マン•オン•ザ•ムーン
行き交う人は、全て似たような格好をし、同じような歩調で歩いている。それが人間の社会性のためであることは理解している。
しかし、そのそれぞれの目的は、異なるらしい。
そのようなこと、考えたこともなかった。
ただ命じられ、殺す。その標的になっているか否かの違い。そういう風にしか、捉えていなかった。
ネットワークは切断したままであるから、向こうから歩いて来る者の顔を認識し、データベースにアクセスしてそれが何者であるのかを特定することは出来ない。視覚センサーにより広い上げられた風景は、そのままのものとして再生される。
それは、とても斬新なことであった。そういう風に、人間を見たことがないのだから、当たり前であった。
命じられた買い物を済ませ、涼を迎えにゆく。斎藤の妻に与えられた衣服を着、目立たぬよう、ハンドガンとナイフのみを携帯している。
黒猫は、様々な質問をした。
「クラス、というのが、あなたの所属する最小のコミュニティなのね」
「ええと——」
涼は、なんとなく、この黒猫の小難しい物言いを理解するようになっていた。そして、黒猫に分かりやすく、解説をしてやるのが好きになっていた。
「小学校の履修が終われば、中学校。その次は、義務教育ではない、高校。さらに希望する者は、大学へ進学をする。そのために、学業を?」
「いや、ちょっと違うかな」
十歳の涼には、上手く答えられないこともある。それでも、黒猫に分かりやすく答えてやろうとする。
「進学することが、目的じゃないと思う。そう、父さんは言ってた。なりたい自分を、見つけに行く人もいる。何となく過ごすうちに、自分の生きていくべき道を見つける人もいる。そんな感じさ」
「なりたい自分——」
黒猫には、無い概念であろう。
「あらゆる可能性を考慮し、選択の場に直面した際に、最良の判断をし、最良の選択を行うための情報の蓄積?」
涼が笑いだしたので、黒猫は小首を傾げた。
「何言ってんのか、全然分からないや」
「ごめんなさい」
「ううん、いいよ」
涼は、やはり楽しそうであった。黒猫は、その様を、自らの無機質な瞳に映した。
「涼?」
女児の声。危険はないと判断し、黒猫はハンドガンには手をかけずに振り返った。
「あ、
涼と同じくらいの歳の女児である。涼と親しいらしいということを、二人の応答を見て判断した。
「その人、だれ?」
美久と呼ばれた女児の顔が、曇っている。
「ち、違うんだ」
何故か、涼は慌てている。
「親戚のお姉さんなんだ。今、家に遊びに来てて」
「ふうん」
猜疑心。それを表情や口調から読み取った。
「最近、一緒に帰らないと思ったら、そう。親戚のお姉さんね」
「美久——」
そこではじめて、黒猫は美久が自分に嫉妬しているのだということを知った。人間には独占欲というものがある。それが、自分に向けて棘を立てているらしい、ということが分かった。
「美久さん」
だから、美久の不安を解消する必要があると判断した。
「わたしが涼と帰るのは、あと少しの間。わたしがいなくなれば、あなたが涼と一緒に帰ってあげて」
「べつに、いいけど」
涼が、不安そうな顔をして黒猫を見上げた。いなくなる、という言葉に引っかかったのであろうが、それは黒猫には分からない。
「じゃあね、涼」
美久は、駆け去っていった。
「涼に対する、強い親愛を感じます」
その背を見ながら、黒猫は言った。
「そんなこと、ない」
涼は、顔を真っ赤にして否定した。
「美久さんと、これから、家族になってゆくのね」
「ば、馬鹿じゃねえの。誰が、あんな奴と——」
「そう。美久さんは、そのつもりのようよ」
涼は、一瞬、黙った。しばらくして、
「本当?」
と、おずおずと聞いた。
「ええ。そう思う」
「それも、データで分析したの?」
「その通りです」
黒猫は、真顔である。概ね、このような表情である。彼女が表情を見せるのは、自らが機巧であるということを偽って標的に接近するときのみ。だから、その必要がなくなってからは、表情は薄いままである。それが妙な信憑性を与え、涼は恥ずかしさと嬉しさを隠せずにうつむき、話題を変えた。
どうやら、黒猫はいつの間にか、会話の中で事実とは異なることを述べるということも学習したらしい。
暮れてゆく街路。そこを、二人は歩く。涼が、冬休みの明けた学校まで迎えに来ることを望んだのだ。無論、それを平賀博士が許したのは、万が一の危険が涼の身に降りかかる可能性に備えての護衛の意味もあるが。
平賀博士からは、まだ作戦実行の指示はない。それまでの間は、黒猫は、様々なことを行なっている。
平賀博士が、どういう意図で、それをさせているのかは分からない。
斎藤の妻と買い物に行ったり、料理を教わったり、涼を迎えに行ったり、することは多岐に渡る。そのどれもが黒猫にとっては新鮮な学習の連続であるらしく、そのフィードバックのため、斎藤の妻や涼に、四六時中質問責めをしている。
その様を、平賀博士は、じっと見ていた。
黒猫は涼と共に帰宅したのち、斎藤の妻と料理を行った。それが終わり、大分上達した料理が運ばれて来た。
「上達したな、黒猫」
食べ終えた平賀博士は、テレビに夢中になっている涼を何となく眺めながら、感心した声を上げた。
「ええ。細かく、指導して頂いています」
「黒猫」
黒猫が、小首を傾げた。
「人は、虚構の上に成り立つ」
なにかを、自分に教えようとしている。黒猫はダイニングテーブルの上のフルーツに伸ばそうとしていた手を止め、平賀博士の話に注目した。
「何故、人は、傷を受けてもそれを修復するか、分かるか」
「生命維持のためです」
「そうだ。ホメオスタシスを、知っているな」
「傷ついた表皮や筋繊維を修復する際、刺激に対する耐性を高めるため、その部位を強化した上で修復することです」
切り傷の跡が膨らむのが、そうだ。
「一九八〇年代の、アメリカのことだ」
話題が、切り替わった。しかし、先の話題と連結したものであると思い、黒猫は同じ姿勢で聞き続けている。
「ある、コメディアンがいた。彼自身は、自らをコメディアンだと思っていなかったらしいがね。彼は、誰も予想しないようなことばかりをテレビで行い、人を驚かせてばかりいた。そして、彼は、三五歳で、肺癌のために、突然死んだ。世の人は、どうしたと思う」
「分かりません」
黒猫の知らぬ知識であった。遥か昔のアメリカのコメディアンのことなど、彼女が造られた理由とは全く関わりがないので、当然である。
「彼は、死の直前まで自らが病であることを隠していた。だから、世の人は、彼の死を受けても、またいつものサプライズだと思って、信じなかったんだ」
「仰りたいことを、端的にご説明願います」
「そうだな、済まん」
平賀博士は、苦笑した。
「人の本質のうちの一つ。それは、虚構だ」
黒猫は、小首を傾げた。
「傷は、実際にあった。それは、事実だ。しかし、まだ受けていない傷に対して備える働きが、人にはある」
「それが、ホメオスタシスです」
「そうだ。それは、虚構だと思わないか」
「分かりません」
斎藤の妻が、食器を運び、キッチンに引っ込んでいった。二人で話をさせてやろうと思ったのかもしれない。斎藤は、残業のため、まだ帰宅していない。
「ホメオスタシスが働くとき、まだ、新たな傷は受けていないのだ。あるのは、傷を受けたという事実のみ」
アメリカのコメディアンを引き合いに出したのは平賀博士の失敗であったらしいが、ホメオスタシスを例えにして、彼は、何かを黒猫に伝えようとしているらしい。
「人間にとって、虚構は大切なものなのだ」
その言葉のまま、黒猫は理解した。それが何故なのかは、分からないままである。
「心というものも、そうなのだ。心は、繰り返し刺激を受けることで、新たな刺激に備え、強くなる。社会も、そうだ」
社会というものも、混乱、戦争、破綻、衰退を受け、その仕組みを複雑化してきた。全て、人が、未だ起こらぬことを恐れ、それに備える働きを持つためである、と平賀博士は端的に言った。
「だから、人にとって、虚構とは大切なものであり、同時に、害でもある」
それを知ってほしくて、平賀博士は、黒猫に様々な体験をさせたのかもしれない。
「分かるような気がします」
「そして、それは、お前も同じなのだ」
黒猫は、沈黙した。キッチンで斎藤の妻が洗い物をしている音と、涼が釘付けになっているテレビの音だけが部屋に存在する。
「わたしには、保有するミューズ細胞による強化されたホメオスタシスは存在します。しかし、わたしに、こころはありません」
ミューズ細胞というのは、黒猫らヴォストークの傷の修復のために体内に保有させている細胞で、iPS細胞と似ていて、やや異なる。たとえば内臓、特に心筋など外科的な処置が困難な箇所や組織に損傷がある場合、ミューズ細胞を注入することにより、損傷箇所にたどり着いたそれらがひとりでに癒着し、損傷した細胞に変化することで修復する効果がある。それを、ヴォストークは、もともと体内に保有しているのだ。それゆえ、僅かな再起動で驚異的な回復を見せる。
しかし、無論、ミューズ細胞は、心までは修復しない。
「黒猫」
平賀博士の声は、とても穏やかであった。しかし、ただ黒猫を慈しむだけの調子とは異なった。
「答えは、出たか」
「何の答えでしょう」
「お前にとって、たいせつなものとは、何か」
また、沈黙。
「分かるような気がします。しかし、分かりません」
「そうか」
平賀博士は、ただ頷いた。そして、真剣な顔を見せ、
「明日、実行する」
とのみ言った。
「承りました」
黒猫も、回答した。
「ねえ」
深夜、黒猫が一人でソファに腰掛けているだけのリビングに、涼が顔を覗かせた。
「涼。規則正しい睡眠を――」
「どっか、行っちゃうの?」
帰宅途中、美久に黒猫が言ったことを、気にしているらしい。無論、自らの父母や平賀博士が度々、難しい話をしていることは知っている。平賀博士の傷が癒えるまでの滞在であることも、理解している。しかし、その日が現実に来るということを、信じたくないようであった。
「ええ。明日、出ていく」
「嫌だ」
涼が、抱きついてきた。涙を隠そうとしているのか、顔は決して上げようとしない。
「どこにも、行かないで」
「いいえ。明日、出ていく」
「もっと、一緒にトランプしよう。色々、教えてあげるよ」
「それは、魅力的な提案ね。だけど、わたしは、行かなくては」
どこに、とは涼は聞かない。どこに行くのかよりも、ここから黒猫が消えてしまうことが、彼にとっては問題なのだ。
「涼」
黒猫の手が、涼の肩に添えられた。まるで、壊れやすいものに触れるかのように。
「人の心は、虚構で成り立っている」
涼は、ただ黒猫の胸に顔を埋め、首を横に振るのみである。
「あの月を、見て」
ようやく、涼が、リビングの窓の向こうに光る月を見た。
「あの岩の塊の天体にすら、人は兎がいると信じた。それは、何故?」
涼は、鼻をすすり、首を傾げた。
「わたしには、分からない。だけど、あなたは、あの月には兎がいて、クリスマスにはサンタクロースが来ると信じたはずよ」
涼は、黒猫が、なにかとても大切なことを言おうとしているのだと思った。彼女に、どこまで人の心が分かるのか、分からない。だが、涼は、確信していた。彼女には、心があると。
「そして、あなたは、高校に行くのか行かないのか、大学に行くのか行かないのか、その先の自分がどのようにして生きていくのか、想像することが出来るはずよ」
「想像――」
「あなたは、想像することが出来る。そして、信じることが出来る。それは、あなたが、人であるから」
だから、と黒猫は言う。
「それを、わたし達は守りに行く。少なくとも、わたしは、そう思っている」
そして、付け加えた。
「そう、信じている」
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