粒粒辛苦

東雲 彼方

眼鏡

 昔、私は眼鏡というものに憧れていました。


 眼鏡を掛ければ見えない世界も見えるような気がしたからです。見えない世界でなら私の悩みも小さなものに思えるような気がしてならなかった、レンズの先は私の見たことの無い世界が広がるんだとばかり思っていたのです。

 只其れだけの為に父の眼鏡を奪ったりしていました。目が悪くなるからお止めなさいと言われても、私はそのレンズを覗き続けていたのです。其の時は視界は歪みました。きっと此れは私の心と此のレンズとの相性がまだ悪く、ピントが合っていないのだとばかり思っていました。大人になれば私にだって見たことの無い景色が見えるようになるんだと、本気で思っていたのです。硝子の向こうにこそ、私の求める世界が広がっているのだと、信じて疑わなかったのでしょう。


 ――実際は、違った。


 実際は見たくないものが見えるなんてことは無く、むしろ見たいものも見えなくなりました。見えていたものも、見たかったものも、見えなくなってしまったのです。全てがぼやけ、私に見るなと叫んでくるのです。

 私は美しく思った景色でさえも、下らぬ迷信の為に手放してしまったのです。背丈も変わりましたし、視力も落ちました。もう彼の時出会った素晴らしい景色と会うことは出来ぬのでしょう。

 私は大事なものも棄てました。彼の時は見えていた友達も失くしました。レンズの向こうに在ったのは大人が歪めた世界だけでした。そう、私達大人が。見たいけれど、仕事に必要の無い景色は棄てました。感情の掃き溜めに置いてきたのです。

 取り戻したいと願った時には遅いのです。私は求めていた景色を失いました。心の拠り所を棄てました。昔の自分を愛せなかったのです。今の自分は昔の自分の上に立っているというのに。

 双つの硝子の先には何も在りません。私の欲した世界は裸眼の世界に在ったのでしょう。彼の時に気付けていたら大事に持てた景色も沢山在ったのでしょうから。私は悔しくてなりません。戻れるのなら、眼鏡などに頼らず自力で求める景色を探すのに。嗚呼、何という事だ……。


 ほら、其処の貴方。眼鏡を羨むことは無いのですよ。今の貴方にしか見えない景色が在る筈です。其れを探して自分の拠り所とするのです。もう私の様な人間を増やしたくなどないのです。見たくないものも、見たいものも、今見えているものも、今は未だ見えないものも、其れは貴方の心の財産なのですから。

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