たたかう
朝。土曜日のことである。
「ほんとうに、やるんだな」
「不服なら、降りてくれて構わない。君には、家族がいる」
「いや、やる」
斎藤は、意を決したような面持ちで言った。
「家族のために、俺はやる。知らなかったこととはいえ、俺のしてきたことは、俺が守ろうとしてきたものを、壊すようなことだ」
「分かった」
政府は、特公行の機能停止により、企業のされるがままになりつつある。実際、この数日で、政府側の要人、特に企業に対して強硬な姿勢を取り続けていた者が、七人死んだ。
どう考えても、企業の放った殺し屋か、ヴォストークの仕業である。
二千年代初頭、この黒猫の時代には既に過去の遺物となっているコンピュータ制御によるAI技術の発展が目覚ましかった頃、マスコミは面白おかしく人の不安を駆り立てるような報道を続け、それがために人は機械に職を奪われ、AIが自らの意思で人類を滅ぼすなどと騒ぎ立てる人も多かった。しかし、実際はそのようなことはなく、それまで人の手で行なっていたものがAIに取って代わられた分、人は新たな仕事を作り出し、それに就いた。そして、全ての仕事はAIによって行われ、人はそれに補助され、あるいは使役されるだけの、魂のない存在になるというのは幻想であった。
AIは、あくまでAI。人になることは出来ない。だからこそ、人が行う意味のある仕事に、人は就いた。タクシードライバーは居なくなったが、ホテルやアパレルショップなどの接客業や飲食店における人間の雇用は活性化した。AIではなく、人と触れ合うことに対して対価を払うという価値観が生まれたのだ。
たとえば、話し相手。この黒猫の時代では、話し相手になる対価として報酬を受け取るというようなビジネスも当たり前のようにして成り立っている。
それは、人が作り出した技術を人が使い、社会の形を変化させてゆくというごく当たり前の動作であった。
では、何故、黒猫のこの時代の世界は、これほど歪んでいるのか。
政府はその存続のため、企業は古い規範からの解放のためにそれぞれ世論を巻き起こし、手段と目的の境は曖昧になり、争いの形はもっと単純に、表面的に、そして暗く、粘着質になった。
いつも、人である。
歴史を見ても、人以外の要因により世が、社会が、文明が滅んだことは稀である。なかには、災害などによりその存在を失ったようなものも存在するが、やはり、往々にして、世が破綻をきたし、滅ぶときは、人によるものであった。
AIなどは、人を滅ぼす存在にはなり得なかったのだ。
その仕組みは全く異なるながら、この時代の多くの機巧に搭載されている思考型集積回路も、ヴォストークに搭載されている自律制御システムも、それに似た働きを持つ。しかし、それらは、ひとりでに人の世を滅ぼそうとはしない。
その思考が深くなればなるほど、判断が複雑になればなるほど、彼らは、人に使役されて始めて自らが存在するのだということを直線的に理解した。
だから、人である。この世の歪みも亀裂も、全て、人の手によるものである。
その場しのぎの施策により、辛うじて存在するのみの希薄な機構になっていた政府や企業は、その原因を他に求め、経済政策の失敗のためであるとか、あるいは企業の怠慢であると定義付け、争う。そして、直接的に対抗者を排除することで、自らの主張が現実のものになるように働きかける。
税制。財政。法。人口減少。雇用。経済格差。人は、自ら作り出した作用と反作用により、その社会を破綻に導いてきた。
ゆえに、黒猫は、自らが破壊のために創造されたとしても、必ず破壊のみを行うべき存在ではないと定義付けることができた。
もしかすると、彼女は、想像したのかもしれぬ。人が人の世を壊すということを、破壊する様を。
並べられた武器。
九ミリサブマシンガンが一挺、十二ゲージセミオートショットガンか一挺、九ミリハンドガンが四挺、それぞれの弾薬に、手榴弾が四発。戦闘用の、黒猫の前腕ほどの刃渡りの剣が二本と、コンバットナイフが一本。
それらもまた、破壊のために、人により造られたもの。生物としての働きに逆行するためだけに造られたもの。
だが、それを使い、破壊するものを破壊するということが出来るかもしれない。もし、それが出来るなら、黒猫もまた、ただ殺し、壊す以外の存在理由があるということになる。
そして、それを証明するためには、ただ殺し、壊すしかない。
細かな手筈を、三人で確認した。
目的は、村田、いや、緒方の抹殺。そして、未知の機巧と平賀博士らが呼んでいた強化人間の製造設備の破壊。
世界の均衡を壊そうとするそれらを殺し、壊すことで、今一度、人は選択の機会を得るかもしれない。
あらゆる束縛からの、解放。そこから、新たな規範は自ずと生まれる。なぜなら、秩序や規範は、人が社会を律し、保つために生み出して使役する道具であるからである。
政府でもなく、企業でもない。
互いに争い、傷つけ合うようなそれらとはまた異なるもの。その名は、後で考えればよい。
これを成し遂げた後、破綻寸前の政府は、おそらく自壊する。サクマミレニアムという巨塔が崩壊したあとの経済は、立ち行かなくなる。
そこから、あらたな道具を生み出せばよい。
人には、それが出来る。
そして、人の世のためという志を歪めた恨みも、怒りも、それを晴らすことでしか正されぬならば、迷わず正せばよい。それが、ヴォストークという破壊の道具を生み出したことの責任。たとえ、いかなる代償を払っても。
平賀博士は、そう考えている。
これを成し遂げることで、あって当たり前のものであるようなものを、当たり前のように守れるようになる。
日々を過ごすことを喜び、何のために日々を過ごすのかを見失うこともなくなるだろう。
そうすれば、涼は自らが望む自分になる機会を本当の意味で得られる。自分は、妻と二人、それを助け、見守ればいい。
それで始めて、人の夫であり、父であると胸を張れる。斎藤は、そう思っている。
斎藤は、やや緊張した面持ちで妻と涼に何かを話し、やがていつも通り出社していった。黒猫と平賀博士は、設定時刻まで待機。
「ねえ」
涼が、
「もう、行っちゃうの」
「まだよ」
設定時刻までは、あと二十分ある。
「涼」
斎藤の妻が、涼を制した。
「お世話に、なりました」
黒猫は、ぺこりと斎藤の妻に向かって、お辞儀をして見せた。斎藤の妻は少し驚いたようであったが、
「また、いつでも、来てくれていいのよ」
と言ってやった。
「奥さん。ほんとうに、お世話になりました」
平賀博士も、深く頭を下げた。
「傷は、もう大丈夫なんですか」
「正直、まだ痛みます。しかし、自らの痛みが癒えるのを待っていては、本当の痛みは癒せないのです」
平賀博士は、手にしていたマグカップを置いた。
「私たちは皆、傷つき過ぎた。その傷を、彼らに受け継ぐわけにはいかないのです」
斎藤の妻は、何も言わない。ただ、この突然の闖入者に対して、名残惜しそうな顔を向けるのみである。
「絶対、戻って来いよ」
涼が、黒猫に抱きついた。
「約束は、出来ない」
そう言ってから、その背に、掌を当ててやった。
「だけど、きっと、戻ってくる」
白い血の流れるそれは、涼の背で僅かな熱を放っていた。
刻限。
黒猫が、立ち上がる。それを見た平賀博士も、立ち上がる。
外へ。
正月が明けたばかりの、冷たい陽射し。それが生み出す影を踏むように、二人はゆく。
吸気。そして、排出した熱が白くなって一瞬漂い、流れて消えた。
同じ風が、ケプラー繊維製の傷付いたコートの裾を翻した。
——人とは?
心とは?
生きる、とは?
いのち、とは?
ねえ博士、教えて。
あなたが、失ったもの。
あなたが、得たかったもの。
あなたが、守りたいもの。
あたなが、守ろうとしているもの。
あなたが、大切にしているもの、
それは、わたしにとっても、たいせつなもの。
それが一体、何なのか。
わたしは、黒猫。
殺し、壊し、そして、守る。
たいせつなものを、守る。
だから、戦う。
戦闘モード、起動。
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