第8話
珍しく私たちは、教室にいた。
紅葉を思わせるような赤い太陽が沈みつつある放課後、鈴が空と同じ色に染まった雲を見ている。
「なんで黙ってるの?」
頬に夕陽の色を映した鈴が感情のこもらない声で言った。
授業が終われば、みんなが帰った頃に私と鈴は放課後デートという名の食べ歩きに出かける。今日もそうする予定だったけれど、私が鈴を呼び止めた。
立ち止まったまま、鈴は私の言葉を待っている。でも、私は呼び止めたまま、彼女に何も言えずにいた。
鈴が空虚な時間を潰すように、襟首の辺りで切り揃えられたふわふわした髪を指先で引っ張り、離す。柔らかそうな髪が風のない教室で揺れる。無造作に机の上に置かれた鞄は、赤に染められて奇妙な色をしていた。
何度か髪をおもちゃにして遊んでいた鈴が空に背を向け、私を見る。
「話がないなら、行こうよ」
鈴が机の上に置かれた鞄を持つと、薄くて軽そうな鞄にそぐわないイルカのキーホルダーが揺れた。
私は鞄が置いてあった机を掴み、身を乗り出す。
目の前には、重苦しいはずの冬服を軽やかに着こなす鈴。
彼女が綿菓子よりも柔らかそうな髪に触れ、乱れてもいない毛先を整えた。
「ちょっと待って」
私が口にしたいことは緊張するほどのこともないたわいもないことで、ちょっとした世間話の延長のようなものだ。大丈夫、と頭の中で唱えてから、喉の奥から出てこようとしなかった言葉を絞り出す。
「あのさ、昨日って……」
「昨日?」
「先に帰ってってメールくれたけど、何か用事があったの?」
声は震えてはいない。
そう、震えるはずがない。大それた話をしているわけではないのだから、体が強ばるなんてことの方がおかしいのだ。
「ちょっとね」
唇を小さく動かして鈴が言い、私は続く言葉を待った。けれど、話はそこで途切れ、教室にはグラウンドで部活動に勤しむ生徒の声だけが漂う。
私は鈴に近づけた体を戻し、埃もないのに制服を叩いた。鞄を手にして、鈴に「そっか」と答えてから「行こう」と声を掛けた。
「急にどうしたの?」
沈む太陽が色を付けた教室を後にして廊下を歩いていると、鈴が少しだけ責めるような口調で言った。
「どうもしないけど。ただちょっと」
「ちょっと?」
「私って鈴のこと、何も知らないなって思って」
抱えきれないほど、たくさんのことを知りたいわけじゃなかった。例えば、手のひらですくえる水くらいの量。今よりも少しだけ鈴のことを知りたいと思った。でも、鈴のことを探るような言葉を口にした途端、私は夕焼けの色よりも濃い後悔に囚われる。
端的なメール。
少ない接点。
考えるまでもなく、鈴は詮索されることを好まない。
「知ってるでしょ。私はモンブランが好きでショートケーキが好きで、他にはクレープとか。いろいろ甘いものが好き。あと、短いメールが好き」
鈴は、私が知っている数少ないことを流れる水のように淀みなく並べた。
「それは知ってるけど」
「それだけ知ってたら、充分だと思うけど。……他に知りたいことって何なの?」
棘、とまではいかないけれど、ちくちくとした突起のようなものが含まれた声だった。
私に抗議するように鈴がぺたんとした薄い鞄を勢いよく振り、ピンク色のキーホルダーが揺れる。一度口に出した言葉は消えることなくこちらに向かってきて、私はその場しのぎに世間話の延長どころか、お見合いの定番文句であろう台詞を口にした。
「……趣味、とか?」
「知りたいことってそんなこと?」
私はこくんと頷く。
「晶と放課後、一緒に帰ること」
「え?」
「今の趣味」
「そういうの、趣味って言うの?」
「言うの。あ、あと晶から好きって言ってもらうのも趣味かな」
「それ、悪趣味」
昨日、一緒に帰ることができなかった理由。
三年生の教室にいたという話。
聞きたかったいくつかのことは心の奥底に沈めて蓋をして、下駄箱から靴を取り出す。ローファーをコツンと置いて上履きをしまうと、鈴が耳元で囁いた。
「晶、好き」
「……私も好き」
小さな声で返すと、鈴が楽しげに笑う。
靴を履いて、校舎を出る。
学校の外と内を隔てる境界線、校門の前で鈴が言った。
「私が好きだって言ったら、晶が好きだって返す。そういう関係。それでいいでしょ」
理不尽だと思った。
けれど、ルール違反だと責めるような鈴に、私はそれ以上何も聞くことができなかった。
*** *** *** ***
あれから、私と鈴は変わらない放課後を過ごしていた。
甘いものを食べて、雑貨屋に行って、時々ハンバーガーを食べてというありふれた日常が積み重ねられていく。当たり前が折り重なった日々。でも、当たり前が山積みになる前に、よく観察すれば鈴が時々姿を消すことに気がついた。
昼休みの教室。
鈴がいないことがある。
どこへ行っているのかは聞いていない。この間の一件もあって、聞いてもはぐらかされてしまうだろうことをあえて聞きたいとは思わなかった。また、あのときのような鈴を見たくないと言った方が正しいかもしれない。
いつそうなったのか自分ではわからないけれど、鈴と適度な距離を保とうとしていた私は、彼女から距離を置かれたくないと思うようになっていたらしい。
「柴田さん、今日なんか憂鬱そうじゃん」
午前中の授業が終わって浮かれてざわつく教室で、平野さんがお弁当を突きながら私を見た。
「あ、期末テストがヤバそうとか?」
大きなミートボールを二口で胃の中に納めてから、藤原さんが不穏な台詞を楽しげに口にする。
「それなら、私もだ。勉強、まったくしてない」
「ちゃんと勉強しようよ、平野」
「藤原にだけは言われたくない。どうせ、藤原も勉強してないでしょ」
「まあ、そうだけどさ。柴田さんはどうなの?」
「うん。私もしてないかな」
中間テストは、鈴と一緒に勉強をした。そんなことを思い出しながら、私はハンバーグの下に敷かれていた元気のないレタスを口の中に放り込む。歯ごたえのないしんなりとしたレタスは、植物だった頃の面影すらない。
私はやる気のないレタスを飲み込んでから、鈴を見た。
教室の真ん中よりも後ろの席。
彼女はいなかった。
落ち着きのない教室を見渡すと、視界の端に鈴が扉をガラガラと開けている姿が映る。私はお弁当箱の蓋を乱暴にぱたりと閉めて、巾着袋に放り込む。
「ごめん。私、ちょっとトイレに行ってくる」
唐突に立ち上がった私に藤原さんと平野さんが驚いた顔をしていたけれど、私はもう一度「ごめん」と謝って教室を出た。廊下に鈴の姿はない。けれど、私は迷わずに三年生の教室がある隣の校舎へ向かう。
休み時間は、あと二十分ほど。
ぺたりぺたりと足音を立てて廊下を歩き、階段を下りる。渡り廊下を早足で進んでいけば、青い上履きが増えていく。
悪いことをしているわけではないけれど、上級生とすれ違うときは少しだけ緊張する。一つしかない年の差が随分と大きなものに感じられて、鈴が三年生の教室に行く理由を想像することもできない。
私なら、理由があっても上級生の教室に行きたくない。これまでに委員会の用事で上級生の教室に何度か出入りしたことがあるけれど、廊下と教室の境界を越えた瞬間、好奇心を湛えた瞳で見つめられるのは心地の良いものではなかった。
一組、二組、三組。
落ち着かない気分で三年生の教室が並ぶ廊下を端から歩いても、開きっぱなし扉からこっそりと中を覗いて見ても、鈴の姿は見当たらない。
私は、長く細く息を吐き出す。
こんなことをしている目的は何なのか。
鈴を見つけてどうしたいのか。
何も考えていなかった。
後先考えずに、追いかけてきただけだ。
雲のようにただ流されてばかりで行動的とは言えない自分に、勢いに任せるだけの気力があったことに驚きつつ、私は踵を返す。
落ち着いて考えれば、気乗りがしなかった関係で、鈴をこんなにも気にする理由はない。
私は見知らぬ先輩たちとすれ違いながら、窓の外を見る。冬がもうそこまでやってきているせいか、空は高く澄んでいた。親しげな太陽が肌を焦がす夏の終わりとは違う冷たさを感じる。
視線を二年生の校舎にやれば、屋上に人影が二つ。
期末テストが近い十一月、暖かいとは言えない屋上に人がいるのは珍しかった。
「……鈴?」
人影の一つに見覚えがあるような気がした。
いつも見ている鈴と完全に重なったわけではなかったけれど、引っかかりを感じる。どくん、と心臓が自分のものじゃないみたいに脈打つ。足が自然に屋上へと向かう。
走らない程度に急いで二年生の校舎へ戻り、階段を上がる。けれど、屋上に辿り着く前に聞き慣れた声が聞こえて私は足を止めた。
深呼吸を一つ。
上履きが立てようとするぺたりという音を消し、階段を上がると屋上と階段を隔てる錆びた扉の前に鈴がいた。
その隣には、友達と言うには近しい距離に青い上履きを履いた誰か。
二人の向こう側、屋上へと続く扉がやけに厳めしく見えた。
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