インプット:三 かぞく

感情のカンブリア爆発

 斎藤のマンション。黒猫はネットワークを遮断しているから、追尾されることはない。

 運び込んだ平賀博士の上着を脱がせ、傷の具合を確かめる。縫合は完了していて、あとは消毒を怠らぬようにすれば、問題はないようであった。黒猫は、極めて正確に、平賀博士を刺した。ゆえに、平賀博士は助かったのだ。

「うわ、ひでえ」

 覗き込んだ斎藤が、声を上げる。

「待ってな。何か、薬を——」

 薬といっても、消毒液を使うくらいしか処置のしようがない。どこかで医師の処方する化膿止めがあれば、それも手に入れたいところではあるが。

 斎藤が、消毒液を取りに引っ込んでいったため、部屋は静かになった。

 その静かな部屋には、人の営みの痕跡があった。畳まれた洗濯物、散らばった玩具、読みかけの雑誌。ここで、斎藤は、妻と子の三人で暮らしているのだ。

「ここは——」

 寝かされたソファの上で、平賀博士が声を上げた。どうやら、眠ったり起きたりを繰り返しているらしい。

「斎藤有氏の自宅です。わたしは博士を病院から連れ出し、彼の協力を得、ここまで運びました」

「斎藤——サクマの?」

 平賀博士の声に、ほんの少し、力が蘇った。

「そうです」

「お前の、その傷は」

「火鼠が、博士を殺害しに来ました。それに応戦して受けた傷と、一部はその後追ってきた未知の機巧によるものです」

 斎藤が、戻ってきた。

「お、目が覚めたのか。大丈夫か」

「ぼんやりとしている」

「まあ、ゆっくりしていけよ」

 斎藤が手渡す消毒液を一本丸ごと使い、黒猫が処置を施した。

「ここは、君の家か」

「そうだよ、全く、とんでもない話だ。家族に、何と言えばいいのか」

「済まん」

「再起動に入りたいのですが。博士を、お願い出来ますか」

「再起動?」

「人間でいう、睡眠のことだ。彼女は、傷ついている。休ませてやってくれ」

「そんな身体で、他人の心配かよ」

 黒猫は、ハンドガンをポケットから取り出し、斎藤に渡した。

「それでは」

 黒猫が、眠りについた。こうしていると、無垢な少女のようにも見える。その寝息を聴き、寝顔をじっと見ていると、あちこちに受けた傷が、癒えてゆく。


自己修復機能ホメオスタシスだ。これで治らぬほどの損傷や、身体部品の欠損が生じたときなどは、処置オペが必要なのだが」

「眠り、ひとりでに傷を癒す機巧か」

 ヴォストーク技術はサクマミレニアムにもあるから、斎藤もそのことを知っている。斎藤が驚いているのは、別のことである。

「黒猫は、あんたのために、自分から行動を起こした」

 命令や指示に従うために造られたはずの機巧が、自らの意思のため、それに背く。考えられぬことである。自らネットワークを切断するなど、普通の機巧は勿論、ヴォストークであったとしても出来ることではない。

「分からんが、私を刺したことで、黒猫の脳波パルスに激しい乱れノイズが生じたのであろう。正確には、彼女の思考はエラーであり、行動は暴走だ」

「これまでも、そういうことがあったのか」

「ああ。別の個体で。試作の頃は、その連続だった」

「そういうとき、あんたは、どうするんだ」

 平賀博士は、落ち窪んだ眼を一度閉じ、また開いた。

「殺すより、ほかにない」

「黒猫も、殺すのか」

「そのようなこと、出来るはずもない」

「じゃあ、どうする」

 平賀博士は、答える前に、また眠りについた。


 斎藤は、黒猫がなぜ自分を信用したのだろう、と思った。拳銃を渡し、自らは眠るというのは、そういうことだ。もし、自分が、黒猫の眠っている間に攻撃的な行動を取ったら、どうするのだろう、と。無論、斎藤にはそのようなつもりはないが、この不可解な行動を取る機巧に信頼されているというのが、何だかおかしかった。


 物音。

 斎藤は、はっとして玄関の方を見た。

 楽しげな、笑い声。

 妻と、子である。

 平賀博士と黒猫の眠るリビングのドアを開き、妻が悲鳴を上げた。

「落ち着け。大丈夫だから」

「あなた、この人たちは」

 妻が怖がるのも無理もない。初詣に出て帰ってきたら、見知らぬ女と中年男が眠っているのである。

「この人は、俺の知り合いなんだ。怪我をしているから、ここで休んでもらっている」

「じゃ、じゃあ、病院に――」

「駄目だ」

 強く、それを制した。

「分かってくれ。少しの間だけだ。この人達は、ほかに、行くところが無いんだ」

 そして、はっきりと言った。

「俺は、この人達を、助けたい」

 言って、自分がなぜそう思うのか、考えた。正直、迷惑極まりない話である。ただ仕事をしていただけなのに、会社のよく分からぬ発明のために、このようなことに巻き込まれてしまった。あの人間のような機巧は、おそらく、この世にあってはならないもの。そんな気がしていた。平賀博士やその作品である黒猫は、それと戦おうとしているのだと思った。政府とか、企業とかいう高尚な話ではない。あってはならないものを、作った。そのことを、正すのだ。


 もともと、斎藤が自発的に集めた情報を、黒猫に提供してやろうと思い、今日出かけたのだ。勇気の要ることではあったが、特公行の本部を訪ねようとしていた。会社は、完全に休みである。監視もない。いわば、年に数度のチャンスであったのだ。それが、このようなことになった。なったからには、進まざるを得ない。


 妻や子は、明らかに怯えている。平賀博士と黒猫にではない。自らがよく知るはずの斎藤という人間の、知らぬ部分を見たためである。しかし、それすらも、分かってもらえると信じていた。

 なぜなら、彼女らは、斎藤の家族なのだから。

「お前達に、危険のないようにする。水戸の兄貴の家にでも、しばらく行っていてくれないか」

「それって」

 妻が、震えかけている声を上げた。

「危険があるってことじゃないの」

「分からん。だが、もしものときのためだ」

「もしもって、何よ」

「だから、分からん」

「分からないようなことで、家族を危険な目に合わせるつもり?最低」

「だから、危険がないように――」

 段々加熱してゆく夫婦の言葉に、黒猫が目を開いた。

「――あなた、誰なのよ」

 斎藤の妻が、忌々しげに、ぱっと見若くて美しい黒猫に向かって言葉を吐いた。

「黒猫です」

「ふざけてんの?何、黒猫って。源氏名?うちの人と、どういう関係?」

「機巧と、情報提供者という関係です」

 落ち着いたその様子に、斎藤の妻はいよいよ激昂しそうだった。そこに、黒猫の声が被さった。

「あの」

「何よ」

「どうして、不安げになさっているのでしょう」

 斎藤の妻は、いかっている。それを、不安げに、と黒猫は言った。やはり、人間の感情についての理解が、進んでいるらしい。


 今眠っている平賀博士がかつて説いた学説の中に、

「機巧における感情のカンブリア爆発」

 というものがある。カンブリア爆発とは、五億数千年前、現在の生物体系に連なる、動物門の種が急激に、文字通り爆発的に出現したことをいう。それ以前にも無論この惑星には動物がいたが、それらに現在のそれとの共通性を認めるのは困難である。体組織構成や骨格、構造などにおいて、全く別のものであることが多いのだ。しかし、この時期を境に、現代の生物の祖先であると認められるような動物が急激に出現している。いったい、なぜこの惑星の動物は、一斉にその姿を変えたのか。そのことは、この黒猫の時代になっても分かっていない。だが、とにかく、歴史上のある一点を境に、外肛動物門をのぞく現在のあらゆる動物の直接の祖先が出現するというのは、非常に興味深い話である。


 平賀博士が説いたのは、機巧の学習、判断、思考についてのことである。

 それは、数々の発生と消去を繰り返しながら緩やかな進化をしてゆき、そして、ある一点、何かのきっかけにおいて、急激に爆発を迎える。その後生じるのは、機巧としての学習、判断、思考とは全く異質のもの。すなわち、感情であるというものだ。それを、カンブリア爆発になぞらえたというものである。

 あくまで仮説であり、実証されていない理論である。学会の一部では注目されたらしいが、その実現は人と機巧の均衡を崩すかもしれぬということで、追求はされなかった。

 今、黒猫は、その産みの親である平賀博士が説いた学説を、体現しているのかもしれぬ。無論、黒猫の中には、これまでの平賀博士の研究成果や論文、学説の全てがインストールされている。だから、今の自分の状態がどういう状態であるのか、理解することが出来ているのかもしれない。


「どうして、って」

 人間である斎藤の妻は、正直に自分の気持ちを黒猫に打ち明けることはない。彼女は傷だらけであるし、なにより、機巧である。

「危険に伴う不安。それは、危険を解消することが出来ない限り、解消することが出来ません。しかし、あなたが今抱いているのは、別の不安であるように考えます。そのことについては、安心して下さい」

 斎藤の妻は、黒猫の物言いに、怒りの拍子を崩されたらしい。力なく、その場に座り込んだ。

「すげぇ!機巧だ!かっこいい!」

 斎藤の、息子である。黒猫に、興味を強く示している。

「かっこいい――?」

 黒猫は、小首を傾げた。

「すごい、本物だ!」

 ただの機巧なら、百貨店、美容室、病院、駅、街中のどこにでもあるわけだから、さほど珍しくない。しかし、それが自宅にあり、活動しているとなれば、この十歳になる少年が眼を輝かせるのは自然なことである。

「なんで、怪我してるの?大丈夫?」

 りょう、と鋭く母親が名を呼んで窘めたが、涼は黒猫に駆け寄り、間近でそれを見た。

「問題ありません。再起動で回復する範疇の損傷です」

「すげー!治るんだ!」

 ここで、涼に笑いかけてやったりすることが出来れば、黒猫も人間に近付いたといえるのであろう。だが、彼女はそれをせず、涼が何が凄いと感じて感嘆するのかを考え、小首を傾げるのみであった。

 彼女は、強襲型生体機巧ヴォストークなのだ。戦いについては、人類のそれを遥かに凌駕している。しかし、涼を見て無意識に笑顔になるようには、作られていない。

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