裂け目

胆鼠海静

一.

 滝方の祖が、小刀を受け取ったのは、夏の初め、彼の住処のすぐ隣にある瀑布の音を聞きながら、背に走った傷の痕を、三つになる孫になぞらせていた時だった。祖と呼ばれるのを初めて耳にした時から、事あるごとに軽い緊張が胸に漂うのを感じていたが、一層濃くなってくる前に筆を手に取ることができたので、その張り詰めはぬるい安堵となって消え失せていった。彼と同じくらいの者は皆、そう思っていることだろう。片腕に子供を抱えながら、関節を軋ませ立ち上がる。子供は彼の傷に触れ足りないのか、物惜しそうに、滝のしぶきに曝されてひんやりとしてきた老人の浅黒い肌を引き続き撫でさすっている。自分の家に言釣(ことつり)が来たということは、他の者はもうとっくに外出し始めているだろう。早く加わりたいが、子を返すのが先だった。親は恐らくもう帰っているだろう。もし筆を取ったことを面と向かって言えば、息子たちはどのような反応をよこすだろうか。通常、小刀をもらっていたことは、身内や近所には直接伝わらない。花の薫りや獣の体臭のように、あの時受け取っていたのだ、という気づきが、日々の会話や家事の端々から、どこからともなく匂い立ってきて、やがて確かな認識として結晶していく、そのような形で伝達される。別に挨拶してはならない訳ではないが、そうすると、相手方に要らぬ心配をかけて、自分もきがかりを抱えてしまうことになる。そのため、祖は、何も言わずに孫を返すことにした。

 空が碧い。心情のためでもあるのか、雲の形がいつもより一層映えている。樹木の枝々が空に走ったひび割れに見え、茂った葉は、その傷口から滲み出した空の体液のようだ。集落を出て、森を一つ抜けた場所にある亀裂は、滝方の祖がまだ若かった頃―つまり、彼が東林の若と呼ばれていた頃のことだが―と変わらず、大地を横切っていた。亀裂はどこまで視線を辿らせていっても、途切れることがなかった。その裂け目に沿って、小刀を持った老爺や老婆たちが並んでいる。列のそこらここらで微かな賑わいが聞こえてくるが、全体を俯瞰してみれば、一団は、彼らの前の亀裂が孕んでいる闇のように静かで、亀裂と半ば同化しているかのようだった。酒呑の祖が、滝方の隣に居た。最後に会ったのが、いつのことかもう忘れてしまっていたが、笑みを浮かべながら長細い筒で煙草を吹かしている太鼓腹の相貌は健在だった。酒呑は、赤黒い唇を嬉々として動かしながら、滝方に話しかけ、滝方も白んだ髭を揺らしながらぼそぼそと返した。隠居する前と同じ風景だった。

 俺の字は。会話の熱に浮かされた酒呑が、自分の承けていた文字を地面に書こうとする。滝方は、慌てて、屈んだ酒呑の腕を抑える。今日は、飲み過ぎた。酒呑は、そうつぶやいた。酒呑が朝から飲む習慣は、会い始めた時から知っていたが、それが元で行事に支障を出したことは、これまでに、見ても聞いてもいなかった。そこで初めて滝方は、酒呑の老いと、彼がこれから行われる事に対して微かな恐怖を抱いていることを感じ取った。そのことを、多少残念には思ったが、その感情が酒呑への軽蔑や失望に変わることはなかった。

 そうこうしているうちに、帯が配られていった。言釣時代に付けたものと違い、帯は湿らされていた。周囲に合わせて、それで両目を覆い、頭の後ろできつく縛る。肌に生じた僅かな痒みから、布地にたっぷりと染み込んだ毒が、瞼から眼球へだんだんと浸透していく心象がよぎった。言釣に誘導されて祖は亀裂に潜る。亀裂の幅は、人ひとりがやっと入り込めるくらいで、足の裏で流れてくる微風から、深さの尋常ではないことがうかがわれる。その壁面を、各々の間隔を空けながら、滝方を含む老人達は下っていく。

 亀裂に向うまでに感じた、地上の耐えがたい蒸し暑さに比べて、地下の壁面は、驚くほど冷えまさっていた。指の感触から、壁一面に先祖の刻んだ文字が書き連ねてあるのが、祖にははっきりと分かった。しかし、その理解は、文字がある、という段階までで、どのような意味がそこに込められているのかは勝手に想像してみるより他なく、仮に視覚があって形状を見ることができたとしても、一家一家で異なる文字が互いに絡まり合っているのを解読していくのは、非常に骨の折れることだった。

祖は、両腕を鷲のように広げて、腹側の体全体を、文字の壁に押しつけてみた。すると今までは別々に囁いていたはずの凹凸一つ一つの屈曲、延長、流動が、互いに融け合いながら一気に迫って来て、老人の骨ばっているがまだ筋肉の残っている四肢や、肋骨の浮き出た胸、少しだけ膨らんだ腹を通じてなだれ込んだ。その塊は彼の脳裏で様々な像を錯綜させた。密着させた体の部位を動かす度に、像達は変化し、その具合は、蝟集した蟲の蠢きに似ていた。蠢きは、やがて一連の物語となって、祖の頭の中を駆け巡っていった。繰り広げられる様々な人物達の営みを感じながら、祖は体を動かした。そして、適当な余白を認め、手に持った小刀をそこに突き立てた。彼は、承けていた字を、そこを起点として下へ下へと彫り込んでいった。老人はさきほど会った酒呑や、他の仲間には口でしか伝えたことのなかった物語を、今、文字という殻に包んで壁に刻み込んでいく。側方に耳を澄ませば、他も同じことを行っており、壁を削る音が隙間なく流れてくるのを聞くことができた。祖は、書き続けた。話の中で、祖は世界を創造した。最初の人間を生み出し、彼に名づけさせ、戒律を破らせた。祖は、話の中で、雨や岩を降らせた。全て、彼が地上に居た時に考え出した内容だった。しかし、それらの内容をどう連関させていくかで迷い、幾つかの要素を捨てた。余白の都合から、既に刻まれた文字の列に上書きしていくこともあった。その過程で、祖の文字と先祖の文字が、重なり合い、どちらのものでもない文字の形象が生まれていった。そのようにして、彼は自分の中で生じていた物語の流れを、先祖の代から蓄積され、互いに融け合った神話や説話の大河に加えながら、眼下の深淵に沈んでいった。沈めば沈むほど、地下の心地よい冷気と、皮膚に伝わってくる文字の印象は濃くなり、老人を包んでいった。

 祖はふと、この状況に既視感を覚えた。それは、彼のこれまでの生涯全てを包み込むような特殊な既視感だった。敢えて言葉に表すとすれば、祖の生涯は、壁を削っている他の老人たちと同様に、なぞり、刻む、この二語に収斂されるようだった。振り返ると、さっきまで抱いていたあの子のように、自身の祖父の肌を探っていた時が、祖にはあった。そしてその印象を心に刻もうと、言葉のまだ備わっていない口で、遠い目をした祖父の顔に必死に彼は声を上げていた。またある時、彼は、林の中で、葉についた露や、樹皮のひび割れ、苔の茂りを、まさぐっていた。その感触をいつまでも持っておきたいと思い、葉をちぎり、樹皮を剥ぎ、苔をむしり取った。彼は、食物を嗅ぎ、妻の肩に手をおき、食物を味わい、彼の妻を知った。彼は、息子の頭をなで、父から受け継がれた彼の家独自の文字の体系を子の頭の中に吹き込んだ。視線で、指で、体でなぞり、視線で、指で、体で、刻む。滝方の祖を含む人々の生涯は、これだけが全てで、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 彼は、足裏に今まで下ってきた土の壁とは違う感触を覚えた。それは、岩というには滑らか過ぎ、軽過ぎた。少し力を加えるとそれは、足裏から消え、虚ろな音を立てながら亀裂の底に落下していった。先祖だったものとの接触は、命綱を付ける言釣が下れない領域にまで、滝方の祖が到達したことを示していた。彼は、巻かれていた帯を取った。布に染み込んだ毒が、とっくに彼の光を奪っていた。しかし、視覚がなくとも、辺りを取り巻く静寂と文字の凹凸が、漂っている神話の気と、凝(こご)る闇をはっきりと捉えていた。深淵は、続いていた。刻まれた文字の列には、まだ先があり、どこで尽きるかも知れない晦冥に落ち込んでいた。祖は、先祖や自分達が書き残した説話や神話、その他ありとあらゆる物語が、地の奥底で互いに溶岩のように混ざり合い、一頭の巨大な獣となって人々の住処を支えている様子を想像してみた。もしも、その巨獣がその体躯の全てを、つまり過去の人々が蓄積していた全ての知恵を見せに、陽の下に上がり出てきたならば。

 祖はそこまで考えて、自分がどんなに馬鹿げたことを思い、今も思い続けているのか、驚くと同時に辟易した。暗がりと同化していた背の傷が、輪郭を取り戻してきたのが感じられた。

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