46 怒りは剣に、敵を屠る強い意志は胸に


「フェリエナ!」


 喉も裂けよとばかりに、愛しい人の名を叫ぶ。


「アドル様!」

 絶望に沈んでいたフェリエナの新緑の瞳に喜色が浮かぶ。


 敵に捕らわれ、酷い姿で引きずり出され。心も凍るほど恐ろしい思いをしただろうに。


 信頼に満ちたまなざしをアドルへ向けるフェリエナのけなげさに心が痛くなる。

 彼女を害する者すべてを打ち払って、今すぐそばへ駆け寄りたい。


「わたしの妻を返せ! 彼女は下衆なお前などがふれてよい女性ひとではない! それとも乙女のドレスの陰に隠れねば戦うこともできんのか!? 臆病おくびょうな卑怯者め!」


「わしを愚弄するか! 若造がっ!」


 アドルの言葉に、満面に血を上らせたランドルフが馬ごとアドルに向き直る。


の下を歩けぬ恥知らずはお前のほうだろう!? 異端者めがっ!」

 

 口元に嗜虐しぎゃくの笑みを浮かべ、ランドルフがあざける。


「あの女はもうお前の妻などではない! 汚らわしい異端者など葬ってほしいと……。どうかわたしの妻にしてくださいと、夕べ寝台の中で懇願していたぞ?」


「そんなことっ!」

 フェリエナが悲痛な声を上げる。


「アドル様! わたくしは決して……っ!」

「わかっています」


 ゆるくかぶりを振って、フェリエナの言葉を遮る。


「わたしがあなたの心を疑うなど、何が起ころうとありえません」


 フェリエナの不安を払うようにきっぱりと告げたアドルは、胸中の怒りをまなざしに宿し、ランドルフを見据える。


「嘘八百はそれで終わりか? お前も騎士を名乗るなら、言葉ではなく己の剣で真実を示してみよ」


「望むところだ! その満身創痍まんしんそういで何ができる? 一騎打ちでわたしが引導を渡してやろう!」


 長槍を失い、傷だらけの鎧に剣だけを構えるアドルなど、容易く倒せると断じたのだろう。

 口元を歪めたランドルフが片手を上げ、周囲の兵を控えさせる。


「恥知らずな詐欺師はどちらかはっきりさせてやる! お前の切り落とした首の前で、可愛がってやれば、あの女もすぐにわたしにひざまずくさ!」


 下卑た笑い声を上げたランドルフが、兜の面頬を下ろし、馬の横に吊ってあった騎兵槍を右手に構え、腰の金具に噛ませる。


 アドルは無言で剣を構えた。

 これ以上、奴の嘲笑を耳にしたら、怒りで我を忘れそうだ。


 怒りは剣に、敵をほふる強い意志は胸に。


 剣を右手に構え左手に手綱を握り、やや腰を浮かせて、アドルはランドルフに向かってはしる。

 応えるようにランドルフも騎兵槍を構えたまま飛び出してきた。


 戦いは誰がどう見ても、絶対的にアドルが不利だ。


 剣と騎兵槍では、そもそも得物の長さがまったく違う。馬上での利便性も明らかに槍が上だ。


 だが、そんなことは何の問題でもない。

 フェリエナを取り戻すためならば、たとえこの身がどうなろうともランドルフに打ち勝ってみせる。


 走る、奔る。


 速さに視界が狭まり、周囲の音が消え、ただ相手の姿だけが残る。

ランドルフが馬と自分の全体重をたった一点の鋭い穂先にかけ、突進してくる。


「食らえぇぇいっ!」


 目前まで迫ったランドルフが、向かって右に駆け抜けながら、穂先をぶつけに来る。

 腹を狙う避けがたい一撃を、アドルは左に重心を傾け、右足を鐙から引き抜きながら、半身となってかわす。


 穂先が鎧の脇腹をかする。

 それだけで身体を馬上から持っていかれそうな衝撃に、アドルは手綱を握りしめ、左足一本で踏ん張って耐えた。


 火花が散り、金属がこすれ合う異音が響く。


 それらすべてを意識の外に置き、アドルは上体を右へ思いきり傾け、鞍へと戻りながら、右手の剣を振るう。


 狙うは鎧と兜のわずかな隙間、ただ一点。


 鞍上あんじょうへ戻る反動と全体重を剣先に宿し、アドルはランドルフの横を駆け抜けざま、横から後ろに剣を振り抜いた。


 右手に伝わる、確かな手応え。


 数瞬の後に、地面に金属の塊が崩れ落ちる騒々しい音が響く。


 だが、振り返ってランドルフの生死を確認するいとまなどない。

 アドルは一騎打ちの余勢を駆って、ランドルフの敗北に浮足立った兵達の間へと、たった一人を目がけて駆ける。


 アドルの馬蹄から逃れるように、蜘蛛の子を散らすように兵達が散っていく。その中にはブリジットの姿もあったが、今は追う余裕はない。


 アドルが馬首を向けた途端、フェリエナが乗る馬のくつわを取っていた男は、泡を喰って逃げ出した。

 戦場の空気に怯えた馬がいななき、足を踏み鳴らす。


 落馬すまいと、たてがみにしがみついているフェリエナのそばへ駆け寄り――、


「フェリエナ!」


 弾かれたように面輪を上げたフェリエナの腰に腕を回し、無理矢理、自分の馬の上へ引き寄せる。


「お怪我はっ!?」

 面頬めんぼうを跳ね上げながら尋ねる。


「何もされませんでしたか!? 辛い想いを――」


「アド……っ」

 フェリエナの唇がわなないたかと思うと、新緑の瞳に、涙の珠がもりあがる。


「わ、わたくし……っ」


 フェリエナが、こらえきれぬように嗚咽おえつらす。

 アドルは、安心させるように、フェリエナの背中に腕を回した。


「大丈夫です。もう、何も心配はいりません。何があろうと、もう決して、誰にも貴女を傷つけさせたりなどしませんから」


 背後で、ギズがランドルフが討ち取られたことを宣言する声や、エディスや領民達が上げる勝鬨かちどきが聞こえる。


 だが今は、それよりもこの腕の中のものが大切だ。


 緩やかに波打つ長い髪。

 アドルだけを見つめる新緑の瞳。


 籠手こてに包まれた己の手がもどかしい。

 今すぐ、頬に伝う涙をぬぐい、震える唇にふれたいのに。


「フェリエナ……」


 万感の想いを込めて、愛しい人の名を呼ばう。

 濡れた瞳で見上げるフェリエナに、微笑みかける。


「アドル様……」


 ようやく、フェリエナの口のに安堵の笑みが浮かんだかと思うと――。


 緊張の糸が切れたのだろう。フェリエナはアドルの腕の中で、気を失った。


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