マジック

うちで小槌

2号線

ぼんやりと浮かんだ彼の姿が、雨粒と一緒にワイパーで拭い取られ、私はハッとした。


私を乗せたタクシーは、私の知らない道を、だからこの道の普段の交通量も知らないけれど、深夜だからかもしれないけれど、ほとんど車の走っていないこの道を、快適そうに走っている。


信号にもほとんど引っかからないものだから、小雨だと思うけれど、なかなかの勢いで雨粒がフロントガラスを叩き続けていて、私が後部座席からぼんやりと雨粒を数えるように見つめていると、粒と粒が次第に繋がって、彼の顔に見え始めた。そして違和感を覚える前にワイパーがそれを拭い取ったのだった。


ああもスッキリしたはずなのに、や、させたはずなのに。自らの無意識を憎んで、フロントガラスから目を背けた。

無意識を意識すればするほど、全てが彼に繋がりそうで、運転座席の裏、運転手の顔写真でさえ、どこか彼と血縁がありそうな顔に見てえてくるのだから気持ちが悪い。


タクシーのエンジン音と雨音だけが流れる。


運転手のおじさんも、半泣きで乗り込んできた私を見て何を察したか、行き先を聞く以外で口を開くことは全く無かった。


「どちらまで?」


と聞きながら運転席から後部座席を振り返ったときに、おじさんは半泣きの私を見て何を思っただろう。

家の近くの、私からすればそこそこ大きい公園の名を告げたあとのピンと来てない運転手の顔を思い出す。


「公園?ごめんね、分からないけど、あー、もしかして2号線沿いのところかな?」


公園の場所を説明するのも面倒だった私は、じゃあそれで、と投げやりに返事をした。


乗車時のそんなやり取りを思い返して、ああそういう事だったのか、と理解した。


おじさんにしてみれば、2号線は一般常識で、普通で、その普通が私の普通とは違って、たったそれだけなのだ。


彼の普通も2号線だった。


普段、自動車に乗らない私。初めて家まで送ってくれたあの日、やはり公園の場所を知らない彼は2号線沿いだというコンビニまで車を走らせた。そこからは私の拙いナビのもと、アパートの前までたどり着いたのだった。

それも、自転車で走るルートでナビしたものだから、どうやら一方通行専用道路だったらしく、無様にも対向車にクラクションを鳴らされたのだ。


アパートの前で、運転席側の窓を開けた彼はこう言ったのだ。


「ここに公園なんてあったんだね」



無意識にフロントガラスに目を戻していた私は、真夜中の街並みを背景に、また彼を思い出していた。

キリ良くワイパーが拭い取る。



この場に彼がいたらきっとこう言うだろう。


「2号線で分かるでしょ、普通」


そしたら私は、また、こう叫んで、彼の肩を小突くのだ。


「普通って何よ! 何が普通なの!」



ほんの数十分前にも同じ叫びをした。

家族の次くらいに長い付き合いだった彼の口癖「普通」。


「普通に美味いよ」


「普通に大丈夫」


「普通に考えてさ」


「普通おかしくない?」


今までは、気付いてはいたけれども、たいして気にはなってなかったその口癖が、何故だか急に癪に触って、私はそう叫んだのだ。


まあなんというか、すごく単純に、キレた。


「あなたの普通なんて興味ないの、私に押し付けないで」


お互い、仲良くやっていたように見えて実は心のどこかを擦り減らし合いながら愛していて、擦り減って溜まった心のカスを、フッと吹き飛ばして、それがもくもくと喉を上って、お互いに罵り合った。

どうやら私の方の心のカスが先に飛び切ってしまったみたいで、スッキリした気がして、まだ物言いたげな彼の目を、きっと涙でぐしゃぐしゃになってる顔で睨み、別れを告げたのだった。



運転手のおじさんが彼と同じように2号線を口にして、そして公園を分からないと白状してきて、私はふと気付いてしまった。


2号線が普通じゃなくて、公園が普通でもなくて、私は2号線を知らなかっただけで、運転手のおじさんと彼が2号線を知っていただけ。


彼の普通を拒んだ私は同時に私の普通を押し付けようとしていたのかもしれなかった。

それは好きだからとか、恋仲だからとか、そういう具体的な話じゃなくて、井の中の蛙じゃないけれども、外は大海じゃないかもしれないけれども、単純に知らなかったのだ。

ただ、お互いに拒むことしかできなかったのだ。



雨はもうフロントガラスを叩くのをやめたようだ。


速度を緩めたタクシーは、見覚えのあるコンビニの前で停車した。


「ここら辺かい?」


無意識に降りる用意をしていた私は、ハンドバックから取り出しかけていた財布をもう一度しまった。


「この先、右に行ってください」


「はいよ」


ウインカーが右にきられる。


こういう時の、もう取り返しがつかないだろうという感情は諦めではなくて、納得で、それは彼の言う普通に納得したのではなく、彼の普通と私の普通と運転手のおじさんの普通とが少なくとも世界にはあって、きっともっとあって、「普通」の内容までは知らないし興味がないけれども、そういう「普通」が普通はあるのだと知れた。という納得だ。



「一方通行があるので、しばらく進んだら左折してください」

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