DEAD END,STRANGLE
玉椿 沢
序章「隣り合わせの死と苦痛」
第1話「的場姉弟の舞台」
膨大な魔術的、呪術的知識群を指す。
その源は、術者の血に秘められていると言う《
これは、今ではない時代、ここではない日本。
初めて歩く通路は、ストレッチャーが使われるような時であっても尚、人間二人が肩を並べて歩けるくらいの広さがある。ただ態とそうしているのかと言いたくなる程、薄暗いが。
天井も高く、殊更、足音を立てようとして歩いている訳ではないのに、カツカツと高い音が響いてしまう。
「……」
こんな場所を歩いている
通路の行き着く先にある扉に手を掛ける孝介は、押し開ける前に一度、大きく深呼吸をした。
何が待っているのかは知らない。
いや、言葉としては知っているが、実際に体験した事はない。
深呼吸の後に開いた扉の先は広間だ。広間の名前は「控え室」――。
目に付いたのは椅子に身体を沈めている姉、
「……姉さん」
声を掛けるのに、若干の躊躇がある。それ程、姉は疲労困憊していた。
「ツイてた」
弟の姿を確認しないまま、仁和は深呼吸と共に言葉を吐き出した。
何を指して「ツイてた」とは言わない。
だが弟へと顔を上げると、上に羽織っていた革の上着を手渡してきた。
「着てって」
「ああ」
孝介は短く答え、その上着を羽織った。革である事を差し引いても、かなり重い。それもそのはず。肩や脇に鉄板が入っている。
「……」
それ以上の会話はなく、孝介は控え室を出て行く。
控え室の先はエレベータがあり、女が一人、佇んでいた。孝介にとっては顔見知りだ。通称「世話人」の
「武器を」
笑みと共に示した整理棚に収められているものは、ありとあらゆる刃物と鈍器。
「ッ」
舌打ちしながら孝介が手に取るのは、ナイフが一本だけ。他にも色々とあるが、自在に操れるかどうか怪しいものばかりだったからだ。ナイフとて使いこなせるかどうか自信はないのだが、明らかに使えない他の武器よりマシだ。
ナイフを手に乗り込んだエレベータが送る先は、この通路の暗さと静かとは対照的な、光とざわめきの坩堝だった。
古代から復活してきた闘技場――とでも言うべきだろうか。
粘土質の土の上に砂をまいた会場を中心に、すり鉢状になった観客席が囲むように作られている。客席数は三千人程度だろうか。その客席も、ほぼ隙間が見えない。
歓声などはない。
あるのは煽りを入れる声――最も多いのは「殺し合え」だ。
文字通り、この場は剣闘士が命の遣り取りをしていたコロッセオなのだ。銃器の貸し出しがないのは、観客が望んでいるのは肉体が損壊する様だ。しかも、できれば大きく、酷く損壊する事を期待しているのだから、銃器は除外されて当然と言える。
ナイフの柄を握っている感触を何度も確かめながら、孝介は歩を進めていく。相手はすでに仕切りの向こう側で待っている。
「早くしろ、馬鹿野郎!」
ヤジが飛んでくるのだが、そうは言っても孝介が足早になる理由にはならない。
ゆっくり歩きながら観察する。
ゆったりと構えている女の身を包んでいるのは、ドレスを思わせる細身のシルエットを持った黒のワンピース。襟と長めの袖がついたボレロを羽織り、つばの広い帽子を被っているのは、魔法使いを思わせる出で立ちだ。
――武器はレンタルじゃなくて、自前か。
孝介がそう感じた通り、背丈程もある木の杖など、武器が収められていた整理棚にはなかった。第一、彫刻が施されているのだから、「使えればいい」と言うような品でもない。
全身コスプレなのだが、それも彼女にとってはユニフォームのようなもので、その方が観客のウケがいいのも確かだ。
しかも馬鹿にはできない。服に防具としての効果はないが、杖だけは違う。
小道具にしか見えないが、十分に乾燥させた木材は侮れない。木刀が真剣に劣らない武器である事と理屈は同じだ。
危険窮まる武器を持つ女の顔は、微笑みまで浮かべていた。
どこか狂気を孕んでいるように感じる女であるが、それがこの場では正常だ。
この場にあるルールは、そう多くない。
勝利は、片方が戦闘不能になるか、敗者が降参の意思を示すか、勝者が勝利を宣言するか、そのいずれかの時、観客が認めた時だ。
こんな場所であるから、五体満足で降参が認められる訳がない。手足を失うか、目が潰れるか、さもなくば――孝介には関係のない話かも知れないが――即興のポルノショーを終えた後でなければ認めまい。
こんな場所に来るのだから、どんな事情のある女だろうか? いや、それは問題ではない。
問題は、女がどうやって勝利するつもりで来たか、だ。
とんでもない怪力を秘めている? 可能性はゼロではないが、少ないだろう。
ならば社会の生産には何ら寄与しない能力を持っているか?
――そうだろうな。
それは自分も同じだと、孝介はナイフを握る力を強めた。
「早く行け!」
ヤジは一層、大きくなる。
姉はどう生還したのかに思考が向くが、それは集中力を切らせてしまった事と同じだ。
現実から逃げた。
だから思考が眼前で開始される殺し合いから意識が逸れた。
「!」
突然、アップになった女の顔に、孝介が目を剥く。
――越えてた!? いつの間に!?
自身で闘技場の仕切を越えたと言うのに、その自覚すらもなかった。
冷静なつもり、緊張していないつもりだったが、全て「つもり」でしかなかったのだ。
「ッ!」
声も発せられないくらい、強く歯を食い縛り、ナイフで振り上げられた杖を受け止めた。杖は予想した以上の衝撃を伴っていた。十二分に乾燥されたものだったのだ。
――刃が欠ける!
孝介は目を白黒させたが、刃が欠けたくらいで済んだのは不幸中の幸いだ。へし折れていてもおかしくない。折れなかったのは運が良かった。
ただし、そのまま鍔迫り合いになっていたら、体格で勝る孝介に分があったのだが、女も分かっている。
刃が欠けたナイフを気にしている孝介の腹を蹴り、無理矢理、距離を取った。
床を滑走させられた孝介は、その一撃に女がロクでもない相手であると感じさせられた。
――百識だったな!
炎も氷も稲妻もないが、筋力に《方》を上乗せした一撃だ。今の時代では社会の役に立たない能力だが、唯一、こんな場で人を傷つける事にだけは優れている。
――痛ェ。
身体強化しているであろう蹴りは、それこそ丸太で殴られたに等しい。
しかし痛みこそ消せないが、孝介とて百識。同様の身体強化で、そんな蹴りでもダメージを内臓に到達させていない。
とは言っても転がされてしまったのでは不利だ。
「チクショウ!」
毒突きながら睨み付ける先には、輝く球体。
女は攻撃に《方》を使ってきたのだ。光の球体は《方》で作られた砲弾だ。ぶつかった時の衝撃は鉄球を投げつけられたに等しい。
女の手を光球が離れる。
スピードがそれ程でもないのは、その一撃で決着をつけるつもりがないからか。
「くぅ……」
地面を転がってよける孝介は、光球の激突音と砂埃とに顔を歪ませた。無様なのは自覚しているのだが、それでも耳に入ってくる「雑音」が苛立ちをかき立てる。
「逃げるしか能がねェのか!」
ヤジだ。逃げるしか能がないならば、精々、派手に潰れて死ねとでも言っているのだろう。
逃げている孝介は、こう言う武器になる《方》が使えない。孝介が身につけているものは、筋力に上乗せする事と、感覚を鋭敏化する事くらい。どちらも初歩的な《方》だ。
体勢を完全に崩しているから、どれだけ《方》を上乗せしても、芋虫
だが逃げながらも、辛うじて残された思考力で、こんな攻撃の意図を探っていた。
――
それは間違いない。嬲るつもりがないならば、ぼんやりとした顔で仕切を越えて来た孝介の顔面に、この光球をぶつけてきていた。それで即死させれば済む話だ。
何故、女が孝介を
――つまり、
百識の《方》とて、呼べば湧き出る無限の力ではない。使えば身体が消耗していくし、光球を出す方が殴るよりも疲れないと言う事もない。
何もかも派手な方が観客が沸く、と言うだけでなく、女の性格なのだろう。
孝介に嘗められる程度の実力しかない事も原因であるが、百識としての能力は兎も角、この場で重要な二点を身につけている。
即ち、気力と忍耐力だ。
避けると表現するのも
「いつまでも逃げるな!」
罵声も知った事ではない。
――いくら賭けてるのか知らんがな!
どうせ何が起きてもヤジは飛んでくるのだ、と高を括るしかない。気にならなくなる訳ではないにしても。
――今は待て!
それしかないと、孝介は砂埃だらけになりながら耐える。一方的に嬲れている状況であっても、クリーンヒットが一度もないとなれば女の苛立ちも募ってくるはずだ。問題は、より大きい光球を放てるかどうかだが、放てるとすれば――、
「この……ッ」
女の顔に隠す気のない苛立ちが浮かんだかと思うと、手が大きく上に振り上げられた。
巨大な光球を作る気になったのだ。
目方が変われば、今までのようにギリギリで避けようとする時、掠める可能性が高まると思ったのだろう。
掠めるだけでもいいと思えるのは、《方》による攻撃は、クリーンヒットしようが掠めようが、同じ衝撃を与えられると言う点があるからだ。
当然、額やこめかみでも掠めれば、額にクリーンヒットした事と同じ被害を与える事ができる。攻撃と同じように《方》で防御しなければ、掠めただけで決着させられる。孝介には防御に使える《方》もない。身体強化と感覚の鋭敏化――それも極々弱いものしかないと見抜かれている。
――来た!
しかし孝介にとって、それは待ちに待った瞬間だ。
掠めただけで直撃と同じ衝撃があると言うのは恐怖だが、それを乗り越えて賭ける所だ。
――こいつは
狙いやすくなるし、分かり易く威圧感を与えられるからのだから、苛立ち任せである事も重なれば大振りになる。
かいくぐる事ができれば一撃を加える事ができる!
身体強化をフル稼働させても、体勢を完全に立て直すには至らない。
前転する要領で回避しつつ接近する。
「!」
一瞬に過ぎない時間であったが、行動に起こしながら孝介は祈った。掠めるにしても、急所だけは外れてくれ、と。
「抜けた!」
女の姿を至近距離で捉えられた時、孝介は思わず声をあげてしまった。この距離ならば、《方》を使った攻撃よりも殴る方が圧倒的に速い。
孝介はナイフを握り直す。刃が上下、どちらに向いているかも分からない。そもそも諸刃のナイフであるから、刃の上下など関係ないのだが、それを忘れるくらいに使い慣れていない。
真っ直ぐ突く事しか考えていないが、それすらも難しいくらいだ。
「この!」
女にも至近距離での攻撃方法がない訳ではない。
ナイフと杖――棍棒ならば、この距離ではナイフの方が有利だが、使い慣れているのといないのとでは、そんなアドバンテージは覆る。
しかし女は頭を狙わなかった。頭を打っても、この距離ならば止まらない。ナイフは確実に女の身体を貫くからだ。
狙ったのは鎖骨。
鎖骨を折れば腕が上がらなくなる。攻撃を無効化するには、そこを狙うのが良いと考えたからだが……、
「ッ!」
女の感じた歯を食いしばらされる程、重い手応えに対し、孝介の突進は止まらない。
孝介が着ている上着のせいだ。
何の変哲もないように見え、《方》への防御効果も期待できない革の上着は、鎖骨と心臓の部分に鋼鉄のプレートが入っている。どれだけ堅牢であろうとも、鈍器では鎖骨は折れない。
だが孝介もプレート越しに感じた衝撃で腕を下げてしまう。
下げてしまうが、そもそも急所に突き立てるつもりはなかった。
相手の腰が引けたところで体当たりし、制圧するする事が目的だった。
「くふッ……」
二人分の体重を肺に受け、女が息を詰まらせた。
孝介は馬乗りになり、ナイフの刃を女の胸ギリギリに突きつけた。振り上げはしない。体重をかけただけで突き刺さる。
「降参しろ!」
相手に降伏宣言させる事が狙いだった。
これ以外の勝ち方を考えられなかったからだ。
いや、覚悟ができなかったと言うべきか。
孝介は刺せない。
トドメを刺す覚悟ができていなかった。姉がどう勝利したのかを気にしたのは、この瞬間を自分が迎えたくなかったからでもあった。
「……」
女は目を丸くした。こんな事を狙われたのは初めてだった。そのため対応が遅れたが、この状況は必ずしも決定的ではない。
黙ったまま、女は左手を動かし、トントンと孝介の肘を叩いた。
タップ――ギブアップの合図だ。
――勝った!
孝介の顔に安堵が浮かんだ。
その安堵が孝介の身体を脱力させてしまう。
「バーカ!」
力が抜けたところで、女の蹴りが孝介を吹き飛ばしていた。
孝介はタップで決着する場ではない事を失念していた。
決着は敗北の意思を表した時点ではなく、観客が認めた時だ。
タップは気を抜く事を期待しての事だった。
脱力していた所へ放たれた蹴りだったのだから、今度は孝介の方が息を詰まらせていた。
「経験不足。思考停止してたら、勝てるものも勝てない!」
杖の
「経験を積んでくる事ね」
そうは言うが、女の声には嘲笑が混じっているのだから、このままで済ますつもりはない。
掲げ持った杖の先に集められるのは、光球ではなく炎。それは《方》ではなく、より具体的なものへと変化させた《導》だ。
分かり易く破壊を象徴するものでトドメを刺す――と言うよりも、最も無残な死を迎えさせるものだからだろう。
「くそ、くそ、くそ」
孝介にできる事は、精々、毒突く事程度だった。
今までと同じように逃げ出すには、距離がなさ過ぎた。
そして隙を見せすぎた。
転がる程度で避けられる範囲を、女の火球は覆い尽くす勢いで膨れあがっている。
だが――、
「イントルーダー!」
警告のブザーと同時に告げられたのは「侵入者」――。
誰かと考えるまでもなく、女は後頭部から首にかけて灼熱化した刃を感じた。
仁和だった。
脳幹を貫いた一撃は、まるで電池が切れたかのように女の身体を崩落させた。
当然、ブーイングが上がる。
だがルールでは乱入に関するペナルティは精々、「降伏する権利を失う」程度しかない。合法だ。
合法の決着であるが、ブーイングは収まらない。収まらないが、勝利だ。
「姉さん……」
何が起きたのか理解が及んでいないと言う顔をしている孝介は、姉の「大丈夫?」と言う問いも聞こえていなかった。
ヤジは言う。
「どうせ、お前らがいても社会の生産には何にも寄与しねェんだよ! 精々、小銭のために殺し合いやがれ!」
これは、今ではない時代、ここではない日本――そこは、こんな場所。
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