ。隣には、鈴のおみくじが結ばれる。
並んでおみくじを結んだ私たちは、並んで長かった坂を下りていく。
行きとは違って、手は繋がない。
片手に寂しさを感じたけれど、すぐにそんな気持ちは消えてしまう。足を動かすという確固たる意思がなければ上れなかった坂は、足を止めるという確固たる意思がなければ転げ落ちてしまいそうで、ふわふわとした気持ちを維持してはいられなかった。
駆け下りそうになる足をなだめて、坂を下りる。おかげで、私も鈴も待ち合わせ場所だった坂の下に着いたときには、一日中走り回ったみたいに疲れていた。
「晶、これからどうするの?」
いつもなら、これからどうするのかを勝手に決めてしまう鈴が私に聞いてくる。
今までなら、鈴に任せると答えていたと思う。
でも、まだ今日の目的を果たしていない。
鈴に聞かなければいけないことがある。
彼女の気持ちがどこにあるのか。
私はそれが知りたかったけれど、それを尋ねる前に鈴が言った。
「ねえ、晶。……私のこと、好き?」
久々に聞いた言葉に「うん」と返す。
彼女は何も言わない。目を見ると、続く言葉を催促するように見つめ返される。
「好きだよ」
小さく伝えると、鈴が「私も」と言ってから、生まれた空白を埋めるように髪をいじる。白い指に髪が巻き付けられて、ほどかれる。何度かそんなことを繰り返した後、鈴が私の手を引っ張った。
「こっち」
「え?」
「私の家。まだ時間あるでしょ」
そう言って、鈴が駅とは反対方向に歩き出す。
「元旦に家へ行くとか、迷惑じゃない?」
「今日、誰もいないから。親はおばあちゃんのところに行ってる」
「鈴は?」
「晶と初詣」
「……なんか、ごめん」
「今日の夜、親が迎えに来るから大丈夫。おばあちゃんの家、そんなに遠くないし」
鈴の言葉と足がぴたりと止まる。そして、やや間を置いてから私を見た。
「もう帰る?」
今までなら、来るよね、と言い切って強引に私を連れていきそうな鈴に尋ねられて、首を横に振る。私がしたい話は、外でするよりも落ち着いて話せる場所が良い。鈴の家に行って落ち着ける自信はないけれど、立ち話よりは良いだろうと思う。
「もう少し鈴と話したい」
すっかり寂しがり屋になってしまった片手が、鈴の手を握り返す。心臓の音が少し早くなって、私は誤魔化すようにもう片方の手をポケットに突っ込んだ。
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