第13話

 前日から降り続いた雨は午後にはやんで、雲の合間から太陽がのぞいていた。それでも、冬のお日様には濡れた地面を乾かすほどの力はなく、私たちは水溜まりを避けながら歩く。時々、鈴が右手に持っている傘の先が地面について嫌な音を立てる。

 耳に響く音は不快で、でも鈴にうるさいとは言えなかった。かわりに、今日の授業はつまらなかっただとか、ショーウィンドウのディスプレイが可愛いだとか、たわいもない話で沈黙を埋めていく。


 鈴が笑って、私も笑う。

 さして面白くもない話題でも、笑顔を作ればそれなりに楽しい気がしてくる。つまらない気分のまま歩き続けるよりは、かろやかなとまではいかなくても明るい顔をしている方が気分が良い。


「今日、寒いね」


 かつんと言う鈍い音と共に、うっすらと頬を赤くした鈴が肩をすくめる。


「確かに。そろそろコートの季節かも」

「寒いけど、まだいらなくない?」

「いるよ。風邪ひきそう」


 出てきてもすぐに隠れてしまう頼りない太陽に、夏のような熱はない。人を暖めるつもりのない冷たい風にさらされながら、鈴と同じように肩をすくめる。


「早く行こう。建物の中、入りたい」


 私がそう言って足を速めると、鈴が笑った。


「元気のない高校生だよね」

「元気がなくても、高校生は高校生だから大丈夫」


 傘を握り直して大股で歩く。早足になった鈴と一緒に濡れた歩道を進んでいくと、目的地が見えてくる。

 扉も窓枠も木で出来ているこのお店には、一度しか来たことがない。それでも、その日のことは昨日のことのように覚えていた。私は鮮明な記憶から目をそらし、青い窓枠を横目に雑貨屋の扉を開ける。ドアベルが鳴らすからんという高い音とともに、私たちはお店の中へ入った。


「あれから、ここに来た?」


 あのときと同じように、森の中の隠れ家といった雰囲気の店内を見回しながら鈴に問いかける。


「ううん。欲しいものないし、一人でこういうお店に来ることあんまりないもん」

「じゃあ、友達と来たりは?」

「しないよ」


 素っ気なく鈴が答え、掠れたペンキで塗られた壁を見ながら「晶は」と私の名前を呼んだ。


「こういうお店、一人じゃ来ないんだよね」

「一人で買い物するの苦手だから」


 私の言葉に、だよね、と気のない返事をすると、初めてこの店に来たときに見たクマとは違うクマのぬいぐるみを手に取った。ピンク色のぬいぐるみは彼女の好みとは違うのか、難しい顔をしてクマを睨む。


「欲しいのって、クマのマグカップだっけ?」

「クマじゃなくても良いけど」

「犬とか、猫とかでもいいの?」

「気に入ればどっちでも良いかな」

「じゃあ、犬にしなよ」


 そう言って、鈴がクマのぬいぐるみを棚に戻す。そして、犬のぬいぐるみを私に押しつけた。

 グレート・ピレニーズか、サモエドかよくわからないけれど、白くてふわふわした犬のぬいぐるみを受け取った瞬間、昨日繋いだ鈴の手が触れる。

 指先が少しだけ、温かいのか冷たいのかもわからないような短い時間触れただけだったのに、心臓の音が早くなった。ぴくんと手も震えて、犬のぬいぐるみを落としそうになって慌てる。


 けれど、鈴は顔色一つ変えない。

 薄暗い雲のようなものが弾みかけた心を覆い隠す。彼女の手にもう一度触れたいという気持ちと、ここから離れたいという気持ちがごちゃまぜになって、足元がぐらりと揺れたような気がした。

 私は小さく息を吸い込んで吐き出すと、犬のぬいぐるみを棚に戻しながら鈴に問いかけた。


「鈴は犬派?」

「うん。晶は?」

「――パンダ派」


 猫よりも犬が好きだけれど、鈴が犬が好きだと言ったから好きだとは言わない。子どもっぽいと思われても、犬が好きだとは言いたくなかった。


「やっぱり、クマのマグカップが欲しいんだ」

「パンダだって」

「白と黒のカラーリングに誤魔化されてるけど、パンダだってクマでしょ。だから、同じだよ」


 ぽんと犬のぬいぐるみの頭を叩き、鈴が歩き出す。後をついていくと、すぐにマグカップが置いてある棚に辿り着いた。


「あれ、この前のマグカップ売り切れてる?」

「ほんとだ。ないね」


 私はそう広くもないマグカップの棚を見てから、眉間に皺を寄せる。

 鈴と付き合い始めたばかりの頃、この場所で見たクマのマグカップはそこになかった。欲しいわけではなかったし、そのマグカップでなければいけない理由もなかったけれど、ないとわかったら思い出の一部が欠けてしまったようでどことなく寂しい。

 でも、過去をなぞるようにマグカップを見るのも辛かったから、丁度良いのかもしれないと思う。


「パンダもクマもないけど、どうする?」


 傘でかつんと床を突いてから、残念そうには見えない顔で鈴が言った。視線は、黒い犬が描いてあるマグカップに張り付いている。


「犬にしなよ」


 そう言われて、私は一歩後ろに下がる。

 犬のマグカップの列には、他にも動物が描かれたものがいくつかあった。一つ上の段には、花柄やよく見るキャラクターがプリントされたものもある。

 割れたマグカップの代わりは、あってもなくてもかまわなかった。家には他にもカップがあって、今はそれを使っている。マグカップを買いに行きたいだなんてただの口実で、本当は買わなければいけないものじゃない。

 それでも、私は一つのマグカップを指さした。


「んー、これにしようかな」

「猫?」

「うん」

「私に選んでって言わなかった?」

「言ったけど、こっちの方がいいかな」


 大きな欠伸をしている猫が描かれたマグカップ。

 私はそれを手に取って、レジへ持って行った。

 千円札を渡して、おつりを受け取る。隣にいる鈴を見ると、指先でふわりとした髪を弄んでいた。軽そうな鞄がゆらゆらと揺れている。

 鈴が犬が好きだからと言ったから、猫のマグカップを選んだ。それは彼女に対する小さな抵抗だったけれど、きっと鈴は気がつかない。そんなことは知っている。でも、そうせずにはいられなかった。


 私は、黙ったままの鈴と店を出る。

 相変わらず煮え切らない晴れとも曇りとも言えない天気の中、水溜まりを避けながら駅へと向かう。

 平野さんから借りたCDや最近読んだ本のこと、たいしたことではないけれど私にとって面白かったことを話ながら歩く。鈴は、ときどき相槌を打ちながら聞いていた。

 かつん、と彼女の傘の先が地面をかすって話が途切れる。

 鈴が私を見る。けれど、好きだとは言わなかった。だから、私も好きだと返さなかった。


 駅はすぐそこで、私たちはいつものように別々の電車に乗り込んで家へと向かう。

 付き合う前よりも、鈴が遠く感じる。

 近づきたいけれど、近づくのは怖かった。踏み込みすぎて拒絶されたらと思うと、動けなくなる。遠くなる鈴を見ていることしか出来ない。

 誰もいない家に帰り、着替える前にメールを送る。


「明日は一緒に帰れない」


 用件だけの短いメールに返ってきたのは「わかった」という一言で、理由を尋ねられることはなかった。そのメールは、とても鈴らしいものだったけれど、スマートフォンをクッションめがけて投げるほどには胸が痛かった。

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