Baroque‐家出王女は藍玉を惑わす‐

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

従者の乱心


『ハイトリーリン王子の身柄は預かった』


 ――脅迫


 ハイトリーリンことハイトのはとこにして従者、そして幼馴染でもあるリーフェの頭に真っ先に浮かんだのは、その単語だった。


『無事に帰してほしければ、一億リラ用意せよ』


 ――身代金目的の誘拐


 その次に浮かんだのは、そんな言葉だった。


 リーフェは手にしていた紙切れから視線を上げると、部屋の中を見回した。


 扉に向き合うように置かれた執務机。その後ろの窓は大きく開け放たれている。奥の扉は寝室へと続いているが、そこに主の気配はない。さらにこの部屋にはリーフェの私室へと続く階段の扉もあるが、そちらへ向かった気配も感じられなかった。


 特に争った形跡も見受けられない、穏やかそのものの部屋へ一回り視線を走らせ、リーフェはもう一度机の前の床に落ちていた手紙を見詰める。


 そこに踊る文字は、見慣れたハイトの手跡ではなかった。何かとお騒がせな第一王子の手でもない。少なくともこれは、アクアエリア王族側の自作自演ではないという事だ。


 窓が開いているというのに、室内の湿度が急激に上がっていく。その空気の中に青い燐光が舞っている事に気付きながらも、それを抑える事なくリーフェはさらに深く思考の淵へ沈んでいく。


 つい先程、リーフェはハイトと言葉を交わした。扉越しの会話だったが、あれは確かにハイトの声だった。この自分がハイトの声を聞き間違えるはずがない。それだけは確かだ。


 あの時から四半刻も経っていない。一度扉越しに呼んだハイトがしばらく待っても姿を見せないから、改めてリーフェが呼びに来た。今度は返事がなかったら、扉を開けて中を確認した。そしたらこの紙と行き遭ったという流れだ。


 あの時、既にハイトは何某かの賊に襲われていたのか。賊に脅されたから、何事もないような返事をしたのか。


 ――いや、ハイトはそこまでヤワな人間ではない。並の相手ならばのし返すだけの実力はあるはずだ。


 でも、押し入ってきた相手が、その並の相手ではなかったのだとしたら?


「おーい、リーフェ~。ハイトを連れに行ったお前が戻ってこないって、女中メイド達が……って、うぇっ!?」


 いや、でも……と堂々巡りを繰り返すリーフェの後ろから呑気な声が聞こえてきた。


 思わず殺気を込めて振り返ると、まるで視線そのものが武器であると思い込んでいるかのような動きでヴォルトが壁際に飛び退く。先程までリーフェと同じようにハイトの衣装合わせに参加していたヴォルトは、武官装束ではなく平服に身を包んでいた。


「チッ、何でこんな時に限って平服なのさ。役立たず」

「衣装合わせに武官装束で警護が必要って、どんな危険な衣装合わせなんだよっ!? というかさっきまでは特に何も言ってなかったじゃねぇかっ!!」


 いきなり向けられた八つ当たりに思わずガバッとヴォルトが体を起こす。壁にすがっていた衣は色が変わるほど湿気ていた。石壁に触れた水蒸気が空気中に留まり切れずに水滴を作り始めている証拠だ。


「というか、どうしたんだよ? 空気が青く染まってんぞ? ちったぁ落ち着かねぇと……」

「これを見ても、同じ台詞を言える?」


 リーフェは無意識の内に握り込んでいた脅迫状をヴォルトへ放り投げた。無造作に投げ付けられた紙切れを器用に受け止めたヴォルトは、丁寧に皺を伸ばしてから文面に視線を落とす。


 だが形を整えられた紙は、即座に元に戻る事になった。


 一度サラリと流された視線がもう一度振り出しに戻され、今度はじっくりと丹念に文字をなぞる。そしてまた視線が戻され、じっくりがガッツリになり、やがて限界まで見開かれた目で『紙よ、焦げよっ!!』とばかりに視線が繰り出された。この場にハイトがいたら、間違いなく『ヴォルト、そのままだと目玉が零れ落ちるぞ』とツッコミが入った事だろう。


 だがここに、ハイトはいない。


 いないのだから、こういう事態になっている。


 そして平素ならば誰よりもボケたツッコミを入れるリーフェも、今ばかりはそんな余裕はどこにもない。


「……ざっけんな………」


 手に力が籠りすぎたせいで脅迫状は見るも無残によじれていた。さらにその上にアクアエリアでも有数の武官であるヴォルトのありったけの殺気を乗せた低い声が叩き付けられる。


「ハイトの身代金がたった一億リラぽっちだとっ!? ハイトはそんなに安かねぇよっ!!」


『そこかいっ!!』というハイトのツッコミが聞こえてくるような台詞を殺気十割増しの声で真剣に吐き出したヴォルトは、怒りに任せて脅迫状をクシャクシャに丸めると足元へ叩き付けた。


「この誘拐犯は、ハイトの価値を全然分かってねぇっ!!」

「まったくだよ。ハイトの身柄がたかが一地方の行政予算程度レベルとか、笑わせる」

「リーフェ、犯人がどこのどいつか分かんねぇのかよ」


 行政予算程度の身代金を『安すぎる』と切って捨てた二人は、物騒な空気を纏ったまま足早にその場を離れた。


 だが二人の行く先は、先程まで二人がいた衣装部屋ではない。


「あの紙には独特の光沢があった。あれは、リーヴェクロイツの光沢紙だ。それもあれだけ上質な物だと、手に入れられる人間は限られてくる。今回の事には、十中八九リーヴェクロイツの貴族が噛んでいるだろうね」


 怒り狂いながらも『第二王子の右腕』と言われるリーフェの知能は冷静に賊の特定を進めていた。焼き切れそうな激情の向こうにいる理性が、淡々と分析結果を吐き出す。


「リーヴェクロイツ?」

「リーヴェクロイツは土の国……鉱物の国だ。あの光沢は、特殊な鉱物を砕いて漉き入れる事によって生まれる。その技術は国外秘扱いで、技術を持つ職人は国外へ出る事を許されていない。他国への献上品としても使われているような、リーヴェクロイツの特産品なんだ。そうおいそれと御目に掛れる物じゃないよ」

「リーヴェクロイツは中立国だ。喧嘩を売るには厄介な所だな」

「関係ないね。先に手を出したのは向こうだ」


 すげなくヴォルトの相槌を切り捨てたリーフェの言葉は、常よりも鋭さを増していた。


「たかが賊、されど賊。ハイトの身に手を出した罪は重い。どれ位の貴族が絡んでいるかまでは分からないけれど、必ず目に物を見せてやる。そこに中立国か否かは関係ない」

「違いねぇな」


 廊下を進み、階段を降り、一階にズラリと並ぶ扉の一つを勢い良く開く。誰にも見向きもされない小部屋は、物置として使われていた。


 ヴォルトはその片隅に躊躇いなく腕を突っ込むと風呂敷包みを二つ引きずり出す。その片方をポイッとリーフェに向かって投げながら、ヴォルトは改めて口を開いた。


「何刻後、どこに」

「四半刻後、ここに」

「了解」


 必要最低限の言葉を交わして二人は廊下へ出た。ヴォルトはそのまま一階の廊下を進み、リーフェは元来た道を戻って自分の私室へと急ぐ。その道中、包みの中身を手探りで確かめる事も忘れない。


 数枚の衣。衣の数に見合わない多すぎる腰紐。路銀と、予備の弾倉。


 いざという時に城中の者に見咎められず、迅速に旅支度が出来るようにと用意していた小包は、記憶の中にある通りの感触をリーフェに伝えてきた。後はここに愛用の二丁銃を加えるだけでリーフェの旅支度は終わる。ヴォルトもあの包みに愛用の長刀を加えるだけで支度は終わるだろう。


 ――こんな形で役に立って欲しくはなかったけどね


 ハイトの居室に入り、まずは開けっ放しになっていた窓をきちんと閉める。それから部屋の奥にひっそりと埋もれている扉をくぐり、奥へ続く階段を早足に上る。


 螺旋階段の先にある、天井がやたら高くて床面積自体は狭い、尖塔の上の小部屋がリーフェの私室だ。曲面を描く壁のほとんどは本棚で埋め尽くされているが、唯一箪笥チェストがはめ込まれた上の壁面だけは石壁が露出している。


 その石壁には鋲が打たれ、愛用の二丁銃が掛けられていた。


「……相手が誰であろうと、どんな思惑を描いていようと」


 城中で旅装に着替えれば、必ず誰かの目に留まる。事は一刻を争う今、事情を知らない者と問答している時間はない。このままの姿で一旦城外へ出て、どこかで旅装に改めた方が良いだろう。


 脳内ではそんな事を冷静に考えながらも、リーフェの唇は無意識の内に言葉を紡いでいた。感情のかき消えた低く冷たい声が、目の前に掛る愛銃に向かって淡々と吐き出される。


「関係ない。必ず、叩き潰す」


 窓から差し込む陽光が、銃身に当たってギラリと反射する。


 その様はまるで、リーフェの言葉に呼応しているかのようだった。


「我が殿下に仇成す者には、死を」


 今度は意識して言葉を吐き、無造作に銃を手に取る。簡単に銃身を点検したリーフェは二丁とも上衣に隠すように後ろ腰に帯びると、包みを手にしたまま階下へ引き返した。


 

 自分で閉めた窓の下に『詞繰ライティーディ』で作られた足場の痕跡がある事に、リーフェは最後まで気付く事はなかった。




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