第7話「基のプライド」

 ウサギ小屋の掃除がもたらしたメリットは、その日の昼、早速、基に訪れていた。


「……」


 鞄の中から取り出すのは、今まで食べさせられていた潰れたあんパンではない。



 母親が毎朝、手作りしてくれる弁当だ。



 弁当箱を開けて箸を手に取りつつ、弁当の蓋を開ける。久しぶりというには、あまりにも久しぶりだった。年単位で食べていない。そして10歳の基にとって、1年は生きてきた時間の10%だ。気が遠くなる時間といっていい。


 手を合わせる基へと向けられる、忌々しいとしかいいようのない視線があるのは当然だが、それを気にする基ではなくなっている。他人の目を気にしていた基は、あの舞台で死んだのだ、とまでは言えない。今でもクラスメートが基をどう見ているかは気になる。


 しかし他人の目を気にして小さくなったままでは、一生懸命とは言えない。


 ――食べよう。食べて、頑張ろう。


 母親が作ってくれた弁当を食べ、午後からも聡子と共にいるために気力を取り戻すのだ、と思いつつ、手を合わせる。


「いただきま――」


 しかし「いただきます」とは言えなかった。



 ――本筈さんは?



 基の弁当は無事だったが、聡子の弁当は大丈夫と言えるか?


 何かあるはずだと気付いたのは、やはり聡子のために一生懸命になると決めたからだ。


「……」


 基は弁当箱に蓋をし、立ち上がった。


 ――無事なら無事でいい。でもそうじゃないなら……。


 席を立って教室を出ていこうとする基だったが、当然、担任の川下が声をかける。


「どこへ行くの! 今はお昼ご飯の時間で、昼休みはまだでしょう!?」


 川下の声は、荒らげるという程度ではない。


 怒鳴るくらいの大声だ。


 しかし基は無視した。


 ――先生に怒られるくらい、僕が我慢すれば済む事だ!


 自分が我慢すればいいのならば我慢する、と基は教室を出て行った。


 同学年なのだから、聡子の教室は歩いて数秒だ。


 その数秒も「当事者」には数時間にも思わされる時間だった。



 聡子の身には、基が思った通りの悲劇が降りかかっていたのだ。



 弁当を前にして、聡子は呆然とするしかなかった。医師という忙しい仕事をしている母親であるから、弁当は聡子が自分で作っている。自分では料理が上手いとは思っていないし、美味しいものを作れるという自信もないのだが、それでも作ったものにプライドはある。


 その弁当は今、ぐちゃぐちゃにされていた。



 午前の最後にあった体育の授業中に、誰かが弁当を開け、掻き混ぜていったのだ。



 半熟の目玉焼きやクリームコロッケに箸を突き立て、ご飯とおかずを仕切っていた間仕切まじきりを取り払って掻き混ぜたのだろう。


 残飯さながらの汚さを帯びるまでやった上に、所々、チョークの粉をぶちまけて白くなっている。


 ――こんな……こんな……?


 言葉が浮かばない。こんなショックは、弁当を奪われて潰されたあんパンを押し付けられていた基以上だった。少なくとも、基の弁当は美味しく食べてもらえたし、あんパンは誰かが作ってくれたものでも、自分で作ったものでもない。


 自分で作った弁当を美味しく食べられなくされたショックは、文字通り筆舌に尽くしがたいものがあった。


 笑い声が耳につく。


 顔を上げると、いつもウサギ小屋の掃除をしている聡子を馬鹿にしていた一団が目に映った。特に今朝、基と二人で掃除していた事に嫌悪感をあらわにしていた連中だ。


 ――あの子が……!


 抗議しようという気は起こらない。「証拠を出せ」から始まり、「濡れ衣を着せようとした極悪人」と袋叩きにされるだけだ。いつも通り黙っているしかないが、それが耐えられないタイミングもある。


 やり切れない気持ちのまま向けていた目に、引き戸を思い切り開く基の姿が見えてしまう。


「何ですか!? 余所のクラスの子でしょう、お前は!」


 聡子のクラス担任が口角泡飛こうかくあわとばす勢いで言葉を向けるのだが、基は返事よりも先に教室へ入る。


「用事が済んだら、すぐに失礼します」


 一礼した基は、ズカズカと大股に聡子の席へと近づき、


「……これ」


 手に持っていた弁当を聡子の机に置く。否応なしに聡子の弁当がどうなっているか見えてしまう。基にとってもショックだ。潰されたあんパンを見せられた時とは比べものにならない怒りが浮かぶ。


 しかし怒鳴り散らすために来たのではない。


「これ、交換しよう」


 基は弁当箱の蓋を開け、聡子の方へ押しやった。


 ――ああ、もう……。


 後悔は少なからずある。基の母親も料理が上手い方ではないが、基が食べて美味しいと感じるおかずは知っている。今日もいつも通りのおかずだ。野菜炒めには、ほうれん草、タマネギ、ニンジンに混じって、基の好きな粗挽きウィンナーを入れている。焼き鮭の脇には、細切りのキュウリを詰めたちくわがある。単純な、料理とは言えないおかずだが、これに基は目がない。


 それを聡子へ渡し、自分はぐちゃぐちゃにされた弁当を食べる事になるのだから、後悔がない方がおかしい。


 それでも聡子の弁当を手に取るのは、言った以上は引っ込みがつかないから、などという理由ではない。


 ――こんな事されて、本筈さんだって悔しい。僕以上に嫌な思いをしてる。それを少しだけ持ってあげられるんじゃないか!


 基が行動する理由は、聡子の抱える荷物を半分、持てると自分で自分を納得させらせるからだ。


「あ……」


 聡子が声をかけようとするが、かけられる言葉はすんなり出てこない。


「……弁当は、どうなってても食べれる。ちゃんと作った弁当なんだから。美味しく食べられる」


 だから食べるんだと言い、基は教室から出て行く。


「失礼しました!」


 気持ち大きな声を出す基は、それがせめてもの仕返しのつもりだった。

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