高貴な令嬢の守護者~誘拐から始まる物語~

ななよ廻る

第1話 誘拐された貴族令嬢

「ロゼ様。ロゼ様、起きて下さい」


 身体を揺さぶる感覚に、赤いドレスを身に纏った少女、ロゼ・ベッセンハイトは寝苦しそうに唸りながら、瞼を開けていく。

 眠気眼でぼやける視界に映る女性を見て、ロゼは自身の従者の名を呼ぶ。


「リタ……?」


 そう呟くも、段々と視界がはっきりとしてくるに連れ、人違いだということに気が付いた。こちらを心配そうに覗き込んでくるサファイアのように青く澄んだ瞳は、決して彼女の従者のモノではない。

 頬に触れる少女の長い茶色の髪に触れ、ようやく相手が誰だかを察する。


「リーリエ?」


 ロゼに名前を呼ばれた少女、伯爵家令嬢リーリエ・フォーゲルは今にも泣きそうな表情で、嬉しそうに頷いた。


「ああ、良かった。無事に目が覚めて」

「なにが…………どうして私はリーリエに膝枕をされているのかしら?」


 覗き込んで来るリーリエとの距離がやたら近いと感じてはいたが、ロゼの頭が彼女の柔らかい膝の上に乗せられていたからに他ならない。

 顔が近いとはいえ、やたら存在を強調するリーリエの胸が、隔たってはいるのだが。


(膝枕をされて、顔が見えにくいって、本当にあるのね)


 リーリエが覗き込もうとすればするほど迫る胸部に、やや頬を引きつらせる。なんというか、迫力がとんでもない。

 同じ女性ながらも感じ入ってると、どうしてかリーリエが申し訳なさそうに謝罪する。


「私の膝などでは申し訳ないのですが、地面に直接寝かせるよりは良いかと思いましたので」

「よくわからないけれど、良い寝心地だったわよ? けれど、どうして私は地面で寝かされているのかしら?」


 これでも公爵家令嬢たるロゼが地面に寝かされるなど、余程なことがない限りありえない。枕がないからとリーリエが膝を貸す程の状況など、咄嗟に思い描けるものではない。それこそ、使用人でもなんでも呼び付けて、ベッドに運び込めがいい話だ。

 そもそも、ここはどこだと、身体を起こし周囲を見渡して愕然とする。

 岩肌に囲まれた室内で、周囲には色鮮やかなドレスを身に纏った少女達が、顔を青ざめ、今にも泣きそうになりながら震えていた。

 中でも目を疑ったのは、無骨な鉄格子だ。

 そこで初めて、自分達が閉じ込められていることをロゼは知った。


「これは、どういうことかしら?」

「覚えていらっしゃらないのですか?」


 不安そうなリーリエに、ロゼは眠ってしまう前のことを頭を押させて思い出そうと試みる。

 そうしていると、頭を強い鈍器で殴られたような衝撃と共に、全てを思い出す。

 ザーザーと砂嵐でも吹き荒れるように霞む記憶は、今頃になってロゼの精神を蝕んだ。

 上手く空気が吸い込めず、息が荒くなり、視界が明滅する。

 激しくなる息遣いに、気付かず胸元を抑えた。


「ロゼ様っ!?」

「大丈夫……大丈夫よ、リーリエ。ちょっと、急に思い出して頭が追い付かないだけだから」

「ですがっ」

「大丈夫」


 顔は青を通り越して真っ白になりながらも、この心優しい親友を不安にさせまいと笑みを浮かべる。

 赤く染まる記憶を手繰りながら、ロゼは自身の置かれた状況をようやく悟った。


「そう……誘拐されたのね。私達」



 ――


 ロゼが意識を失う前。

 彼女はフラウシュトラオス女学園の教室にて、今にも脱力し、机へと突っ伏しそうだった。


「やっと終わったわ」


 長く苦しい授業から解放されたロゼに、彼女の侍従兼護衛であるリタ・シュベルトは、主に対して釘を刺す。


「ロゼお嬢様。まだ学園内ですので、だらしない態度は取らないようにして下さい」

「しないわよ。まだ周囲の目があるんだもの」

「周囲の目があろうとなかろうと、公爵家令嬢として恥ずかしくない態度を心掛けて頂きたいのですがね?」

「主人に死ねと言うなんて、随分辛辣な従者ですこと」

「一言もそのようなことは口にしていません」


 主従でありながら、友人同士が戯れるような会話をしていると、ロゼ達に近付いてくる女性が、蒼い瞳を細めてクスッ、と笑みを零した。


「リーリエ」


 名前を呼ばれた少女は、ロゼとリタへと丁寧に頭を下げると、楚々と歩み寄る。

 令嬢らしい所作に、リタが視線で「普段からこれぐらいして頂きたい」と訴えかけてくるが、気付かないフリをした。


「お二人はいつも楽しそうですね」

「従者の心ない言葉に傷付いている私のどこが楽しそうなのかしらね?」

「そのように遠慮のない会話ができる関係が、私は羨ましいです」

「ですってよ?」


 ロゼはちらりとリタへ視線を投げると、彼女は辟易したようにため息を付いた。


「私としては、従者として立場を弁えた言葉を選びたいのですけど、ね?」


 まるでどこかの誰がそうさせてはくれないと、半眼でロゼを見つめ返す。

 さて、それは一体誰のことなのでしょうね?

 ロゼは肩をすくめて、素知らぬ顔。


「私達の関係はともかく。リーリエは調子が良さそうでなによりだわ。授業も最後まで受けられて、顔色も良いもの」


 幼い頃より病弱なリーリエは、普段から体調を崩しやすく、学園を休みがちだ。例え学園へ来られても、早退することの多い彼女が、放課後まで元気な姿でいるのは珍しく、喜ばしいことだ。

 

「はい。本日は調子が良くて。こうしてロゼ様と放課後にお話しができるなんて、とても嬉しいです」


 蕾が花開いたような鮮やかな笑顔に、ロゼも思わず笑みが零れる。


「そう。けれど、無理をしてはいけないわよ? 別に学園に来ようが、屋敷で療養していようが、会うことはできるのだから」

「リーリエ様に会うことを口実に、学園をサボるのだけは止めて頂きたいのですが?」

「しないわよ…………もう」


 そっと、顔を背ける。

 これまでは彼女が体調を崩して学園を休む度に、ロゼも学園を休んでお見舞いに向かっていたが、周囲からのお叱り(主にリタ)とリーリエの申し訳なさそうな態度に今では止めている。

 サボりたいという気持ちも多少なりともあったが、身を案じたリーリエにさえ負担を掛けては意味がない。


「こうして立ち話をしていても仕方ないわ。リーリエの屋敷でお茶にでもしましょう」

「ロゼお嬢様……少しは遠慮というものを見せて下さい。せめて、リーリエ様にお伺いを立てるという礼儀をですね」

「ふふ。ロゼ様がお越しになって下さるのなら、こんな嬉しいことはありません」

「ですってよ?」


 リーリエの返答に得意げなロゼに、処置なしとばかりにリタは頭を押さえて天を仰ぐ。

 そうして、彼女達はいつものよくある日常を過ごしていた。だが、それは一瞬のうちに瓦解してしまう。

 突如として、学園内に爆発音が響き渡り、校舎が揺れ動いた。

 突然の出来事に、教室内に残っていた令嬢達が悲鳴を上げる。


「っ!? 何事ですか!」


 異常事態にリタが声を上げると、続け様に爆発音が再度響いた。

 今度の爆発は先程よりも音が近く、教室内の揺れも一際激しい。


「きゃぁっ!?」


 危うく倒れそうになるリーリエを、ロゼは肩を抱いてしっかりと支える。

 支えた肩から伝わってくる震え。弱々しくロゼを見上げたリーリエの瞳が不安に揺れていた。


「ロゼ様……っ」

「落ち着きなさい。二人とも」


 務めて落ち着いた声音を出すと、二人はロゼをしっかりと見据えた。

 一方は不安。一方は警戒を瞳に宿しているが、少し落ち着きを取り戻したようだ。

 ならばと、リーリエから手を離すと、ロゼは背筋を伸ばし、教室内へと凛とした声を響かせる。


「全員、落ち着きなさい!」


 悲鳴を上げ、慌てふためいていた令嬢達は、ロゼの声を聞き届けたのか、一様に口を閉ざし、ゆっくりと視線を彼女へと集める。

 誰もが表情に不安を宿し、どうしたらよいのかと恐怖していた。

 故にこそ、冷静に対処しなければならないと、ロゼは彼女達の不安を一身に受け止める。

 一人ひとりの目を見つめ返し、全員の意識が集まったことを確認したロゼは、幼い頃より頼りにしている従者へと指示を出す。


「リタ、貴女が頼りよ。事故か、あるいは人為的なものか。どうあれ、まずは状況の確認よ。安全が確認でき次第、先導して私達を安全な場所に案内しなさい」

「かしこまりました。この命に変えましても、必ずお守り申し上げます」


 先程までの友人のように近しい話し方とは打って変わり、リタは確固たる礼儀と忠誠を返す。

 親愛なる従者の姿に頼もしさを感じつつも、呆れたとばかりに息を吐く。


「馬鹿言ってるんじゃないわよ」


 コツン、と。額を小突くと、リタは目を丸くする。

 その驚いた表情が可愛らしく、内心クスリと笑ってしまう。


「リタが死んだら、誰が私の散らかった部屋を片付けるのよ」


 精一杯、ロゼが冗談めかして言うと、リタの強張っていた表情が緩む。


「……それぐらいは、ロゼが自分でやってほしいのだけど」

「ふっ。できるわけないでしょう」


 敬語も礼儀もない、リタの幼馴染としての言葉に、ロゼもまた頬を緩ませる。

 自信満々に宣言するロゼに、リタは苦笑する。


「では、お嬢様方、少々失礼致します」


 右手を左肩に当て、軽く頭を下げ、リタが教室を出ようとした時だった。

 いつの間にか、リタの背後に白い軍服に、黒いマントを纏った男が現れたのは。


「なに。少しと言わず、しばらく休むといい」

「――――ッ!? だ――」


 リタが腰に差していた剣に手を掛け、振り返った時には全てが遅かった。

 金の瞳を持つ男は、手に持った大剣を躊躇なくリタへと振り下ろす。


「――――ッ」


 姿を見ることすら叶わず、リタは血飛沫を上げながら、いともあっさりと崩れ落ちた。

 彼女が音を立て倒れ、血の池が徐々に広がっていく。

 一瞬の静寂。リタが斬られたという出来事を頭が理解できないままでいると、先に状況を理解してしまったのは令嬢達だった。


『いやぁあああああああああああああっ!?』


 甲高い悲鳴が教室内を支配する。

 そうして、はっと我に返ると、リーリエが泣きながらリタに近付こうとしているのに気が付き、咄嗟に腕で遮って止める。


「ロゼ様、ロゼ様っ。リタ様がぁっ」

「分かってる。分かってるからっ。落ち着きなさい」


 ロゼとて、リタの名前を呼び、泣き叫んで抱きしめたかった。

 死なないでと、か弱く無力な女性としてありたかった。

 だが、と。

 リタを傷付けた男を前に、絶対に弱さを見せるわけにはいかないと、瞳を逸らすことなく、真っ直ぐに男を見据える。

 ――私のリタを傷付けた報いは、必ず取らせる。

 そう、心に刻み込みながら、この絶体絶命の状況をひっくり返すことができないかと、思考を巡らし続ける。

 そんな他の令嬢達とは違うロゼの態度に、男は驚嘆する。


「ほう。悲鳴一つ上げないとは、なかなかに肝の据わったお嬢様だ。なにより、冷静だ。私から逃げられないかと模索しているのかね? 令嬢とは思えない程の強さを持っているな、君は。だが――――どうすることもできはしながね」


 そう、男に告げられると、気が付いた時にはロゼの視界は暗転し、気を失っていた。


 ――


 全てを思い出したロゼは、軋むように痛む胸を必死に抑える。

 一体ここはどこなのか。あの男は何者なのか。そして、ロゼの親愛なる従者は無事なのか。

 確認しなくてはならないことは多く、不安もある。


「ロゼ様っ」


 だが、今にも泣きそうな親友を前に、取り乱すことは許されないと笑顔を張り付けて平静を装う。

 元より、公爵家令嬢として社交界に呼ばれることも多い。内心を隠し、表面上を取り繕うなど物心付いた頃から慣れている。


「大丈夫よ。落ち着いてきたわ。ありがとう、心配してくれて。なにより、お互い無事でよかったわ」

「ですが、リタ様がっ」


 リーリエの口から零れる従者の名前に、教室での惨劇を思い出し、一瞬頭が痛む。

 突然現れた男に斬られたリタ。溢れる血の量は尋常ではなく、あのまま手当をされなければ……。

 そんな自身の不安を振り払うように、ロゼは努めて笑う。


「大丈夫よ。リタは死なないわ。だって、私の面倒を見れるのはリタしかいないもの。勝手に死んだりしないわ」

「ロゼ様……。そう、ですよね? リタ様が、ロゼ様を置いてお亡くなりになるわけありませんものね?」

「当然よ。むしろ、誘拐されたからといって、泣いていたら公爵家令嬢がみっともないと怒られてしまうわ」


 手を伸ばし、リーリエの目尻に溜まった涙を拭い去る。

 すると、か細い声を漏らしたリーリエは、頬を染めて俯いた。


「……私も怒られないよう、しっかりしないといけませんね」


 顔を上げたリーリエは笑顔を浮かべる。

 ただの強がりなのは一目瞭然だが、それでも、泣いて俯いているよりずっと良い。

 だが、笑っていられたのも一時だった。リーリエは苦しそうに顔を歪めると、幾度か咳き込む。

 元々、体調を崩しやすい彼女が、このような劣悪な環境下に置かれて大丈夫なわけがない。

 状況に付いて行くだけでやっとで、リーリエの体調を忘れてしまうなんて、情けないわ。

 悔やむロゼは、リーリエに寄り添って優しく背をさする。


「リーリエ、大丈夫? 体調が良くないのね?」

「ごめん、なさい。えほっ。でも、大丈夫です。これぐらいなんともありません」


 気丈に振る舞っているが、額は汗で濡れ、触れた身体は熱を帯びている。

 早めにこの状況をどうにかしないと、リーリエの身体が持たないわ。

 だからと言って、閉じ込められているロゼに出来ることなどなく、彼女に寄り添うことしかできない状況に歯噛みするしかない。


「そう。けど、絶対に無理はしないで。この状況でできることは少ないけれど、横になって安静にしていなさい」


 そう言って、ロゼはリーリエから少し離れると、自身の膝を軽く叩いた。


「ふふ。今度は私の番ね?」


 先程のお返しとばかりに微笑むと、リーリエは慌てて首を振る。


「そんな。ロゼ様にそんなことをしていただくことはできません」

「無理をしないと言ったばかりよ。なにより、伯爵家令嬢が公爵家令嬢に逆らうなんて、言語道断よ。素直に私の膝を枕にしなさいな」


 嫌々と子供のように抵抗するリーリエの身体を捕まえて、無理矢理自身の膝に頭を乗せる。

 熱か羞恥か、顔を真っ赤に染めたリーリエは、そのような顔を見せられないとばかりに両手を顔を覆ってしまう。

 なんとも愛い反応に、時と場所を弁えずにロゼの顔が綻ぶ。


「うぅ。申し訳ありません」

「そういう時は、ありがとうというものよ」


 ロゼの指摘に、耳まで赤くしたリーリエは、小さな声で呟いた。


「……はい。ありがとうございます、ロゼ様」


 ――



 そうして、幾ばくか過ぎたか。

 ようやく眠ってくれた少女の柔らかな茶色い髪を優しく撫でていると、荒々しい足音を響かせ、牢屋へと近付いてくる者がいた。

 十中八九、今回の誘拐を企てた者の仲間だろう。

 脳裏に黄金の瞳を持った騎士を思い描いたロゼだったが、現れた者は別人であった。


「ああ、揃ってる。揃っているじゃねーか。フラウノインの貴族様方がよぉ」


 薄汚れ、見るからに穢れた男が、鉄格子を掴み牢屋の中を値踏みするように眺め、汚い笑みを浮かべてきた。


「ひっ」


 野蛮な男の態度に、同じ牢に入れられた令嬢が小さく悲鳴を上げた。

 それも当然だ。誘拐されたというだけでも恐ろしいのに、このような下劣な視線を向けて来る男が現れたのでは、身も竦む。

 そうした感情の変化すら楽しんでいるような男を、ロゼは真っ直ぐに見据え、凛とした声を響かせる。


「貴族様のいる部屋へ無断で訪れるなんて、無礼にも程があるわね?」


 まさか声を掛けられると思っていなかったのか、男はロゼを睥睨し、楽し気に口元を歪めた。

 意識がロゼへと移ったからか、周囲の強張っていた空気が若干緩和する。その変化をロゼは背で感じ取った。


「ひははっ。ああ、この状況でそんなクソ生意気なことが言えるなんて、大した度胸じゃねーか。なあぁ?」


 身体を舐める視線に嫌悪が湧き上がるも、表情には一切出さないよう取り繕う。


「お前も、大した度胸ね。公爵家令嬢に向かってそのような無礼な態度。不敬罪で処刑は確実よ?」

「いやいやいや。大したもんだ。こんな捕らえられた状況で本当に良く吠える。ひははっ。ああ、俺はお前みたいに気の強い女は嫌いじゃないぜ?」

「そう。私はお前のような無礼者、大嫌いだけれど」

「ああ、そうかい。まあ、俺も女としては好みだが、お貴族様は大嫌いだがな」


 男は獰猛な笑みを浮かべると、手に持っていた鍵を使い、牢の扉を開けた。

 背中から聞こえる、地面を後ずさる音。

 無理矢理連れられていた牢屋の中とはいえ、男とロゼ達を隔てていた壁がなくなったことにより、恐怖が増したのだろう。

 手汗を感じつつも、ロゼの瞳は男を捕えて離さない。


「どうするつもり?」

「どうしたらお前は、お前らは苦しむかねぇ?」


 一歩一歩ゆっくりと、ロゼの恐怖を煽るように近付きながら、腰に差していた短剣を抜き去る。

 牢屋の外で燃える松明の火に照らされた錆びた短剣は、妖しく光る。


「斬り刻めばいいのか。それとも、そのお上品なドレスをひん剥いて犯せば、泣き叫んでくれるのかねぇ?」

「下種が」


 これまで表情に出さないようにしていた侮蔑の感情を声に乗せる。

 女を慰み者としか考えていない男に吐き気が催す程の嫌悪が沸く。

 こんな男に犯されるぐらいなら、死んだ方がいいわ。ああでも、この子と一緒にというのは、難しいわね。

 未だに体調が優れず、眠ったままのリーリエ。せめて、彼女を護らなければならない。

 どうすればいいのか。必死に思考を巡らしていると、男の表情がいきなり消えた。

 先程までの好色な表情から、一切の無表情。

 突然の変化に訝しんでいると、男は目を血走らせ、喚き散らす。


「そう。そうだよ俺は下種だ。てめえらお貴族様が塵屑だ糞だと決め付けた、最底辺の糞野郎だともさぁっ!? ああ、ああっ。だから、だから、そうして塵だと決め付けられた俺が、どんな下種野郎か教えてやるよ! どんなに泣き叫んでも、絶対に許さねぇ! 下種だと蔑んだ俺に、大事なモンを奪われて、最後には肉片にまで刻んで、殺してやるっ!!」

「――――」


 発狂したように、豹変した男が短剣を突き付けてきた。

 男の豹変に驚く間もなく、身の危険に対処を迫られる。

 だからといって、どうすることもできはしないのは理解している。

 ならば、くどくどとリタに言われ続けたように、公爵家令嬢らしく、死ぬまで誇り高くあるべきか。

 覚悟を固め、迫る短剣から瞳を逸らさず、堂々と待ち構えていると、突然、牢屋を殴る音が響き渡った。


「ああ!? なんだこんな時にっ」


 苛立ちながらも男は背後を振り返ると、男はロゼ達に背を向けたまま呆然と立ち尽くした。


「な、んで。どうしててめえがここにっ」


 男は声を震わせ、怯えるように後ずさる。


「な、何しに来やがったっ。どうしてここまで来れた!? 他の連中は一体――」

「煩わしい」


 棍棒でも叩きつけたような鈍い音が響いたかと思えば、先程までロゼを殺そうとしていた男が視界から消えた。

 何かがロゼの頬に飛び跳ね、付着する。無意識に指先で拭うと、手に付いたのは赤い血だった。

 部屋へ視線を巡らせば、牢屋の壁を背に男が倒れ込んでいた。頭から血を流し、開かれたままの目は驚愕と恐怖に彩られている。

 起こった出来事に頭が追い付かず、呆然としていると、足音が牢屋内に響く。

 顔を上げれば、黒いロングコートを身に纏った黒髪赤目の少年が、ロゼを見下ろしていた。

 彼が、あの男を殺したの?

 先程の男とは違い、髪も切り揃えられ、身綺麗な少年にそのような事ができるのか不思議に思う。

 敵意や、ましてや下種な色欲など見受けられない、宝石のように赤い瞳をした少年。


「貴方は……?」


 彼の綺麗な瞳から目を離せないまま、口から零れた問い掛け。

 返答を求めたものではなかったが、少年は端的に答えた。


「私はディア・ファーリエと申します。貴方達を元の場所に返す。それだけです」

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