第5話 体調悪化

 ロゼ達が牢屋に捕らわれてから、数日が過ぎた。

 食事は必要最低限の質素なものが続き、寝床も牢屋内の硬い地面。人数分の毛布をディアが奪い取ってきたが、蝶よ花よと育てられ、上質な生活しかしてこなかった令嬢達には厳しい環境であり、彼女達の顔には色濃い疲労が見て取れる。

 ロゼとて慣れない生活に神経をすり減らしているが、努めて表情に出すことはしない。

 捕らわれた令嬢達の中心にいるのがロゼだと、彼女はしっかりと理解している。そんな彼女が音を上げるなど、他の者達を不安にさせる要因にしかなりえない。

 内心がどうあれ、泰然としていなければならない。

 なにより、ロゼは自身のことよりも、リーリエの方が心配だ。


「はあ……はあ…………」


 生来、病弱であったリーリエが、このような牢獄生活に耐えられるはずもない。

 頬を触れれば高い熱を感じ取れ、呼吸は荒くなるばかり。ディアに頼み、適度に水分を摂らせてはいるが、湧き出る汗が彼女の水分を直ぐさま奪っていく。

 悪化するばかりの症状に、ロゼは気が気ではなかった。

 このままでは……。

 最悪の予想を頭に浮かべてしまい、弱気になる自身の心を叱咤する。そのような未来には、絶対にさせはしない、と。

 ロゼの膝を枕にし、簡素な毛布で身を包むリーリエに、ロゼは声を掛ける。


「リーリエ……」

「はあはあ……申し訳……ありません、ロゼ様……。ご迷惑を……ん…………お掛けしてしまい」

「迷惑など一つも掛けられていないわ。貴女はとにかく、自分の身体だけを案じなさい。助けも、もうすぐ来るわ。なんなら、その前に出てやるんだから」

「ふふ……流石は、けほっ。ロゼ様です」


 健気に笑みを浮かべるリーリエを見て、彼女の手をぎゅっと強く握る。

 そうして、見守ることしかできないままでいると、牢屋の中へとディアが入ってきた。


『……っ』


 未だ、ディアに怯える令嬢が身を竦める。

 ロゼからすれば、彼の助けなくば生きられない現状で怯える理由はなく、なにより、彼なりの優しさを感じてはいるので、一定の信頼を寄せている。

 だからこそ、近付いてくるディアに、一切の警戒はしない。


「病気ですか?」

「ええ。昔から身体が弱かったの。薬を飲んで安静にしていれば多少は落ち着くのだけど、この状況では望むべくもないわね。……レヴォルグ。リタのみならず、リーリエさえも苦しませるなんて。ほんと、どうしようかしらね」


 ロゼの身近な者達を次々苦しめるレヴォルグを思い浮かべ、知らずロゼの表情が黒い笑みを浮かべる。


「病気、ですか」


 そんなロゼとは対照的に、ディアは病に苦しめられる少女を無表情のまま見下ろしている。

 今にも死んでしまうのではないかと、弱々しい少女を見て何を思ったのか、ディアは腰に巻き付けている鞄の中を漁り出す。

 

 ――


 リーリエは物心付いた頃から、身体が弱く、よく体調を崩していた。

 外に遊びに行くことはできず、社交界に出ても必要最低限の挨拶を済ませて帰るだけ。そのせいで、友達ができることもなかった。

 貴族令嬢達が通う格式高いフラウシュトラオス女学園に入学してからも、それは変わらなかった。学園にはほとんど通えず、通えたとしても早退する日々が続いた。

 そんなリーリエに近付く者はいない。

 まるでいないかのように扱われる学園生活は、心も身体も弱かった少女には辛い日々であった。

 ただ苦しいだけの学園生活。だが、ある日を境に大きな変化が訪れた。

 教室の片隅で、静かに時間を過ぎるのを待っているリーリエに、ロゼが声を掛けてくれたからだ。


『貴女。そこの』

『えっと、私、ですか?』

『そうよ。貴女。確か、リーリエ・フォーゲルだったわね』

『は、はい』

『貴女、いつも放課後になる前には帰ってしまうけれど、今日はいいのかしら?』

『はい。本日は、体調も良く、最後まで授業を受けられましたので』

『そう。なら、少しお茶に付き合ってくれないかしら? ちょっと、話相手が欲しいの』


 どこか楽し気な笑みを浮かべたロゼが印象的で、リーリエは良く覚えていた。

 初めて話した時から、公爵家令嬢だという立場など感じさせない距離感で接してくれるロゼ。彼女に付き添うリタは、いつもロゼに「公爵家令嬢らしくして下さい」とお小言を口にしていたが、なんだかんだとロゼに甘いのを、リーリエは良く知っている。

 それから、交流を深めていく内、ロゼは学園を休みリーリエのお見舞いをしに来てくれるようになった。

 リーリエとしては、自身をそれだけ気にしてくれるロゼの対応は嬉しかったが、流石にこれにはリタがご立腹となり、雷が落ちた。それでも、諦めずに来訪してくれるロゼだったが、リーリエの方が申し訳なくなって、ロゼを説得することに。

 それ以降は、学園が終わってから、リーリエの屋敷を訪れてくれるロゼ達とお茶会をするのが日課となった。

 身体が弱く、生まれた時から不利な条件で生きてきたが、それでもロゼに出会え、幸せな日々を送っていた。

 ロゼには、感謝してもしきれない。


 だからこそ、こうしてロゼに迷惑を掛けてしまうことを、リーリエは申し訳なく思う。

 リーリエの頭を膝に乗せ、ロゼはずっと手を握ってくれている。

 誘拐なんてされて、ロゼも恐ろしいだろうに、そんな弱気を一切表に出さず、気丈に振る舞う姿はとても眩しかった。

 リーリエを心配させないよう、都度微笑み返してくれるロゼに、リーリエは申し訳なさと感謝しかない。

 彼女の献身に応えるために、笑顔を浮かべて大丈夫だと口にしたかったが、身体は言うことを聞いてはくれない。

 体調は悪化するばかりで、意識も朦朧としている。

 このまま、死んでしまうのでしょうか。

 捕らわれ、薬もない状況では、そうなってしまうのかもしれない。

 迫る死の恐怖。けれど、それよりもロゼへの申し訳なさが先に立つ。

 自分なんかのために、笑い、泣いてくれる大事な人を、悲しませたくはなかった。

 私はどうなっても構いません。だから、どうかロゼ様だけは、お救い下さい。

 そう願うことしかできない情けなさに、涙さえ零れる。

 そうして、祈り、耐えるしかできないリーリエだったが、彼女の視界に黒髪赤目の少年が入ってきた。

 ディア・ファーリエと名乗り、リーリエ達を救うと言ってくれた人だ。

 とても不思議な少年だった。

 ザンクトゥヘレという厳しい環境下で育ったというが、礼儀はしっかりしており、粗野な言動も見られない。

 レヴォルグと戦う姿は恐ろしくもあったが、同時に頼もしくあったのを覚えている。

 彼なら、きっとロゼ様をお救いしてくれますよね?

 そう願い、ぼやけた視界で見つめていると、彼は腰の鞄から透明な硝子瓶を取り出した。

 その行動に、ディアを主と仰ぐフランが驚きを示した。


「ディア様!? いけません! それはとても貴重な品なのですよ!? かつて、貴方にそれを渡した方は、ディア様がお使いになることを望んいたはず。こんなところでこのような小娘を救う為に使っていいものではありません!」

「道具は使ってこそです。眠らせて必要な時に使わないなど愚の骨頂。今、これを使えば彼女を救えるかもしれません。ならば、躊躇う理由は一つもない」

「ですが……っ」


 尚も言い募るフランを押し留め、ディアは瓶の蓋を取る。

 そのやり取りを見ていたロゼは、彼に真剣な眼差しを向けた。


「それで、どうにかできるの?」

「分かりません。何分、頂き物で私も使うのは初めてなのです。ただ、可能性はあります」

「そう。なら、お願い。リーリエを助けて」


 そう言って、ロゼはディアに対して頭を下げた。

 これにはフランも、リーリエも驚く。

 公爵家令嬢が、どこの誰ともしれない者に頭を下げるなんて、と。

 リーリエからすれば、それが自分の為だというのだから、そうまでさせてしまったことに、心が軋む。それでもなお、嬉しいと思ってしまう自分の浅ましさが、とても惨めにさせた。


「助けられるかはわかりません。出来る限りのことをします」


 懇願するロゼに、ディアは淡々と、だが誠意を持って返す。


「飲みなさい。リーリエ」

「ロゼ……様……」


 ロゼによって身体を起こされたリーリエの唇に、ディアからロゼの手に渡った硝子瓶がそっとあてがわれる。

 どういったものか分からない、見知らぬ男の所持していた薬。

 決して、信用できるものではない。しかし、心から信頼するロゼが託した人のものだ。ならば、リーリエが拒否する理由はない。

 なにより、ディアの真っ直ぐな瞳に、リーリエを騙そうとする意志は見られなかった。

 ゆっくりと傾けられた瓶から、少量の液体が口の中へと流れ込む。

 喉を鳴らし、飲み込んだ液体に味はなく、ただの水のようであった。

 薬、ではなかったのでしょうか?

 ディア本人すら中身を把握していない様子であった。彼が謀れていた可能性も否定はできない。

 リーリエはそう考えたが、変化は直ぐに訪れた。


「え……」


 まるで、魔法にでも掛けられたかのように、身体の不調が消え去ったのだ。

 先程まであんなにも苦しかったというのに、咳は収まり、熱も引いていく。体調の悪さなど嘘であったかのように。

 ただ、それだけでは終わらなかった。

 慢性的な気怠さや、日頃から感じていた体調の悪さすら消え去ってしまっているのだ。


「嘘……身体が怠くありません。なにも、なにも苦しくありませんっ」


 これではまるで、生まれた時から抱えていた病が、治ったようではないか。

 奇跡のような出来事に、理解が追い付かない。


「どうして、こんなことが……」

「リーリエ、良かったわっ!」


 どう感情を表せばいいのかわからないリーリエよりも早く歓喜を示し、彼女をこれでもかと抱きしめたのはロゼだった。


「顔色も良くなって……。健康そのものだわ。ありがとう、ディア。貴方には感謝してもしきれないわ。けれど、一体何を飲ませたの? こんな即効性の薬なんて聞いたことがないわよ?」


 弱り切った身体。軽い風邪などでも死がよぎる身体を、リーリエや彼女の両親はこれまでどうにかしようと試みてきた。

 健康的な生活もそうだが、数多くの医者に診てもらい、それが駄目ならと、名高い魔法使いを招いたこともある。時には、あるかも分からない魔導具すら探し求めた程だ。

 それだけ手を尽くしても、脆弱な身体を治すには至らなかった。それが、ただ少量の薬を飲んだだけで治るなど、到底信じられない。

 驚くリーリエ、ロゼの視線を受け止めたディアは、なんでもないように淡々と答えた。


「エリクシルです」


 額を抑え嘆息するフラン以外の誰もが、言葉を失くした。


 ――


 エリクシル。

 万能薬とされ、時に神の雫と呼ばれる霊薬だ。

 ただし、それは英雄譚など物語の中で登場するもので、現存しないとされている。

 一部の魔法使いはエリクシルの作成に躍起になっているが、作り上げられた者は誰一人としていない。

 そんな、空想上の産物と謡われる霊薬を、ディアはリーリエに飲ませたというのだから、誰もが耳を疑った。

 膠着した状態から一早く回復したのは、ロゼであった。


「エリクシルって、嘘よね? そんな、伝説上の物がこの世に存在するはずが……。ああ、けど……」


 混乱するロゼの視線が、その霊薬を飲まされたリーリエへと向く。

 困惑するロゼの表情を見て、リーリエも困惑しか返すことはできない。


「大丈夫、なのよね?」

「は、はい。体調が良くなったのもですが、幼い頃より感じていた慢性的な怠さなども感じなくなっていまして」


 当人であるリーリエすら信じられないのだ。

 いくらいままで見守っていたとはいえ、ロゼが簡単に信じられるものではない。

 だというのに、誰もが信じ難い奇跡を起こした張本人は、どこまでいっても冷めていた。

 

「エリクシルだと、私はそう伺って貰いました。実際に使うことはありませんでしたから、それが本物かどうかは分かりません。けれど、効果があったようでなによりです」

「そういう問題ではないでしょうよ」


 もし、事実万能薬であるエリクシルだとするならば、値千金どころではない。値が付けらないのだ。

 人の手では作ることの叶わない消耗品。それも、どのような病も立ちどころに治してしまう霊薬だ。死に瀕した王なら、国すら売りかねないほど価値がある。

 それだけの代物を、風邪薬のように平然と、他人の為に使用するディアの神経を誰もが疑った。

 唯一、中身を知っていただろうフランは、疑うような態度を見せる少女二人に怒り心頭だ。


「ぐちぐちぐちぐちと。一体何の文句があるというのですか? そこの小娘の病が、ディア様の大変貴重なお薬によって治ったということでしょう? ならば、そのような態度ではなく、まず礼の一つでも言うのが礼儀というものではありませんか?」


 高圧的で、攻撃的な言動だが、こればかりは当然といえた。

 生涯共にしなければならないと思っていた病を治してくれたのだ。戸惑いや疑問といった個人的感傷なんて後回しにしなければならない。

 ロゼに抱きしめられていたリーリエは、彼女の身体から離れると、しっかりと自身の両足で立ち上がり、ディアを見据える。


「フラン様の仰ることはあまりにも当然です。命だけでなく、生まれた時から抱えていた病さえ治して頂いたというのに、お礼の一つもできないなど、フォーゲル家の娘として、なにより人として恥ずべきことでした」


 淡い水色のドレスの前で手を組み、ゆっくりと頭を下げる。


「ディア・ファーリエ様。この度は、この矮小な身をお救い頂き、感謝の言葉もございません。誠に、誠にありがとうございますっ」


 涙で視界が歪む。

 ぽたぽたと落ちる雫が、地面に黒い点を描いていく。


「これまで、どうすることもできず、治す手立てすらありませんでした。一生、治ることはないと諦めていて、両親や、ロゼ様達に迷惑ばかりを掛けて生きていくしかないのだと、そう思っておりました。

 まともに外出することもできず、学園へ通うことすらままならない身で、誰かに縋って生きていくしかない、と。

 私の人生が不幸だとは申しません。尊敬できる両親に、私のことを親友だと仰ってくれたロゼ様に出会えたことは、なによりも幸福です。

 けど、それでも……」


 もう、限界です。

 これまで、ずっと奥底に秘めていた感情が、津波のように押し寄せてくるのを、リーリエは止めることができなかった。


「怖かった……! いつ死ぬかも分からぬ身で生きていくことがなによりも恐ろしかった……! そんな恐怖から解放されるなんて、こんな、こんなに嬉しいことはございませんっ。本当に、本当にっ、ありがとうございますっ! ありがとぉ……ございます…………っ!!」

「リーリエ……。よく、頑張ったわね」


 ロゼはそっと、リーリエを抱きしめる。

 彼女の胸の中でリーリエは、とめどなく涙を流しながらも、お礼を口にし続けた。

 様々な感情をない交ぜにし、身を寄せ合う二人を前に、この状況を作り出したディアは、どこか困ったように彼女達を見つめていた。


「どうして私は、こんなにもお礼を言われているのでしょうか……?」


 困惑するディアの声は、彼女達に届く前に霧散して消え去った。

 唯一、その言葉を聞き逃さなかった従者は、諦めたように息を吐き出したが、それでも、どこか嬉しそうに、ディアを見つめていた。

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