第14話
制服を脱いでハンガーにかける。
パーカーとジーンズに着替えてベッドに寝転がると、すぐに母親が帰ってきた。クッションに埋もれかけているスマートフォンを横目に、キッチンへ向かう。夕食の用意を手伝って、父親の帰りを待ってから遅めの食事を済ませる。
感情とは関係なく淡々と過ぎていく時間の中、私は鈴のことを考えないようにしていた。けれど、お風呂に入って気が緩んだ瞬間を狙ったように、さっきまで一緒にいた鈴の顔が頭に浮かんだ。
冷たい風に吹かれながら笑う鈴。
相づちを打つ鈴。
どれもどことなく不満そうに見えたのは、私の心が曇っていたからかもしれない。
一日を振り返りかけて、逃げるようにお湯の中に体を沈めていく。窓から入り込んできていた音や、水が滴る音が消える。お湯の中に閉じ込められ、くぐもった静寂の中で思考が漂う。
鈴が作り出していた踏み込みすぎない関係は、私にとって丁度良いものだった。最初は苦手だったはずの柴田鈴という人間と過ごす時間は、適度に刺激的で楽しかった。
でも、今は一線を引かれた関係に疑問を持っている。
体を包むお湯ように暖かくて、心地の良い関係を続けるのなら、疑問の芽は摘んでしまわなければならない。
こぽこぽと吐き出した泡が作り出す音が遠くから聞こえてくる。息苦しくなって、顔を上げる。
お湯を手のひらですくい上げると、捕まえられない鈴のようにぽたぽたとこぼれ落ちていく。
私はもう一度お湯の中に体を沈めて、鈴を頭の中から追い出す。そして、お風呂の中での用事を手早く終わらせ、キッチンへと向かう。
ぱちんと電気を付けて食器棚を見ると、買ったばかりの猫のマグカップが並べられていた。私は、少し迷ってから透明なグラスを取り出してサイダーを注ぐ。
明日の朝、鈴に会ったら、藤原さんや平野さんにするように「おはよう」と挨拶してみよう。
ぱちぱちと弾ける泡を見ながら、そう決める。
私は、未だに「おはよう」と彼女に言ったことがない。
挨拶一つで何かが変わるなんて思えるほど、楽観的な性格じゃない。そして、そんなことで彼女が変わるとも思えない。
それでも、このまま同じことを繰り返していても鈴と上手くいくとは思えなかった。だから、いつもとは違うことをしてみることにする。
私は、グラスの中身を一気に飲み干す。
体内に入り込んだ透明な液体が鈴への気持ちを包み込んで、弾けて消える。ぱちぱちという音がいつまでも耳に残って、少し気分が悪くなった。
おはよう、という言葉に意味なんてない。
鈴が引いた線を飛び越えるほどの勇気はもうないし、飛び越えるつもりもない。でも、何かせずにはいられなかった。
*** *** *** ***
いつもより十分早く目が覚めたけれど、ホームルームが始まるギリギリの時間に学校へ着くように家を出る。チャイムとともに席に着くことが日課になっている鈴に挨拶をするなら、十分早く教室に入るよりもその方が自然に声をかけられる。
私はそれだけの理由で、遅刻寸前目指して学校へ向かった。
校門の前に立っている先生の「遅い」という声を聞き流し、靴を履き替えて廊下を駆け出す寸前の速度で歩く。階段を上り、教室まであと少しというところで、鈴のふわふわした髪が見えた。
口にする言葉はたった一言。
それなのに、まるで鈴と初めて話すみたいに緊張して、ごくん、と唾を飲み込む。
私はきゅっと音を鳴らして床を蹴って、鈴の隣まで走る。鞄を握る手に力を込めて、彼女に声をかけた。
「おはよう」
掠れてはいなかったけれど、自分じゃないみたいな声が耳に響く。いつもの声を取り戻すみたいに咳払いを一つすると、鈴がぼそりと呟いた。
「おはよ」
これまで一度も言ったことがない言葉に、一度も聞いたことがない言葉が返ってきて、鈴を見る。けれど、彼女は私を置いていくように、足を速めて教室に入ってしまう。それと同時にチャイムが鳴って、私は慌てて鈴の後を追った。
騒々しい教室の中、先生が姿を現す前に席へ着く。
鈴の方へと視線をやると、彼女は窓の外を見ていた。それは見慣れた光景だったけれど、あまり気分の良いものではなかった。
私と鈴が、朝の教室で話をすることはない。もちろん、鈴が私を見ることもなかった。彼女は、放課後以外は私の方を見ない。何がそうさせているのか知らないけれど、鈴は毎日一緒に帰って寄り道するだけという約束を果たし続けている。
でも、時間を共有するのは放課後だけという決まり事はあっても、挨拶をしてはいけないという約束はしていない。だから、ルールの範囲内で出来ることを一つだけしてみたけれど、それは私の気持ちをざわつかせただけだった。
友達みたいに挨拶をしたところで、鈴が友達になるわけじゃない。かといって、彼女を恋人だとも思えなかった。
意気地のない私は、鈴が見ている窓の外に目を向ける。冬空は温かみのない灰色の雲に覆われていて、見ていると憂鬱な気持ちになってくる。
どこまでも落ちていく気持ちを引き上げることができないままホームルームを終えて、机の中から教科書を引っ張り出す。ぺらぺらとノートをめくると、鈴が書いたと思われるイルカなのかクジラなのかわからない絵が目にとまった。
私は消しゴムを手に取って、何が描かれているのかわからない絵を消す。けれど、すべて消してしまうことは出来ない。
私は大きなため息をついてから、机の上に突っ伏した。
空と同じように晴れることがない心を抱えたまま、授業を受ける。
数学も英語もつまらない。
先生の話は通り抜けていくだけで、記憶になることすらなかった。
機械的に授業をこなしてやっとやってきた放課後、私は藤原さんを捕まえる。
「今日、用事ある?」
席を立った彼女に問いかけると、にこやかに答えた。
「平野とどっか行こうって話してるけど」
「……それ、一緒に行ってもいいかな?」
断られるとは思わなかったけれど、声が上擦りそうになって誤魔化すように私も席を立つ。藤原さんは、上辺だけの付き合いを望んでいた私からの申し出を不思議がることもなく、視線を教室の真ん中よりも少し後ろへとやった。
「柴田さんはいいの?」
「いいよ。今日は予定ないから」
「今度こそ、ケンカ?」
「してないって。たまには、藤原さんと平野さんと一緒に帰りたいなって思っただけ」
「その言葉、なかったことには出来ないからね」
藤原さんは楽しげな声でそう言うと、平野さんを呼び寄せる。
「平野、今日は鈴木さんと三人でどっかいこ」
「鈴木さん、今日は一緒に帰れるんだ?」
「うん」
「じゃあ、鈴木さんの行きたいところにしよっか。どこ行きたい?」
満面の笑みを浮かべた平野さんに問いかけられ、頭に浮かんだのはどれも鈴と行った場所だった。けれど、それは心の中にしまっておく。
「そうだなあ」
マロングラッセやショートケーキ、いくつものスイーツを頭の中から追い出しながら呟いて、私は鈴とは一度も行ったことのない「カラオケ」という言葉を口にした。
「鈴木さん、カラオケ行かない人かと思ってた」
驚いたように藤原さんが言って、平野さんがそれに同意する。けれど、提案はすぐに受け入れられて、私たちは目的地を駅前にあるお店に設定した。
教室を出て、自転車置き場へと向かう。平野さんが青い自転車のカゴに三人分の鞄を押し込み、私たちは歩き出す。
「鈴木さん、なんか変わったよね」
校門を出ると、冷たい風に体を縮こまらせながら平野さんが言った。
「そう?」
「うーん。そうだな、距離感が違う」
平野さんが自転車をぐいっと押して、「前はこれくらい遠かった」と私から距離を取る。それを見た藤原さんが笑いながら、平野さんの元へ向かう。
距離にして五歩ぐらい。
平野さんの隣で藤原さんが言った。
「そうそう。前はこれぐらい遠い感じがしてた」
「そんなに遠くないと思うけど」
「遠いよ。これより遠かったって言ってもいいぐらい」
藤原さんが自信満々に答えて、平野さんがさらに一言付け加えた。
「壁作りまくりだったでしょ」
「そんなにすごい壁、作ってないって」
「いや、作ってた。一緒に帰ろうなんて死んでも言わない感じだったし、人間嫌いレベルだったよ」
「嫌いっていうか。距離感わからなくて」
わざとらしく難しい顔を作った藤原さんに、私は言い訳じみた言葉を口にする。
壁を作っていたというよりは、人と関わりすぎない為のバリアを張っていた。
人が嫌いなわけじゃない。人にどこまで近づいていいのか、ずっとわからなかった。だから、近づくことよりも離れていることを選んだ。
「遠慮なく近づいていいから」
私の心を読んだかのように、藤原さんが言う。それを聞いて、平野さんが片手を広げて「私の胸に飛び込む勢いで」と笑った。
「なんかそれ、近づきにくい」
「えー、近づこうよ。ほら、早く」
平野さんが自転車を藤原さんに預けて、今度は両手を広げた。私が五歩の距離を四歩で歩いて藤原さんの隣に立つと、平野さんが不満げに「ええー」と叫んだ。
たわいもないやりとりを続けながら、私たちは駅前へ向かう。
二人との距離が五歩近づいたとは思わない。それでも、二歩くらいは近づけたような気がする。かわりに、鈴との距離は三歩くらい離れたように感じた。
鈴と一緒にいたいけれど、いたくない。一緒にいると考えたくないことをたくさん考えてしまうから、離れていたくなる。近くにいると、何かしなければいけないような気がして苦しくなる。
はやる気持ちに任せて行動することに、あまり良い記憶がない。
今は、藤原さんや平野さんといるほうが気が楽だった。
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