神様の夢
鳶
神様の夢
今まで、同期の結婚式にもう十回は呼ばれた。友人たちにどんどん子供が産まれて、味気なかった年賀状が成長過程の写真に変わっていく。そんな幸せそうな様子をのほほんと眺め続け――
――気づけば俺は三十も半ばであった。
「『あんたそろそろ結婚しないの?』とか簡単に言うけど!」
言葉とともに勢いよくテーブルに置いたジョッキ。あわや大惨事の一歩手前で山盛りの泡が止まる。居酒屋のカウンター席でそんな音を立てようとも気にする酔っ払いは1人もおらず、「まあまあ」と隣から宥める同期の男は既に妻子持ちであった。
「孫が見たいなあとかなおさら無理だから!まず相手探しから始まるし!? 四十手前のオッサンだぞ!?」
「婚活パーティーでも行くか? ひとりで金はあるんだし」
「ひとりを強調するな」
別に恋愛経験が少ないというわけでもなく、そういう欲がないというわけでもない。しかし忙しさにかまけて彼女を放置するという最大の欠点を持つ男、鳶町双葉である。
浮気されるなんて日常茶飯事、家に帰ったら彼女と知らない男がベッドに、なんてのも数回あった。そして彼女を大切にできなかった俺の責任だと正直に謝れば逆ギレされて喧嘩別れ、が基本だ。
「原因は運の悪さだろ」
焼き鳥を器用に串から外しながらしれっと痛いところをついてくるこの男、冬馬司。高校時代からの彼女と結婚し、子供も生まれて今では二児の父親だ。ついでに俺の運の悪さを露呈すると、俺の初恋相手は司の妻である。
「昔から司は運あるよな」
「おかげでいい嫁さんもらいました。いぇーい」
「いい歳してのろけんじゃねぇ酔っ払い」
司のピースサインを払いのけてジョッキのビールを傾けた。よく冷えててうめーわ、380円で現実逃避に浸る。
「子供かわいいぞ」
「まさかお前の口からそんな言葉を聞くとはね……」
俺が知っている学生時代の司は無垢な赤ん坊から無邪気な小学生まで見かけただけで逃げ出していたというのに、この変わりよう。時間と経験はこれほどにも人を成長させるのか。と大袈裟にいってはみてもただの子供嫌いが治っただけである。
「欲しいと思ってんのかよ」
「あー……まぁ……」
「お前、まだ気にしてんのか」
「この歳にもなれば、一層だろ」
俺には15年近く入院している父がいる。一つの病気から始まり、それを取っ掛かりのように次々と併発していった。父の身体はもう、健常者のそれではない。だいたい俺がこの歳だ、もちろん母も高齢になってくる。そんな条件なら尚更――
「結婚できるわけないって?」
「そうやって心見透かすのやめてくれ」
「透けてるお前の本心が悪いんだろ」
大黒柱であった父が倒れた日から、しっかりしなければとそれだけを思っていた。大学中退、急な就職。働いても働いても減らない奨学金の返済。高額な医療費に消える給料。
ふとした余裕が生むのは焦りばかり。将来どうするんだ、もし母も倒れてしまったら、いつか父が亡くなったら。なにを急いでいるのかもわからないまま、ほとんど仕事漬けの毎日を送った。
まぁ運はなかったけど、それでも普通に恋人もいたし、ずっと一人ぼっちっていうわけでもなかった。
そんな俺がやっと重大な事実に気づいたのは、まだ恋人がいたときのこと。
繋いだ手が少しだけ強く握られて立ち止まった、街中のショーウィンドウの前。彼女が羨ましそうに眺めていたのは、レースをふんだんにあしらった真っ白なウェディングドレスだった。
その瞬間だ。自分が背負ったものを、初めて思い知った。
俺はもう何の責任もない子供ではない。
愛してしまうということは、愛されてしまうということは、小さくて柔らかいその手に、俺の荷物を背負わせるということだった。
好きだなんて、愛してるなんて、俺は簡単に言っていい人間じゃなかったのに。
「……気楽な独り身ライフ目指してるから」
「寂しいやつだな」
「うっせ」
ふと、部屋を出ていく恋人の背中が甦った。
『浮気した私が言えるようなことじゃないけどさ。双葉にとっての私は、恋人でしかなかったんだよ』
別れ際に彼女が放った言葉は重かった。
彼女は気付いていたのだろう。俺が一生を添い遂げる勇気なんてないことも、表面上で取り繕う『好き』の言葉も。
本当に好きな人には、そんな言葉が言えないことも。
「後になって辛い思いさせたくないし」
「そうやってどんどん身動き取れなくなってんだろ」
「そんなことはない」
「ある。すいませーん、ビール1つ」
カウンター席での不毛な言い合いに店長が苦笑いを浮かべる。司と飲むときは決まってこの場所なので各自の事情も筒抜けだ。
「ほら兄ちゃん、生ビールだよ」
「さあ、飲め飲め」
大将にずっと兄ちゃん呼ばわりされているのはこの際もうどうでもいい。どうせ二十代前半くらいだと思ってるんだろう。
くそ、吐いた悪態と胸のもやもやを押し流すため渡されたジョッキを煽れば、飲み屋にそぐわない澄んだ声が俺を呼んだ。
「双葉さん!!」
「ぶっ」
「……あ?」
司は店の入口から小走りでやってくる女の子と俺を見比べて、こちらに訝しげな視線を寄越す。彼女は明らかに成年前後の若い女性だが、いや、そうじゃない。俺は無実だ。
「やっぱり! 双葉さんじゃないですか! 最近会えないからわたし寂しくて寂しくて……あっ、今日はご友人と飲んでたんですね! ところで最近元気ですか? わたし元気です!」
返事どころかわずかな隙間すら許さないマシンガントークを聞き終え、やっとのことで俺は口を開いた。
「ええと……久しぶり、和泉さん。こっちは冬馬司。俺の友達」
迷った挙げ句に出たのは地味な紹介文だったが、酒がいい程度に満たした頭でそれ以上の会話をするとうっかり失言しかねない。グラスの氷を揺らす司がどうも、と軽く頭を下げる。
「初めまして、 和泉千穂です! 夫がお世話になって……」
「なってないし夫でもないから」
危うく要らぬ誤解を招くところだった。
簡単に言えば、彼女は俺の仕事のお得意先だ。長い付き合いにはなるが、もちろん恋人でもなくただの知り合い程度。この過度な愛情表現については……正直俺も理解が追い付かない。
「なに? 結婚してたのお前」
「司てめぇ……」
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。隣の司は平静を装いながら弓なりで楽しそうな目元を隠すつもりはない。許さん絶対に酔い潰してやる。
「私は毎日プロポーズしてます!」
「承諾した覚えがないんだけど」
「ひどい! 私はこんなに愛してるのに!」
「和泉さん一方通行って意味わかる?」
久々に会った為か、今日の和泉さんはずいぶん感情表現が激しい。引くかと思いきや更に興味が増したらしい司の好奇の目が俺の心を抉ってくる。
「ああっ時間!」
「待ち合わせ?」
「同期の子たちと約束してて……またお会いしましょうね!」
「はいはい、気を付けてね」
彼女の細い腕に巻いた時計はそろそろ21時を指そうとしていた。バタバタと居酒屋を出ていく背中に手を振りながら、俺に声をかけるためだけに寄ったのかと笑いが込み上げる。
「愛されてんじゃん」
「からかわれてるんだよ」
「へぇ」
海外映画のように俺を煽る司の口笛を咳払いで掻き消して、テーブルの枝豆を摘まむ。和泉さんは昔からああだったわけじゃない。
「昔はこう、大人しくて、純粋で」
「タイプだった」
「そうそう……っておい! 一回り年齢差あるんだぞ」
「最近は珍しくねぇだろうが」
「昔からタイプだったら俺ロリコンじゃん」
あのころの和泉さんはまだ女性というより、ごく普通の女の子だった。呼び方も和泉さんなんてよそよそしいものじゃなくて、千穂ちゃんと呼んでいた。
そして俺は双葉くん、そう呼ばれていた。
近所にある公立中学のセーラー服を着た少女は、ヘッドフォンを外した俺に問いかけた。
「双葉くんは、すきなひといる?」
人がほとんどいない劇場に綺麗な声がよく響く。やけに鮮明に聞こえたのは、耳がやっと外の空気に触れたせいかもしれなかった。
「千穂ちゃんも恋する年頃かぁ」
撤収のために仕事用のパソコンを閉じ、ケースに入れる。その日は千穂ちゃんの所属する劇団に音響スタッフとして顔を出していた。世間に言うお得意様というやつで、たびたび来る俺になついたのがこの少女だった。
「いないの?」
「んー……いた、かな」
「えっ!」
俺が答えるとあからさまにショックを受けた顔をされて少し傷付く。さすがにこの歳で恋愛未経験なのもどうだろうか。
「どんなひと?」
太い縁の眼鏡をくいと上げ、こちらに身を乗り出して返事を待つ千穂ちゃん。その勢いに気圧されながら、ふと頭を過った女性の存在を口にした。
「元気で、よく笑って、好きな人のためなら一生懸命になれる子。ついこのまえ結婚しちゃったんだけどね」
親友と好きだった子の結婚式で友人代表の挨拶をさせられたのはまだ記憶に新しい。両親の言葉すらものともしなかった親友が、感極まって泣く俺につられて泣いて、会場が笑いに包まれたことも。
「じゃあ、告白は?」
「しなかったんだよねー。結婚相手が俺の親友でさ、なんか、こいつらが幸せだったら何でもいっか。って」
「そんなだから貧乏くじ引くんだよ」
「鋭いなぁ」
聞かれたことにすべて答えたはずなのに千穂ちゃんはますます機嫌が悪くて、少し声を抑えて俺も問いかける。その為に一歩俺に近付いて頬を染めるのが年相応でかわいらしかった。
「千穂ちゃん、好きな人がいるんだね」
「うん……」
「どんな人?」
「いちばん欲しい言葉をくれるひと」
そんな完璧な人間いてたまるかと開きそうになった大人げない口を閉じた。中学生の背伸びした恋心なんて、何もかも輝いて見えるものだ。
「それはカッコいいなあ。その人に振り向いてもらいたいんだね」
「うん」
「だったら俺に聞いたって駄目だよ。俺とその人の好みは違うんだから」
不安そうに眉を下げる千穂ちゃんを大丈夫、上手くいくよと励ます結婚すら危うい三十路手前の男。それを信じて頷き、がんばると笑った未来ある十五の少女。
まさか少女の想い人が自分であろうなど、俺は露ほども気付くはずがなかった。
「あ」
「えっ」
秋の昼下がりの公園、声を発したのはほぼ同時だった。目の前にいるのはついこの間、居酒屋で双葉さんといた人だ。しかしそれを言うのも少し憚られて、次の言葉に詰まる。気づかない振りをして逃げるのも居たたまれない。
はらはら積もる落ち葉を前に、しばし二人で固まる。そこに小さな女の子がぱたぱたと走ってきた。
「ぱぱ、ふりん?しゅらば?ちじょうのもつれ?」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだ」
「けいじさんのてれび」
「刑事ドラマか」
舌足らずにも物騒な単語を述べる女の子に若干の恐れを感じた。この年にしてすでに天性の言葉選びだ。そしてそれから、冬馬さんの後ろに隠れる男の子を手招いた。
「あきと、おいで」
「や……やだ……」
「なんで!」
半泣きの男の子とそれを追い回す女の子。泣き付いてきた男の子を抱き上げて、冬馬さんはこちらを見た。父親の、顔だった。
「悪いな、人見知りして」
「……ひ、人違いです……!」
「いや、和泉さんでしょ」
気付かれるはずなんてないと勝手に思った――双葉さんに会うときとは全く違う姿の私に。
人付き合いが苦手で、うまく笑えなくて、ぼそぼそとしか喋れない。猫背で野暮ったくて、太いフレームの眼鏡で顔を覆った、本当の私。
「い、言わないでください」
「あいつに? どうして」
「どうしてって、そんなの……!」
父親である冬馬さんの姿を見て、無性に恥ずかしくなった。
双葉さんはもう、子供がいておかしくないような歳で。そんな双葉さんを七年も追いかける子供のままの私とか。歯の浮くような台詞で双葉さんを困らせる私とか。本性を偽ってまで双葉さんに振り向いてほしい、嘘の自分とか。ぜんぶぜんぶ。
「かっこわるいじゃないですか……」
意を決して振り絞った一言は、今までの何よりもかっこわるかった。情けなさに滲む涙を堪えていれば、冬馬さんはため息を吐く。
「どんだけ美化してんのかはわかんないけど、双葉はそんなかっこよくないよ」
「は!?」
人の覚悟をなんだと思ってるんだ。叫びかけた口を押さえて冬馬さんを見るが、相変わらず男の子を抱いたまま足をよじ登る女の子をあしらうただの父親でしかない。
「ふたばにぃのはなし?」
「ふたばにぃちゃんいつ!?くるの!」
「ああもう、待って。春花と秋人にはまた話すから」
話の腰を折られる冬馬さんがすこし微笑ましい。女の子が春花ちゃんで男の子が秋人くん、か。ていうか、にいちゃんって呼ばれてるんだ。真剣な話をしているはずなのに、子供がいるとどうしてかこう、周りに花が飛んでしまう。
「無理に着飾ったり偽ったりしても、意味はないと思う」
「わ、わかってますそんなの……双葉さん、いつも綺麗な彼女さんいたし」
何度失恋したかわかったもんじゃない。そのたびに髪を切っては伸ばし切っては伸ばし、私の襟足はいつも短いままだ。
双葉さんが恋人と一緒にいるのを見かけて涙が出るのなんて最初だけだと、いつか諦める日が来るんだと思っていたのに、私はとうとう泣き続けてきた。
「和泉さんはあいつのどこが好き?」
「どこが……?」
優しいところ。気にかけてくれるところ。笑顔がかっこいいところ。ふと寂しそうな顔をするところ。照れ屋なところ。私が落ち込んでいるときに、落ち込んで、いる、ときに。
「千穂ちゃんのやりたいようにしていいんだよって、励ましてくれるところ……」
「どうせそんなことだろうと思った」
「どうせ!?」
驚きで敬語もなにもない私をすべて見通したみたいに、冬馬さんは楽しそうに笑う。なにがそんなに面白いのか、私にはわからなかった。
「和泉さんが何をどう偽ってるのかは知らないけど、なんとなく俺の嫁さんに似てるんだよなぁ」
「えっ……じゃあ……双葉さんの好きな人と結婚した親友って……」
「なにそれ、俺じゃん」
ここで対面するはめになるとは。七年越しのご本人ともなれば、確かに子供も産まれて大きくなっているわけだ。
「恥ずかしい……死んでしまいたい……」
「いいきっかけになっただろ?」
子供をあやす癖がついている冬馬さんはうつむく私の頭をぽんぽんと撫でる。さすが双葉さんの親友というか父親というか、嫌なかんじはしなかった。
「双葉さんのこと、大切なんですね」
「まぁ、下手な女にくれてやるつもりはないよ」
ニヤリと口角を上げるその仕草はなかなか様になっていて、次にこちらへ向けられたスマホに面食らう。
「な、なんですか?」
「俺はしびれを切らした」
画面に表示されているのは冬馬さんの連絡先。バタバタとカバンを漁ってそれを交換してすぐ私のスマホに届いたのは、七年かけても手に入らなかった双葉さんの連絡先だった。
もはや数年ぶりの通話だったと思う。もともと会話が苦手な私は電話を出来る限り避けてきたし、ましてや歳上の男性とこうして話すことになるとは予想もしない。
「まままままってください!?!?」
「はは、壊れかけのラジオ?」
「そういうセンスはおじさんですよね!!」
冬馬さんの古いギャグで幾分か心臓は落ち着いた。しかしまだ騒がしい脈拍は私の体を支配していて、整える気力もなく部屋のベッドへうつ伏せに倒れる。
「脈はあるから」
「は? いいですか? わたしの脈がなくなります」
メッセージアプリを通して冬馬さんから提案されたのは、双葉さんとの時間を作るからデートをしろというあまりに突然でハードルの高いものだった。既読数秒で「無理です」と返した私に、無情にも電話が鳴り響いたのがついさっき。
「大丈夫」
「根拠は」
「特にない」
「特に……ない……」うわごとみたいに呟いて布団の上をのたうちまわる。冬馬さんは私の心臓に毛が生えているとでも思っているんだろうか。
「日常会話の流れで毎回告白してるようなもんなのに、デートは死にそうなの?」
「だって偶然じゃなくて仕事でもなくてプライベートですよ!? プライベートで二人きり!?」
「俺にはその曖昧な境界がわかんない」
必死の意見は冬馬さんにバッサリ切られ、とうとう私の命日が決まった。
「水曜13時に駅前。和泉さんが来るとは言ってないから」
じゃあ、報告待ってる。その言葉を最後に切られた冬馬さんとの通話。ツーツーと鳴る耳元のスマホをそのままに、勢いよく部屋のカレンダーを振り向く。
そして今週の水曜日、バイトが休みであることを心底恨んだ。
カーテンから光の射す目覚めのいい朝。私はデジタル時計とにらめっこしていた。
「水曜日……? 今日。今日だ、えっ、うそ」
無心を貫いたために睡眠はばっちり取れたものの、水曜日七時を告げるアラームは鳴り止まない。私の手の中で真夏のセミみたいに蠢くバイブレーション、ひょっとしたらこのまま去年の夏に戻してくれないだろうか。
「あーっ!!そんなこと!考えてる場合じゃない!」
シャワーにお肌の手入れ、化粧に服選び。心の準備以上にやらなきゃいけないことは山積みで苦しんでいる暇などない。もうその一秒が惜しいくらいだ。
待ち合わせ場所には二十分前に着いた。指定された駅前を見渡すと、こちらを指差す春花ちゃんと目が合う。秋人くんと冬馬さんの他にも、綺麗な女性がひとり。きっと双葉さんの初恋のひとだ。
「あの、こ、こんにちは」
「こんにちは、和泉さん。すごく似合ってるよ」
私を見つけた冬馬さんが目を丸くしたあとに目元を指先で叩いた。きっとそれはコンタクトではなく、いつもの眼鏡をかけている今日の私への合図だ。
「はじめまして、妻の夏輝です。あなたが和泉さんね!すっごくかわいい!」
「う、え、ああありがとうございます」
小さなお子さんが二人もいるというのに夏輝さんは話に聞くそのままの女性で、眩しさに腰が引ける。冬馬さんとは真逆の性格だれけど、まるでパズルのピースがぴったり合うような、そんな雰囲気だった。
「えっ!? じゃなくて、どうして!」
奥さんまで知ってるんですか、の言葉は足に引っ付いた少女に邪魔される。
「ふたばのかのじょ!」
「違う!」
反射的に否定したが、冬馬さんの目の前で妻だと発言した過去は消せない。いや自分で言うのはいいんだ自分で言うのは、と誤魔化しても冬馬さんが腹を抱えて笑っているのもまた事実である。
「違うでしょ春花、双葉お兄ちゃんの彼女さん。はい」
「ふたばおにいちゃんのかのじょさん」
「よくできました」
「子どもになんて誤解を!!」
肩で息をして周りを見る。知り合いがいなくて本当によかった、と一安心したのも束の間、改札から出てきた人がこちらに手を振った。
「お、冬馬~って家族ごといるし……と、和泉さん?」
「人違いです」
「待て」
即座に私を押さえたのは発言した冬馬さんではなく子どもたちである。必死になる双子を大人げなく引き剥がせるはずがない、どころか子どもは意外と力が強い。
「まさか、逃げるわけないよね」
「ヒッ」
「こら司いじめない」
「うっ、まって今の結構きた……」
奥さんに脇腹を肘で突かれた冬馬さんは痛そうだったけれど、次には真面目な顔をして私に封筒を差し出した。
「もう一度言うけど、下手な女にくれてやるつもりないから」
「あの、なんていうか、ごめんね。冬馬のせいで」
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
双葉さんが合流すると、冬馬さんは『家族と予定ができた』なんて見え透いた嘘とともに消えてしまった。夏輝さんは隠す気もないグッドラックで私を見送ってくれた。お陰様で私の下心はバレバレに違いない。
「千穂ちゃんは謝らなくていいよ」
「えっ」
「あ、ごめん! つい、思い出して」
それは私のおどおどした雰囲気か、あの頃と変わらない眼鏡なのか。聞けずに黙っていると、双葉さんが慌てて私の前に立った。
「悪い意味じゃなくて、その、眼鏡似合ってる」
「っ、ふふっ、今それ言うんですか?」
「そ、それはさ~~」
ぎこちない双葉さんのフォローについ、笑ってしまった。緊張しているのは私ばかりだと思っていたのがあほらしい。双葉さんがいつもの癖で前髪を押さえる。
恥ずかしがるときの仕草が一緒だと気付いたのは、私も前髪を触っていたからだった。
「ありがとうございます。よかったらまた、千穂って呼んでください」
「そうだね。俺の口がまた、滑ったら」
私だけと話をしているひとを見ては、夢ではないだろうか。何度も考えたけれど、左手の時計の針はどんどん進んでいくし、冬馬さんからもらった封筒はそのままだ。
「あ。これ、冬馬さんから預かったんです」
封筒を開けると、二枚の小さな映画のチケットが顔を出す。流行りの小説が実写化されたもので、最近よくCMに流れていた。
「和泉さん、よかったら行かない?」
手もとを覗き込んだ双葉さんは珍しくきらきらした目をしていて、何の変哲もないチケットと双葉さんの顔を見比べる。
「十五年前から原作があって、やっと映画化したんだ」
「好きなんですね」
「うん」
好きな小説まで知っている冬馬さんに抱いた少しの嫉妬と、こんな顔を見せてもらったことへの感謝。複雑な私の心中をよそに、嬉しそうな双葉さんは私を誘ったのさえ無意識らしい。
「じゃあ、行きましょう」
映画は、とても良かった。月並みな感想で悪いけれど、双葉さんの横に座っているだけで必死だったのだ。
私も演劇をやっているし、彼もその関係の仕事をしているから感性は人よりあるんだと思う。心底楽しそうな微笑みだとか、真剣な眼差しから溢れる涙だとか、双葉さんだけの世界を覗いてしまった気がした。
「俺ばっかり楽しんでごめん」
「いえ、私も楽しかったです」
謝る双葉さんにぶんぶんと首を振る。運命の愛というより独特の世界観や美しい景色が目立っていて、双葉さんは本と少し違うと言ったものの私は十分楽しんだ。主人公の運命の相手が十五歳差でしたねとは絶対に言えないけれど。
「少し寒くなってきたね」
「もうすぐ冬ですから」
映画館で火照った顔を、冷たい風が撫でていく。
少し前まで銀杏の強い臭いを放っていた街路樹も今は葉を落とし、日の暮れる空から冬の気配がした。ほかの幹にはクリスマスの準備がされていて、明かりのつかない電球がぶら下がっている。
「映画付き合わせちゃったし、次は俺が和泉さんに付き合うよ。どこがいい?」
双葉さんがさっきまでいた商業施設を指差す。
「双葉さんとカフェ、行きたいです」
私たちの間にぎこちなさはもうなかった。
「本当は少し心配だった」
「心配?」
私の淹れてもらったばかりのコーヒーから湯気が上がる。
『ミルクと砂糖は要りますか?』という問いかけに「和泉さんは?」「双葉さんは?」とお互いの好みを同時に聞いて、店員さんに笑われたばかりだった。けっきょく二人ともブラックが好みで、また店員さんにごゆっくりどうぞと笑われてしまった。
「人は変わるし、あんまり気にするものではないと思ってたんだけど、昔の和泉さんは静かな子だったから」
「へへ、今の私うるさいですよね」
「無理に振る舞ってない?」
双葉さんはコーヒーカップを口に運ぶ。彼の選んだコーヒーは私のものと少し違う、柑橘のいい香りがした。
「無理ではないんです。変わりたかったのは本当で。それで仕事が貰えるのも嬉しいし、だから、明るい私もちょっと好きです」
「そう。俺も明るい和泉さん、ちょっと好き」
好きと言われた感動より、へらっと笑った双葉さんがかわいいと思った。眼鏡をかけた私には軽々しく口にできることじゃなかったけれど。
「俺はさ、いろいろあって、すごく暗くなったときがあったんだ」
「双葉さんが劇団に来たころ、ですよね」
それは私が双葉さんの好きな人を聞いたときよりも、少しだけ昔だった。
歌は好きだったけれど人前は超がつくほど苦手で、ミュージカルも演劇も端役ばかりが与えられていた。
しかしひとたび舞台に立てば、一曲を全力で歌いきることができた。そう――いつも、観客のいない舞台では。
しかしその日だけは何故か、拍手が聞こえた。
肩で息をする私は音のするほうを見て、さっと血の気が引く。いつも赤い絨毯ときれいに並ぶだけの客席にひとり、男の人が立っていたのである。
「やめるの?」
「わ、わたし人前じゃ歌えない」
「せっかく綺麗な声してるのに」
褒めてくれたわりには男性の声は冷ややかで、体がすくんだ。先生も同じようなことを言って、ため息をついたから。
「本番で歌えなくちゃ意味がないし、地味だし、舞台に立てるような顔じゃない」
「それを君に言った人は、神様か何か? 覆せない決定事項?」
「そういうのじゃ、ないけど」
歌いたい気持ちと、やめておけという周りの心配に押し潰されて私は限界だった。神様だったなら私に人前で歌える度量も華やかさも授けてくれるに違いない。けれどそんなひと、どこにもいなかった。
「周りなんか気にすんな。後先考えず、君のやりたいようにしていいんだよ」
悪魔だ、と思った。先に起こる不幸も絶望もこの人が支えてくれるわけじゃない。心配して止めてくれるほうがよっぽど優しい。
それでも私は、あのとき強く頷いた。
「さすがに何があったかまでは知らないけど……」
私がコーヒーをふうふうと冷ましていると、双葉さんはバレてたんだなと笑う。
「あのときは生きるのに必死でさ、余裕のない自分が嫌いだった」
「私もです。なんだか、意外と私たちって似てますね」
彼は頷いて、私と同じブラックコーヒーを啜った。
いつの間にコーヒーなんて苦いものが平気で飲めるようになったのか、自分にもわからない。大人になるのなんて、そんな曖昧なものなんだろう。
「そういえば今日の映画、気に入ったら本貸すよ」
「本当ですか? 読みたいです」
「十六冊あるんだけど」
「え~それは長い」
私が積まれた本を想像して言うと、双葉さんは私を見て楽しそうにネタばらしをする。
「嘘だよ、一冊だけ。同じ作家さんの本があと十五冊」
「読ませる気じゃないですか」
「気に入ったらでいいよ」
その言い様はまるで、私が気に入るのを予言するようだった。
少しだけ背伸びした私と、少しだけ子どもっぽい双葉さんとの談笑。この時間が永遠に続けばいいのに。映画のヒロインと同じことを考えた私の会話に割り込んだのは、女性の声だった。
「双葉?」
「ああ……久しぶり」
会ったことはなかったけれど、見たことはある。いつかイルミネーションが綺麗なとき、双葉さんといた女性だ。不穏な気配を感じてごめん行こうか、と言ってくれたのに、私は身動きがとれなかった。
「こんな若い子狙ってるの? また期待させるだけさせて捨てるんでしょ」
「やめろ、そういうのじゃない」
そういうのじゃないって、じゃあどういうのだろう。双葉さんの言葉を理解するには、私の恋愛偏差値が低すぎるのだと思う。
「仲良く逃げようとして、どの口が言うのよ」
「お前が突っかかってきたからだろ。この子に不快な思いをさせないでくれ」
女性を見上げて、飲み物を持っていないことに安心した。彼女がコーヒーでも手にしていようものなら、遠慮なく私の頭に注がれていたことだろう。
嫉妬と悲しみが交わるその瞳は、私を通して双葉さんに向けられていた。
「あんたたち、絶対に幸せになんかなれない」
決めつけた台詞にかっとして、私は彼女との間に入る双葉さんを押し退けた。
「それは、神様の覆せない決定事項なんですか?」
「神様なんていなくても決まってるでしょ」
そう言われて諦めかけていた昔の私が、乱暴に口を開く。私のことは私が決めるんだと。
「あなたが勝手に決めただけです」
「知らないからそんなこと言えるのよ!」
確かに、彼女と双葉さんに何があったか私は知らない。イルミネーションの中で人混みに紛れてキスをして、手を繋ぐ恋人同士の姿しか私は知らない。
「私がここにいるのは、双葉さんを幸せにしたいからです。私は双葉さんといるだけで、幸せをもらってるから」
「そんなの子どもの恋愛ね」
「なんとでも言ってください」
私が彼女を知らないように、あの日私が泣いたことだって彼女は知らないだろう。やっと背中に届いた髪を切って、短くしたんだねと笑う双葉さんを何度嫌いになろうとしたか。子どもの恋愛で片付けていい年数はとっくに過ぎた。
千円をテーブルに置いてカフェを出ていく私に、双葉さんの声がする。まって、だったか、落ち着いて、だったか。とにかく一人になりたくて外へ出た。
今日は何かイベントがあったんだろうか。肌寒い道は人でごった返していて、とにかく歩きづらい。
『今年もこの時がやって来ました!』
『いつも思うんですけど、少し早すぎないですか?』
『楽しい気分は長く味わいたいものですからね~~』
マイクを通したMCの音が響く。楽しげな人々の雰囲気が鬱陶しい。
『――3、2、1』
あの日と同じ忌々しいイルミネーションが点灯したのは、奇しくも私の目の前だった。
「千穂ちゃん!待って!」
するりとこの場を通り抜けた和泉さんの名前を呼べたのは、もうカフェを出ようとしている時だった。こんなつもりじゃなかったと言い訳しても、自分がどんなつもりだったかわからないし、すべてが自業自得だというのは死にたいほど理解できた。
「行くの」
「行くに決まってる!」
昔の恋人を振り切ってここを飛び出すにも、フィクションみたいに上手くはいかない。飲み干したコーヒーカップは返却口に置かなければならないし、会計は済ませていない。和泉さんから千円貰って大人しく帰ることなんて持っての他だ。悪い、と何に対してか謝って、俺は席を立つ。
「悔しいよ。私は……双葉にそんなことさせられなかった」
小さな声は、雑音に掻き消された。
「駅前の点灯式、今日だったか……」
夏輝ちゃんあたりが気を効かせてくれたのかもしれないが、裏目に出たことこの上ない。道はイルミネーションと人で溢れて、思うように歩けなかった。
来た駅へ向かおうとしたが、足を止める。俺だったら追いかけられたくないとき反対方向へ一先ず逃げる。意外と私たちって似てますね、そう笑った和泉さんの言葉を信じてみたくなった。
今日の最低気温は十度を切った。運動神経の衰え始めたいい年の男が全力で走る姿はさぞ滑稽だったろうし、息を吸うと冷たい空気が肺に痛かった。
赤信号が点滅する踏切の前に、薄着で立つ女性。その背中は今日ずっと隣にあったものだと名前を呼ぼうとしたが、声は出なかった。張り付いた喉から空気が漏れる。
「君が!!」
優しく声をかける気でいた。だめだよ、せめて上着は着ないと、風邪引くよ。和泉さんの忘れたコートを持って余裕のある男を演じる予定だったのに、俺は踏切の音に負けないくらいの大声で彼女に詰め寄っていた。
「君が思ってるほど、俺は大人じゃない!」
和泉さんがいつから俺を好きだったのか、考えないようにしていた。七年前から今まで紆余曲折あって、同年代で失敗して、俺みたいなおじさんを冗談半分でからかうようになったんだと思い込むようにしていた。
でなければ、芽生えてしまった自分の心を無視できなかった。
「ふた、ば、さん」
和泉さんは薄い膜の張った瞳で俺を見る。その目尻は赤くなっていて、やっぱり泣かせてしまったと後悔した。
「今だって、抱き締めて、キスして、好きだよって言ってしまえば!」
そんな学生みたいに衝動的な気持ちで動ける体があるなら、なんて楽なんだろう。踏切の遮断機が開いて、すぐそばを車が通りすぎて行った。
「そうしてしまえば……俺のものになってくれるんじゃないかって、思わずにはいられないんだよ」
覚悟も思い切りもない俺には、震える和泉さんを抱き締めることはできない。
本心を吐露した気まずさを飲み込んで、カフェに忘れていたコートを渡す。俯いたままの和泉さんは肩まで震えているというのに受け取る素振りすらなくて、迷ったものの彼女の背中に手を回してコートを引っかける。必然的に真正面に立つ形になり、そっと離れようとした瞬間、俺の手は掴まれた。
「してくれないんですか」
顔を上げた和泉さんの瞳からはらはらと大きな雫が落ちる。ハンカチを差し出すでも拭うでもなく、俺はただ動けなかった。
「抱き締めてキスして好きだよって言って、双葉さんのものにしてくれないんですか」
ああもう、どうにでもなれ。考えることをやめた体は驚くほど軽い。涙がまたひとつぶ溢れる前には思い切り抱き締めていた。
「遅くなってごめん」
コートごと抱えても彼女の体は震えたままで、首筋に触れた頬は氷みたいに冷たかった。もし俺が探しきれなかったらと思うとぞっとする。
「いいんです。来てくれたから」
「映画の主人公みたいに?」
「もしかして、主人公が運命の相手と十五歳差って知ってたんですか?」
「当たり前だろ。何度読んだと思ってるんだ」
ひどいひと、和泉さんが笑って、俺の背中に手を回す。震えは止まっていた。
「双葉さん、好きです」
「まだキスしてないけど」
「だから、お返事をください」
かわいいお願いだなと思ってしまう俺はもはや手遅れだろう。
イルミネーションのある場所からはすっかり離れてしまい、点灯式のゲストが歌うバラードだけがこちらに流れてくる。数年前に流行ったラブソングに駅前の恋人たちは今ごろ酔いしれているんだろうか。
彼女の涙のあとをなぞって、袖口で拭う。少し赤くなってしまうけれど、和泉さんはそれだけで嬉しそうに目を細めた。歳上なんて格好つけてみても、結局落とされてしまったのだから俺の負けだ。
よく考えてみればキスをするのは久々で、下手じゃないかと学生みたいなことを思った。遮る彼女の眼鏡を引っかけないように丁寧に外す。道端でこんなこと、酔っ払ってもしない。
「好きだよ」
必死に息を止めて固まっている姿が面白くて、ついもう一度口づけた。その時には目を開けてしまったらしく、真っ赤な顔で怒られる。
「なに笑ってるんですか!」
「ごめんごめん」
「寒いです!帰ります!」
「ごめんって、機嫌直してよ」
さっさと踏切に背を向けて歩く和泉さんの手を握れば、ぐいと引っ張られて横に並ぶ。覗き見た横顔はまだ怒っていて、赤い鼻と頬をふくらませる姿は子どもみたいでかわいかった。
「本」
「え?」
「十六冊ぜんぶ貸してください」
冗談で貸すと言ったそれを彼女は本当に読破するつもりらしい。無理しなくていいと弁明したが、頑なに十六冊だと言い切った。
「私が知らない間の十五冊、読んだら」
「読んだら?」
「十五年ぶん双葉さんに近付けますか」
こんな気持ちをどう表したらいいのか、俺はわからなかった。いくら小説を読んでも辞書を開いても、言葉にはできそうにない。どこかむず痒くてくすぐったい感じがして、くすくす笑いながらかわいいと囁いた。
「うん。十五年なんて、文庫本ちょっとくらいだから」
「あと小学校からのアルバムと絵日記と文集と履歴書」
「それはやりすぎ」
和泉さんから奪った眼鏡はまだ俺の左手にある。愛情表現が少しだけ歪な彼女の発言も今は愛しい。
「私は双葉さんの好みになろうってちょっぴり、少しだけ……たくさん、けっこう」
唸りながら言葉を選んでいく和泉さんの声を静かに聞く。明るい性格も、急にコンタクトに変えたのも、夏輝ちゃんのことを俺が言った日から少しずつ。
「いっぱい、自分を偽ってきましたけど」
俺は出会った頃の和泉さんからどんなに成長したかをよく見てきた。いつか人前が怖いと怯えた少女はそれを克服して、見事に主役を掴んでみせた。実現させる努力を怠らない姿勢をずっと見ていた。
「でも、ぜんぶ本当ですから」
「知ってる」
矢継ぎ早にそう答えてしまった。本当でなければ俺が惹かれることはなかった。こうして今日、和泉さんを追いかけることもなかった。
このままプロポーズをしてしまおうかというくらい、浮かれていたと思う。年下だからでも久しぶりの恋愛だからでもなく、和泉さんが相手だっただから。
この先の大変な事情とか試練なんて気にもならなくて、幸せに浸っていた。それが人間本来の生き方なんじゃないかと信じるほどに。
「俺には勿体ないくらい、素敵なひとだよ」
プロポーズまがいのことを口走った俺に千穂ちゃんは声をあげて笑って、ありがとうと泣いた。
駅前のイルミネーションはまだ程遠い場所にあったけれど、街路樹に巻かれた電球が点滅して少しだけ眩しかった。
毎朝起きるたびに、夢だと思う。
「おはよう、千穂ちゃん」
「おはようございます、双葉さん。そろそろ呼び方変えないと、逆におじさんぽくないですか?」
あの日イルミネーションで着飾っていた駅前はいつのまにか年を越し、コートも必要ないくらいの暖かい風が通っていた。
「千穂」
「普段は呼んでません!っていうのが丸わかりです。もう一度!」
はい、と私が手を叩くと砂を噛んだような顔で双葉さんが声を出す。本当は十分に上手く呼べていた。
「千穂」
「なんですか双葉さん」
「今の呼ばせたかっただけだろ!」
仕事柄あまりスーツを着ない双葉さんが黒のネクタイまで締めているのを見るのは珍しい。あなた、と言えばまるで新婚気分を味わえるけれど、さすがに怒られそうだ。
「挨拶って、早くない?」
「早く終わらせといて、楽しい気分を長く味わいたいんです」
今ならイルミネーションがクリスマスよりずっと前に点灯式をする意味がわかる気がする。双葉さんは私の雰囲気に飲まれるどころか、右手で心臓のあたりをさすった。
「俺は胃が痛いよ」
「いいですか? 二人でしーっ、ですよ」
「バレるってば」
私の両親は二十代前半の結婚で、それこそ双葉さんと十歳も変わらない。お義父さん……お義父さん……とうわごとを繰り返す彼に見た目は私と変わりませんと笑った。年齢なんてバレるまで隠しておけばいいのである。
「それとも私のこと諦めます?」
「生意気だな~」
せっかく綺麗にセットした髪を双葉さんはぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて、私が落胆の声を上げるとまた綺麗に整えてくれた。
「諦めねーわ」
私の頭を撫でた指先は双葉さんの前髪を押さえていて、ちょっとだけ嬉しくなる。それと反対の手を私の両手にしっかり絡ませて、双葉さんを急かした。
毎朝起きるたびに、夢だと思う。
けれど右手を朝日に翳すたび、双葉さんと手を繋ぐたび、そこにはお揃いの指輪が並んでいる。
これを言ったらきっと、双葉さんは当たり前だ、と笑って。
そしてまた、私を撫でた指先で前髪を触るんだろう。
神様の夢 鳶 @tohma_twin
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