『9月25日正午前 インサニオ某所の一室』

「で……? マイケルはしくじったみたいですけど、どうするんです?」

「カカカッ、あんな軍人崩れなど、ハナからあてにしておらんよ。それよりもマティス、我々のパートナーとの最終調整は、上手くいっておるのかね?」

 

 蛍光灯の明かりだけが灯る暗い部屋で、マティスと呼ばれた神父服の男とシガレフが話している。神父服の男は、その金髪を櫛で掻き上げながら、こう言った。

「あぁ、そのことだったら問題なく。連中の方も、早く豊島一家を潰してやりたいって、息巻いてましたよ」

 マティスは気怠げにそう言うと、神父服の胸ポケットから煙草を取り出し、その中の一本を口に咥える。金メッキが施され、十字架が彫られたオイルライターで、マティスは自身が咥えている煙草に火を点けた。銘柄は、ジタン・カポラル。マティスがまだフランスで、曲がりなりにも神父をしていた頃から吸っている黒煙草だ。

 

 愁いを帯びた目と青い瞳、顎に生えた無精ひげ。神父服の前は胸元辺りまでボタンを外しており、白いシャツと金のロザリオが見えている。そのシャツも、第二ボタン辺りまでわざとはだけさせており、クリストフ・マティスという男は、少し影のある伊達男という雰囲気を纏っていた。

「そうか、そうか。しかし、連中とて完全に信用できる相手ではない。現に、自分たちが直接関与した、という証拠を残さない程度の支援しかしておらんからな。危なくなったら、トカゲが尻尾を切る様に、我々を切り捨てることは明白だろう。危険への備えは、常にしておかねばな。――セルゲイ!」

 シガレフがそう呼ぶと、金属の扉を開けて、部屋に筋骨隆々の男が入ってくる。姑息なネズミ男と、脳みそまで筋肉で出来ていそうな悪漢。超がつくほどの女好きであるマティスは、一瞬でも早くこの空間を出て行きたくなった。

「セルゲイ。手下共の様子はどうだ?」

「オレと同じで、早く暴れまわりたくてしょうがない、ってツラをしてますぜ。ボス、日本人街をオレたちのものに出来るのは、いつになるんですかい?」

 セルゲイは野太い声で、シガレフに尋ねる。その問いに、シガレフが下卑た笑い声を上げた。

「カカカッ。もうしばらく待て、セルゲイ。もうしばらくで、日本人街はすべて我々のものになる。そうすれば、本土でワシを軽んじた他の幹部連中を見返せるぞ……」

 

 ロシアン・マフィアは、内部での熾烈な権力闘争で知られている。ソビエト連邦崩壊後、インサニオの外で急速に勢力を拡大してきた彼らだったが、内部の派閥争いが拡大のネックとなっていた。

 このシガレフも、元軍人或いは元軍属の派閥から蛇蝎の様に嫌われている男で、故にマイケルとはまったくソリが合わなかったのである。

「それじゃ、話も終わったみたいなんで、オレはまた調査に戻りますよ」

 しかし、雇われの身であるマティスにそんなことは関係ない。彼にとって大事なのは、その依頼人が美女であるか、或いは金を持っているかだけである。

 

 外に出て、マティスはうんざりという風に顔を歪ませながら、煙草の紫煙を燻らせた。潮の香りが混じる空気に、紫煙は掻き消される。

「おぇっ。こっちは女っ気が無い場所に十五分以上居ると、蕁麻疹が出るんだって。あぁ、ヤダヤダ。可愛い子ちゃんたちに会いに行こっと」

 そう呟きながら、マティスは自身の愛車であるプジョー・RCZへと乗り込んだ。ある女性を乗せた際にその乗り心地の良さを褒められて以来、彼はこの車を自身の愛車としている。

 いつものようにキーを回し、エンジンを入れながらマティスはあることを考えていた。


(「恐らくこのゲーム。何処につくかで、見られる景色がまったく異なるな」)

 

 マティスはこのロシアン・マフィアの侵攻を、単なるきっかけに過ぎないと考えている。どれだけ手を尽くそうと、シガレフ一派の人数は五十人ほど。本土からの支援は期待できず、裏で一応は手を結んでいるあの組織も、恐らくシガレフ一派を起爆剤程度にしか考えていない。

 しかし、起爆剤としては十分である。所詮、どれだけ切れ者だと言われても、豊島一家の三代目はまだ二十歳にも満たない少女だ。あの組織が考える様に、衝動に駆られて事件を深追いし、五大ファミリー間の抗争を誘発するに決まっている。

 

 そうなれば、もう誰にも止められない。力を持つ者が、弱き者をねじ伏せるのは、この世の真理だ。残念ながら、今の豊島一家ではシガレフ一派は倒せても、五大ファミリー間の、ひいてはこの街の支配権を賭けた一大抗争までは戦い抜けない、というのがマティスの考えだった。

 そして、今マティスが考えているのは事態がそこまで進展した時、どの勢力についているのが一番自分にとって得か、または面白いかということである。

 自分の手札にあるカードを吟味し、どれを捨て、どれを残すかを考えるマティス。彼は先ほどまでの軽薄そうな態度からは想像できないほど、真剣な表情を浮かべている。


(「魅力的なのは、クラブのQ(クィーン)だが……。あの人はどうも苦手だ。何を企んでるのか、見当もつかない。良い女だが、腹の底が見えないのは危ないな。かと言って、ダイヤのK(キング)はあり得ない。ああいう品のない連中は、こっちからお断りだ」)

 

 マティスは、繋がりを持っている各勢力を、自身の趣味であるカードに例えて吟味していた。そして、そんなことを考えながらもマティスは自身の愛人が待つ家に、車を走らせ始める。


(「なら、ハートか……? いや、そもそもあそこは、もう色々とガタがきてる。長い抗争は戦い抜けないな。さて、となるともう残ったカードは――」)

 

 最後に残った二枚のカード。マティスはその二枚を、頭の中で手に取った瞬間、思わず笑みがこぼれてしまった。

 彼が思案する中で、残った二枚のカード。それは、スペードのエースと、ナイフを持った道化が凶悪な笑みを浮かべるカード。即ち、ジョーカーだった。

 

 ある意味で予想通りの二枚が残ったことに、マティスは笑う。

 他の手札とはまったく異なる、この二枚のカード。かたや、この街には似つかわしくないほど、青臭い理想と燃え滾る情熱を掲げ、突き進む者たち。かたや、この街のどん底から生まれ堕ち、この街を憎みながら血の池でもがき抜く者たち。

 両者共、決して他のカードの様に、強大な権力や財力を持っているわけでもなく、自らの利益となる様に権謀術数の糸を張り巡らせているわけでもない。

 ただ己が信念と理想のままに、日々を命懸けで生き抜いている者たちである。それら二枚は、他のカードに比べれば、明らかに分の悪い賭けだ。雇われの情報屋以外にも、ギャンブラーとしての顔も持ち合わせているマティスには、そんなことはすぐ分かった。

 

 しかし、賭けて最も面白いのがこの二枚のカードであることも、マティスは知っている。


(「まったく、難儀な性格だね、オレも……。もっとも、そんな性格じゃなきゃ、こんな街には来ないけどさ」)

 

 マティスは自身を、一端のギャンブラーだとは自負していたが、同時にプロのギャンブラーではないと思っていた。彼にとってギャンブルとは、あくまで適度な刺激を得ながら小銭を稼げる、実益を兼ねた趣味である。

 なら、時には実益を捨て、趣味に走るのもまた一興だろう。実益のみで動いていては、あまりに刺激が無さすぎる。


(「……となれば。少しスペードの方にも、忠告がてらのご挨拶に向かいますかね」)

 

 そんなことを考えながら、彼はロシアン・マフィアの所を出た時より上機嫌で、愛人の元へと向かうのだった。

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