風の音

香枝ゆき

プロローグ 神隠し


 ヒュイイイイイ。澄んだ音が空へ響く。音に合わせるかのように、東のほうから風が吹き、木々の間を駆け抜ける。奏者は服と髪をなびかせながら崖の上にたたずみ、やや使い古された木製の横笛を吹いていた。

少女は唐突に、笛から口を離す。音が消え、それと同時に風が止む。

 桜が咲く前に吹く東からの風、桜東風。さきほどの風の名残はもうない。

 眼下に広がる深い森。その中の一点へ目をこらす。笛の連結部分をからからと回し、手早く分解すると、ウエストポーチの中に注意深くしまった。

「よっ……と」

 次の瞬間、ためらうかのように上がった裾が、崖の下のほうに消えていった。


「誰?」

 声が聞こえた気がする。少年はだれともなしにつぶやいた。しばらく耳をすませていたが、空耳だと考え、ため息をつくとまわりに注意を払うのをやめた。少年は倒木に向かって歩き、そこに座り込んだ。

 機能的なリュックを放りなげ、土まみれになったブランドスニーカーのくつ紐をほどきにかかる。

 風が止み、リュックが音を立てた。

「これからどうしよう……」

 またもため息をついたときだった。空気の動く音とともに地面に人型の影が映る。

「うわっ!?」

 よけられないまま何かが落ちてきて、少年の背中に着地した。勢いで彼は転げ落ちる。

「着地失敗……成功かな?」

 着地してきたその物体は、彼の背中に乗ったままだった。

「重……降りて……」

 背中に乗った人間は、声からして女の子のようだ。小さな子供ではないことは重みから分かる。

「重い?そんな事を言うのはどの口?」

 上の人間は怒ったようにそう言うと、少年に全体重をかけた。

 ペキッという小さな音がした。

「ぐえっ。ほっ骨が」

「そこまでやらない。手加減してるし」

 手加減でこの扱いか。

「鬼……?」

「何か言った?」

 絶対につぶやきを聞いていたんだろう。

 彼女はゆっくりと、時間をかけて降りた。

 少女はきなり色の長めの服と茶色っぽい短パンの上に、雑なつくりの深緑色のコートを着ていた。サイズは合っておらず、ボタンも上のほうに一つだけ。おまけに強引に布を断ったのか、後ろでボロボロの裾が細長く垂れ下がり、それはひもで束ねられていた。肩につくかつかないか程度の外ハネの黒髪にはバンダナがまかれており、染められた木の玉がある茶色いひもをからませてあった。きりっとした意思を主張する目が印象的だった。

「えっと、君……誰?」

「あんたから先に言うべきじゃない?」

 間髪いれずの鋭い切り返し。強気な態度に思わずひるむ。

 それでも折れることにして口を開いた。

「サクラ、カザナ。花が咲くに良好の良、下は風が無いって書く。……君は?」

「カザミ。風が満ちるっていう漢字。苗字はあんたと同じね。ところであんた、どこから来たの?」

 風満は好奇心と警戒心が入り混じったような目で風無を見た。

「そっちこそ。この森には知り合いの人の家があるから来たんだけど、見ない顔だね」

 風満は目をしばたかせた。

「……そこってさあ、神隠しが起きるっていう伝説とかある?」

 風無は肯定した。別名で、神隠しの森と言われている。

「どうするかなあ……」

 風満は頭を抱えてくるりと歩き回る。名前は分かったが未だ謎の人物だ。関わらないほうがいいだろう。

「どこ行く気?」

 ぎくりとした。考えこんだ風満を放置してそろりと先へ進もうとしたのに。

「あんたここがどこだか分かってないでしょ?あてもなく彷徨って、野垂れ死ぬ気?見つけたあたしに感謝しなさいよ。避けられる筋合いないし」

 登場の仕方からして不審者なんだけどなー、君のほうが。風無は思ったが口に出さなかった。

「えーと、じゃあ教えてくれな――」

「元きた地点まで行ける?」

 風満は風無の言葉にかぶせるようにして聞いた。風無は気圧されながらも即答する。

「た、たぶん無理。気がついたらこうなってて……。この森こんなに広くないはずなのに」

 風満はため息をつく。

「で、これからどうしたい?ああ、気付いてるかもしれないけど、ここは神隠しの森じゃないから」

 風無はあたりを見回して口を開いた。一面こんもりとした森。道らしい道もない。

「……とりあえず、衣食住すべてが保障されてるところに行き、たいな」

 率直な希望を述べると、風満は値踏みするように風無を見た。

 黒髪のくせ毛、紺色のフードつきのトレーナーに、黒のジーパン。何を考えているのか分からない表情に、悪意は感じられない目。

「害はなさそうだし、いいか……」

 風無がいぶかしる中、風満は上着の内側にベルトが入れられ、ボタンで留められたウエストポーチの中から先刻の笛を取り出して組み立てた。

吹き口に口をつけ、息を吹き込む。

 風が、二人の頬を撫でた。

 笛が出している強い音と呼応するかのように、強い風が吹いている。と、ぼとりと音をたて、上から蔓が落ちてきた。

 風無がそれを目で辿っていくと、台地があった。妙に盛り上がり、上から落ちれば死にそうな高さだ。コナン・ドイルの失われた世界、だったかに出てくるような。

「これくらい登れるよね」

 さも当然のごとく確認する風満。風無は冷や汗をたらして口をあけていた。

「登、ムリ、なんで―?」

 まさか彼女はあそこから飛び降りたとでもいうのか?

「あたしが住んでるの、この上。ちなみにあそこ以外に人が住んでるの、あたしは見たことない」

「他の道は――」

「空でも飛べるなら別だけど。まずあたしが登るから、その後自力で登ってきてね」

 風無の返事を待たずに、風満はするすると登っていった。程なくして、蔓が落とされる。

「何があっても離さないこと!さぁ登った」

 風無はため息をつき、腹をくくった。


「……死ぬかと、思った」

 命綱なしのクライミング。アトラクションのような安全保障などあるはずもなかったし。女の子に体力で負けて悔しいとかそんなプライド、今の風無にはない。

 風満はしばらく待ち、やがて立ち上がった。息を切らしている風無とは対照的。

「ふう。休んだことだし、あんた――あー、風無の落ち着ける所行こっか」

 疲れているのも忘れ風無は起き上がる。この少女は今、それだけのことを言った。

「今……なんて?」

「だから、風無の落ち着けるとこ行こって」

 風無は顔を伏せずにはいられない。

「さっき会ったばっかりなのに、もう呼び捨てなんだ……」

 警戒されていないのだろうか。こっちはまだ完全に信用していないのに、どうして名前で呼び合える。

 風満は一瞬ポカンとして、そのあと笑う。

「なんだ、そんなこと。別に普通でしょ?」

 風無は答えなかった。

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