第13話「思い出せない事ばかり」

 医療の《導》によって生き返っているあきらは、法的には死者であり、故に自分だけでいる事が多い。


 自分だけでいたとしても、舞台の仕事をほぼ一手に引き受けているため暇ではないのだが、それでも最近、昔の事を思い出す事が増えたと自覚していた。


 ――2年。


 それは、陽が安土あづち――本筈もとはず安奈やすなと友達同士だった期間。


 ――半年。


 それは、恋人同士だった期間。


 知り合って2年の後、恋人となり、半年後に婚約――それが標準的というかどうかは、陽には分からない。後にも先にも、結婚しようと思った事は一度だけ。


 ――4つ年上の彼女は、早く子供を欲しがってたな。


 安奈に聡子さとこが宿ったのは、婚約して間もなくだった。


 思わず苦笑いが出てしまう程、陽はその時の事を思い出そうとすると苦労させられる。


「そうだった」


 安土からエコー写真を見せられた時の事を思い出すのがやっとの事。


 ――縮尺?


 欄外に書かれた数字を見て、陽は日付ではなく縮尺だと思ってしまった。


 安奈は笑いながら「日付」と訂正としながら――、


「……」


 ポンと叩かれた額を、陽は思い出そうとでもいうように撫でる。


 だが思い出す気持ちは、温かなモノではなかった。


 ――何で聡子だったんだろうな?


 妊娠を告げられた時、その子の性別が判明した時、その全てに於いて陽は努力を必要とした。



 だ。



 それが異常なのか、異質なのか、それを思い出そうとする事は、いつも徒労に終わる。思い出せないし、新たに分かろうとしても分からない、


 思い出すのに、いつも同時期に自分へ降りかかってきた災難が邪魔になった。


 ――畑違いの部署、キャリアの断絶、高圧的な態度が肯定される職場環境……。


 身体を壊すのに要した日数は半年。


 ――矢矯やはぎ じゅんがそうだったか?


 寝るのも起きるのも薬頼みだった男の名を浮かべた陽は、表情に苦いものが走っている。


 ――あいつは自主的にやってただけだろ。俺は強制だ。


 本来の採用職種ではなく、適性すらない仕事場で、先輩からの怒声を聞きながら消耗していった陽と、美星メイシンのために自分から薬に頼った矢矯では背景が違う。


 ――聡子を愛せなかったのは、そんな仕事だったからか?


 自問が続くが、自問自答にならないのが常である。



 ただ生きるのに必死だったのだという、いつものいい訳に帰結してしまう。



 ――職場には安全配慮義務がある。


 身体を壊した原因は職場環境の悪化にあるとは、人事課へ提出した医師の診断書にもあった。


 それに意味があったのかどうかは知らないが、少なくとも職場環境の悪化と断じられた係員や係長に引き継がれていない事は分かっている。


 ――しかし労働者側には、自己保健義務がある。


 それが、陽にとって最悪の部署を守る鋼鉄の盾になる事も。


 陽が薬に頼り、身体を壊す直接の原因にしたのは、自己保健義務から逸脱している――ここまでした係員は、皆、そう思っているし、何なら実際に口にする。


「チッ」


 グルグルと思考が支離滅裂な開店を始めた所で、陽は舌打ちによって打ち切った。


 聡子を愛する努力の半ばで、陽は命を落としたというのが残された現実である。


 ――医療の《導》が大きかったな。


 何度、たおれようとも蘇る《導》を持ち、死ぬ事への恐怖を失った陽は、孝と共に舞台を運営していくに最良のパートナーだったというだけで十分だ。


 そんな陽が視線を移した。


 場所はビルの屋上にある小さなバー。幾度となく小川が百識と会合を開いていた場所であり、今日も小川がいる。


 そこのドアベルを鳴らして入ってきた女は、安定期に入ったであろう妊婦で、いつか見た席にいる小川へと重そうな身体を向けた。


「お久しぶりです、川下かわした先生」


 椅子から立ち上がった小川は一礼した後、向かいの椅子を引いた。


 女ははじめが惨殺された原因を作った女教師。


「ありがとうございます」


 礼をいって腰掛ける川下は、「う……」とうめいて腹を撫でた。


「無事に育っているんですね」


 小川がいうと、川下はしかめっつらに微かな笑みを浮かべさせ、


「はい。鳥打とりうちに殺されかけましたけど、私以上に強い子ですから」


 基の犯行説は、川下にとってはどれだけ否定されても拭わせない事実となっていた。


「すみません」


 そんな川下へ、小川は頭を下げる。


「鳥打 基へ、未だに相応しい罰を与えられずにいます」


 小川の言葉は演技だが、苦々しい表情は演技ではない。川下の事情など、小川にとっては意味のあるものではなくなっているが、基を地獄へ送れない事は、苦々しいなどという言葉では表せない屈辱だ。


 川下とて、小川の気持ちにどれだけ自分たち親子の事が入っているかを察する必要は感じていない。


「急いでくれるとありがたいですけど、いいんですよ。最終的に、そうなってくれれば」


 一秒でも基に生きていて欲しくないと感じているが、それを隠して言葉にする。


 結果が伴えば経過を問わないのが、今の川下だ。


「すみません」


 小川はもう一度、謝罪してから、軽く身を乗り出した。


「ところで、いいお話も持ってこられたんですよ」


 本題に入る。


「その鳥打 基の舞台なんですけどね。直に見ていただけます」


 身重の川下を呼び出した理由は、川下を観客として迎えたいからだ。


 理由は――、


「運営に噛めるかも知れないんです」


 六家りっけ二十三派にじゅうさんぱの崩壊によって集めた百識ひゃくしきたちを使い、本格的に乗っ取りを画策し始めたからだ。


 ――コマを集めるんだ。


 小川は単純な話にできると思っていた。


 集めるコマとは、百識だけでなく観客も含まれる。百識の手配だけでなく、観客を動員できるようになって初めて運営に手を突っ込んだといえるのだから。


「それは……本当ですか?」


 驚きで声を荒らげなかった理由は、基を絶対に逃さないと決めた川下の気質からだ。


「ええ、断言はまだできないのですが、高確率で呼べるようにできます」


 小川はいつも通り、過剰なまでの自信を言葉に秘めさせる。


「なら、是非」


 川下も二つ返事だ。


「それを、お伝えしたかったんです。電話とかメッセージでは、少しやりにくいので、態々わざわざすみません」


「いえいえ」


 川下と小川は笑みを交わし合う。


「気晴らしにも、丁度、よかったですよ。有給休暇の消化も兼ねて、早めの産休に入っていますから退屈していました」


 それは川下の本音で、家事を熟してくれる夫は有り難いが、裏返しになっている過保護が鬱陶うっとうしくも感じていた。


 ――いいご主人なんですね。


 いいかけて止めた小川は、川下の退屈を察する程度には気遣いができるからか。


「では少し、ゆっくりされていくといいですよ。気晴らし、大事でしょう」


 何か飲み物をと注文した後、小川は伝票を取り上げ、二人分の会計をしていく。


「ふふ」


 小川を見送った後、ゆっくりとレモネードを飲みながら、川下は下腹部を撫でた。基の起こした事件によって谷校長から疎まれて以来、感じていたストレスからの解放は実に心地よい。


「お母さん、頑張るからね。負けない」


 いつかいった言葉が出ると共に、テーブルに落ちた影に気付く川下。


「?」


 顔を上げた先にいる陽は、当然、川下の知らない男だ。


「何ですか?」


 訪ねた来た川下へ陽は――、


「悪いが、舞台の観戦はできない。それだけでなく、退場してくれないといけなくなった」


 淡々と告げられた言葉が終わると、川下は周囲から全てが消えた感覚を覚える。


「え?」


 舞台を観戦できるという言葉を聞いた以上の驚きが生まれた後、恐怖が襲いかかってきた。


 陽が告げた訳ではない。


 ただ第六感とでもいうべきもの――特に胎内の赤ん坊と共に二人分になったものが、知らせてくれたのだ。



 今、目の前の男が全てを奪ったのだ、と。



 無から有を作るのが医療の《導》だ。


 それは有を無にする事もできる。燃やすのでも砕くのでもなく、ただ無にしてしまう。燃えカスも欠片も、熱量すらも残さずに消す《導》だ。


 ――何故?


 川下の問いに陽は答えない。


 正確にいうならば、答えられない。


 舞台の運営に支障を来す者を消す時、陽は自分も消えるのだから。


 ――これだけ近くに来られて、静止できる時間が必要な、使い勝手の悪い《導》だけが、今、俺の中に残ってる。


 自嘲の表情が、川下には嘲りに見えた。


 ――俺はまた戻ってくるけどな。


 実際、陽の中に芽生えていたものの中には、川下への嘲りもあったのだが。


「あァ、そうか」


 その嘲りの中、陽は唐突に理解した。


「お前、聡子を――」


 川下は間接的にではあるが陽の娘を標的にしていた事が、この嘲りを生んだのだ、と。


「少しは努力が実を結んでいたかも知れないのか」


 愛していなければ、怒りも感じなかったはずだ。

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