第3話
柴田さんと一緒に帰って、寄り道をして、朝が来たらまた学校へ行く。十日ほどそんなことを続けていたら、それが日常の一部になっていた。不本意ではあったけれど、柴田さんと過ごす時間は不快ではない。マイペースな彼女に振り回されてばかりだったが、私はそれを受け入れていた。
「鈴木さん、おはよー」
クラスの半分ほどが生徒で埋まり、ざわざわとした空気で満たされている教室に聞き慣れた声が響く。薄っぺらい文庫本から顔を上げると、声の主は同じ中学だったという一点で繋がった友人、
「おはよ。寝坊したの? 随分遅かったけど」
ががががっと音を鳴らしながら椅子を引き、私の前の席に座った藤原さんに声をかける。すると、藤原さんはぐるんと体をこちらに向け、顔を顰めながら一気に捲し立てた。
「二度寝した。もう、最悪だよ。バス混むのが嫌だから早起きしてるのに、寝坊したからいつものバスに乗れないし、次のバス乗ったらやっぱり混んでるし」
「だから、今日よれよれなんだ。なんか疲れてるもん、顔」
「何もしたくないくらい疲れた。あー! もう、帰りたい」
そう言うと、藤原さんがぱたりと私の机に突っ伏す。両手を広げてだらりと机に張り付く藤原さんは、潰れたカエルみたいに平べったくなっていた。そんな彼女に、威勢の良い声が飛んでくる。
「じゃあ、一緒に帰るかっ!」
いつもこの時間に登校してくるもう一人の友人、
「ちょっ、痛いっ。平野、手加減!」
「目が覚めて丁度いいじゃん」
「良くない! 本気で痛い」
潰れたカエルだった藤原さんがポンプで空気を入れられたみたいに起き上がり、平野さんに文句をぶつける。
私たち三人は一緒に休み時間を過ごして、お昼を食べる。放課後は、帰り道が違うから、私は彼女たちと一緒には帰らない。藤原さんと平野さんはどうなのか知らないけれど、私は二人の家に行ったこともない。それでも、友達と言って差し支えない存在だと思う。
もちろん、それは分類するならば友達というくらいの軽いもので、私たちは心を許しあっている存在というようなくすぐったい関係ではない。きっと、藤原さんも平野さんも同じように考えているはずだ。
「あ、そうだ。鈴木さん、これ」
藤原さんと話していた平野さんが、鞄の中から派手なジャケットのCDを取り出す。
「この前、貸すって言ってたCD」
「あ、ありがと」
「三曲目、おすすめだから。あと、五曲目。絶対いいから聴いて」
はい、という言葉とともに、平野さんからCDを渡される。配信されているデータを買って音楽を聴くなんて味気ない、と常々言っている彼女はCD派で、ときどきこうして私にCDを貸してくれる。
「三曲目と五曲目ね。帰ったら、聴いてみる」
一言で言えば、平野さんは宣教師のようなものだ。布教活動をするように、好きなアーティストを強力におすすめしてくる。その中には趣味にあうものもあれば、あわないものもある。ギザギザした横文字が大きく描かれた今回のCDは、趣味にあわないものに入りそうだった。
私は平野さんのCDを読みかけの文庫本と一緒に、鞄の中にしまう。
少し暑いくらいの窓際の席。
前から数えても、後ろから数えても同じ真ん中辺りで、程よく教室の空気に馴染めて居心地の良い席から視線を窓の外へとやると、重苦しい冬服にはそぐわない太陽がグラウンドを照らしていた。
話し声や笑い声でいっぱいの教室にチャイムが響く。高校に入学して一年と半年ほどが過ぎて、唐突にできた恋人らしき人である柴田さんが、今日もいつもと同じようにチャイムとともに教室にやってくる。
私は今まで一度も、柴田さんにおはようと言ったことがなかった。彼女と過ごすのは放課後だけ。その約束はしっかりと守られていて、私はこの先も彼女におはようということはなさそうだった。
柴田さんが席につくと、すぐに先生がやってきて短いホームルームが終わる。そして、あっという間に授業が始まる。
私は、こっそり柴田さんを見る。教室の真ん中よりも後ろの席。今日も、彼女はこちらを見ていた。正確に言えば、私を飛び越えて窓の外を見ていた。ときどき、ノートにペンを走らせているが、彼女はいつも授業のほとんどを窓の外を見て過ごしていた。
「
ぼそぼそとした聞き取りにくい先生の声に、私は教科書に視線を落とす。名前を呼ばれた廊下側の男子が、教科書に書いてあるアルファベットを日本語みたいな英語で読み始める。
例えばあの日、告白してきたのが彼だったら心が躍ることがあったんだろうか。
考えてみるけれど、ドキドキすることはあっても楽しい気持ちにはならなそうな気がする。それは、私が秋山君にそれほど興味がないからかもしれなかった。
だから、今度はもう少し興味を持てそうな相手を想像してみる。
告白をしてきたのが藤原さんだったら、平野さんだったら。
頭の中にあの日の教室を再現して、藤原さんと平野さんを交互に立たせてみる。けれど、想像の中でも二人は友達で、恋人としてみることはできなかった。
秋山君が教科書を読み終わり、私はページをめくる。
教科書には、意味の分からない単語が並んでいる。
いくつもの単語を組み合わせ、一つの文章を作っているそれは、私の頭の中で意味のある言語として認識されない。ところどころ日本語に変換されるけれど、頭の中ですべてが繋がることはなかった。
教科書に印刷された文字たちは、まるで私と柴田さんの関係のように思える。
私は、ぺらり、と教科書をもう一ページめくった。次のページにもその次のページにも、英単語が並んでいる。私は頭が痛くなりそうで、彼女も見ているであろう窓の外に目をやった。
輪郭がはっきりとした大きな雲がないせいか、夏よりも空が遠く見える。その下では、小豆色のジャージを着た生徒たちがグラウンドをぐるぐると走っていた。
同じ窓を見ていたとしても、私と柴田さんの目に同じものが映っているとは限らない。今日は、そんな当たり前のことが少しだけ気になる。
おかげで、英語と日本語が入り交じる授業は、気がついたら終わっていた。
黒板に書かれた読みにくい文字が消えていく。
私は教科書とノートをしまい、鞄から文庫本を取り出す。しおりを挟んだページを開き、続きを読み始める。
本はほどよく時間を潰してくれるものであると同時に、私を守ってくれるバリアみたいなものだった。本を読んでいれば、話しかけられることがない。藤原さんと平野さんも挨拶はしてくるけれど、それ以外では余程の理由がない限り話しかけてこない。
放課後は、柴田さんと約束がある。
私は今日の休み時間すべてを文庫本に捧げることに決め、物語の探偵と共に犯人探しを始めた。
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