私の好きだった人

海月陽菜

前編

「私、好きな人がいたんです」


 酔った勢いで、普段なら言わないような台詞せりふを静かに口にしてみた。


「……ずいぶん唐突だね」


 カウンター席で隣に座っている男性からの、落ち着いた返答。

 自分のグラスを見つめたままだったから彼の顔は見ていないけれど、きっと困ったように笑っているに違いない。それくらい、声の調子でなんとなくわかる。


「だって、ずっと好きだったんです。それなのに……」


 都内にある少し洒落た感じのバーで、私は今日一番話したかったことを切り出していた。


「意外だなあ。いつもおとなしい山城やましろさんにも、ちゃんと好きな人がいるんだね」


「ちょっと佐藤さん、それどういう意味ですか?」


 思わず左を向くと、私の先輩がいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを向いていた。


「怒らないで? 本当に悪い意味じゃないんだから。そもそも、山城さんに飲みに行こうって誘われたのも意外だった」


 私だって、自分でもびっくりしている。同期の女の子ならまだしも、先輩、しかも男性の先輩を誘うなんて、普段の私にはあまり考えられないことだった。


「でも、今日はどうしても話を聞いてほしくて……」


「君がそういうならよっぽどのことなんだね。でも、俺なんかでよかったの?」


「もちろんです。佐藤さんがよかったんです」


 そう言って、また少しだけ佐藤さんの顔を見た。

 まっすぐできれいな瞳に見つめられて、一瞬で目を逸らしてしまった。


「そうか。……どんな人だったの? その、好きだった人って」


「優しくて、落ち着いてて、仕事ができて、みんなに好かれてて……」


 私はまた、目の前の真っ赤に透き通ったカクテルの水面を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「私、その人に少しでも近づきたくて、少しでも認められたくて、ずっと頑張ってました。実際は近づくどころかどんどん離れていく気がして、余計に焦って……」


 今日はやけに素直に喋れるな、と自分で思った。

 普段ならこんなこと、誰にも言わないのに。


「山城さんは十分頑張ってると思うけどなあ」


「私なんか、まだ三年目で失敗ばかりです。それだけでもつらかったのに……」




『――さんって彼女いるらしいよ』


『えーっ、それ本当⁉』


『うん。営業部の友達が、すごくきれいな女の人と一緒にいるところを街中で見かけたって――』




「……その人には、既に付き合っている人がいた、と」


「そうみたいです……」


 信じたくはないけれど、どうやらそうらしい。

 偶然聞いてしまった噂話。

 それだけでも私の頭を真っ白にするには十分だった。

 私の片想いは突然終わりを告げ、でもそんなことをすぐに受け入れられるはずもなかった。

 つらい想いを打ち明けたくて、同じ部署の直属の先輩であり、私が一番信頼している佐藤さんのところへ行った。

 

『聞いてほしいことがあるんです。今夜、一緒に飲みに行きませんか?』


 勇気を出して、私の向かい側のデスクにいる佐藤さんに声をかけた。

 佐藤さんは、最初に驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。


『いいよ。ちょうど行ってみたかったところがあるんだ――』


 仕事が終わったら、会社のロビーに集合ってことで。

 そう言って佐藤さんは、また仕事に戻っていった。




「そうか……それは残念だったね」


「……」


 話しているうちに苦しさと悲しさが溢れてきて、泣きそうになるのを我慢しなければならなかった。


「せめて気持ちだけでも伝えて終わらせたかったけど、そんなの迷惑ですよね」


 そんなことない、と佐藤さんは穏やかに否定した。


「山城さんは本当に頑張ってるし、素敵な女性だと思うよ。そんな山城さんに好きになってもらえたって知ったら、その人もうれしいんじゃないかな?」


 佐藤さんの優しい言葉で、私は涙をこらえきれなくなってしまった。


「それでもやっぱり、諦めないと、だめですよね……そんなことは、わかってるんですけど……」


 本当は、恋人がいると直接聞く前に二人だけで会って、自分の想いを伝えたかった。


 だから今日、初めて私から誘った。

 お酒の力も借りて、伝えようと思った。

 そのために、お酒に強いわけでもないのにいつもより多めに飲んでいる。

 正直今途中まで飲んでいるのが何杯目かなんて覚えていない。


 本当に言っていいんですか? 迷惑じゃないですか――?


「佐藤さん……」


 こんなつらい思いをするのなら、いっそ忘れてしまいたい。

 あなたへの想いも、終わってしまったこの恋も、全部――。


 隣に座る彼に聞こえるかどうかというくらいの声で、私はずっと好きだった人の名前を呼んだ。

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