向かうべきところへ
「失敗は、無いのではなかったのか」
黒猫にではない。特公行の研究員に対して、部長は声を上げている。
「今まで、このようなことは、一度もありませんでした」
「何故、しくじったのだ」
「原因については、現在、調査しているところで——」
当の黒猫は、真っ直ぐに前を見て、椅子に腰掛けている。今、部長が声を荒げているのが、自分が平賀博士を仕留め損なったからであるということは、認識しているだろう。
黒猫が平賀博士を訪ねたのが、昨夜。すなわち、年を越している。街は新年の参賀に出る人で賑わっていることであろうが、この施設の中はなお血なまぐさい。
平賀博士は、病院に運び込まれ、一命を取り留めた。何者かの通報により駆け付けた救急隊が、部屋で倒れている博士を助けたのだ。エントランスのオートロックは偶然故障しており、平賀博士の部屋の鍵もかかっていなかったため、救急隊はスムーズに救助を行うことが出来た。はじめ、それは博士自身による通報であると思われた。しかし、どうも違うらしい。通報をしたのは、女であるという。まさか黒猫自身が、と部長は疑ったらしく、その事実が発覚してすぐに黒猫のログデータを調べさせたが、平賀博士を刺した直後から激しい精神回路の乱れが発生しており、再起動時にその乱れごと消去されていた。
「特公行の情報が企業に漏れれば、大変なことになるのだ。必ず、博士を仕留めろ」
もはや、博士は、標的になっている。
「分かりました。火鼠を、使います」
「猫の次は、鼠かね」
部長が、うんざりしたような声で言った。
「このところ、黒猫は、その思考が複雑化し過ぎています。平賀博士に、
この研究員も、知っている。立て続いた試作と失敗の末に完成させた最初のヴォストークである黒猫に、平賀博士が特別な思い入れを持っていたことを。そして、それは、単に自分の作品に対しての愛着と言うより、肉親への愛情に近いようなものであったことも。黒猫もまたそれを理解しているのか、他のヴォストークよりも平賀博士に懐いていたことを。だから、念には念を入れ、黒猫ではなく火鼠を使うことが最良であると判断したのだ。
「黒猫。戻っていい」
研究員の声に応じ、黒猫は立ち上がった。
その無機質な瞳に、火鼠に指示を与えるべくネットワークを操作している研究員の背を映しながら。
火鼠は、その一時間後、出動した。
戦闘能力は、黒猫と変わらない。意識の無いままの平賀博士にとどめを刺すことくらい、わけはない。彼が運び込まれた病院も分かっている。そこに至る最短のルートを取った。武器は、二十センチほどの刃渡りの刃物が一つと、緊急時の自衛用に九ミリハンドガンを携行している。現地までは、徒歩。作戦総所要時間、二時間三十分。
「やれやれ。人形好きの博士が、自らの力作に二度も刺されるとはな」
部長は、そう皮肉を言った。
「あの人形は、不気味だな」
「黒猫のことでしょうか」
研究員もまた、平賀博士ほどではないにせよ、ヴォストークに特別な思い入れを持っている。機巧を人形呼ばわりされて、いい気持ちはしないだろう。
「何も考えていないはずなのに、時折、人間であるかのような錯覚を起こしてしまう。つくづく、恐ろしいものだ。あれには、感情があるのかね」
「いいえ、ありません」
研究員は、部長が分かりやすいように言葉を選んでやった。
「生体部品、強化骨格、機械関節。しかし、脳神経回路は、人間そのものなのだろう」
「しかし、それはあくまで、人が作ったもの。人間とは異なります」
「確かに。試作段階のときは、理論上は完璧でも、上手く駆動しなかったらしいな」
「足りないものが、あったのです」
部長が、訝しい顔をした。
「人間の、血液」
「血?」
「そうです」
それを、どう使うのかは研究員は言わない。
「ヴォストークは、最後の仕上げに、人間の血を使います。使うといっても、ほんの僅かですが。それは血でありさえすればよく、乾いていても、酸化していても構いません」
「ぞっとする話だ。人が、人に似せたものに、人の血を与える。神が聞けば、その行いを咎めるに違いない」
部長が、苦笑した。
「しかし、己の利得を求め、互いに争い、隣人を傷つける行いもまた、神の望まぬ行為です」
と研究員は述べた。そもそも、そんな世だから、それをどうにかするために生まれた存在だと言うのである。
「まあ、いい」
部長は興を失ったように、立ち上がった。
「念のため、黒猫は、外出させるな。
「承知しました」
研究員もまた退室し、黒猫がいるはずのドックへと向かった。
しかし、そこに黒猫の姿は無かった。何やら騒いでいる職員らが行き交っているだけであった。
駆けた。
ただ、駆けた。
行かなければならない場所を目掛けて。
現時点では、黒猫には、どのような命令、指令も下されていない。だから、この行動を取ることが出来た。
ドックを飛び出し、制止する職員を振り切り、建物の外へ。
指令によるものでもなく、許された自由時間でもなく、彼女は、自ら決定した行動によって外の世界を駆けている。
それは、おそらく、彼女の意思。その学習を深めるためでもなく、ましてや、誰かを殺すためでもない。ただ、彼女は、自らの求めるものを目指し、駆けている。
ネットワークと常に繋がっている以上、その居所はすぐに探知される。今頃、特公行の本部は大騒ぎになっており、ホログラムで表示される地図上の光点で、彼女の位置を特定していることであろう。彼女の視覚情報をモニターすることも可能だから、どこに向かっているのかも、すぐに露見する。
だが、黒猫は、それを考慮することはない。
駆けた。誰に見られていようとも、誰が追って来ようとも、彼女は、駆けた。
すぐ後方に、電気自動車の駆動音。距離、七メートル。
黒猫は立ち止まり、それを待った。
ほんの一瞬で、それは黒猫に追いついた。
「取り押さえろ」
防弾ベストとヘルメットで武装した、四名の特公行の職員。黒猫を囲むようにして、ハンドガンを構えた。
黒猫の無機質な瞳が、それらを見た。
目にも止まらぬ速さで一人に取り付き、握る拳銃を蹴り上げた。その勢いのまま身体を一回転させ、更にこめかみに自らの踵を見舞った。ヘルメットを卵の殻のように割る威力のその蹴りの衝撃は、カルシウムやリンなどで構成される人間の頭蓋骨へと伝達され、それを簡単に破砕した。
「まずい、暴走している」
背後の声。引き金に、指をかけた。
さっきの瞬間に蹴り上げ、落下してきたハンドガン。
それを、手に取った。
振り向きざま、三発。黒猫の方が、早かった。
三人の男は、ヘルメットにも防弾ベストにも守られていない首の中心を正確に撃ち抜かれ、即死した。九ミリ弾が気道、頸椎、そして脳幹を破壊したことであろう。黒猫はそれら各々が縋るべき神の偶像のようにして握ったままのハンドガンを奪い、平時服の上着のポケットや、ズボンの腰の部分にねじ込んだ。
突然の銃声に、周囲は騒然となっている。
それに脇目も振らず、黒猫はまた駆け出そうとする。
「何やってんだ、お前!」
「よく分からんが、とにかく乗れ!」
自動運転車の窓から覗いた顔も、記憶にあった。一瞬、戸惑った。しかし、男の言う通りにした。
「都立第四病院へ。急げ」
助手席から、男の側頭部に拳銃を突き付けた。男が誰であるかなど、どうでもいい。黒猫が向かわねばならない場所に、この自動車を向かわせるべく登録させるだけだ。
「なんだよ、いきなり。しばらく連絡も寄越さないと思ったら」
「早く、行き先設定を」
「落ち着け、黒猫」
やはり、この男は、黒猫を知っている。
「そんなものを向けなくても、どこにでも行ってやる。落ち着け」
黒猫は、ハンドガンを引いた。
「全く。何だってんだよ。相変わらず、血の気が多いな。こっちは、サクマの中ことで色々分かったことがあるから、お前に連絡したくてウズウズしてたのに」
サクマのこと。
黒猫の
部長命令により、追求が禁止されている。
それゆえ、この男の名しか呼び起こせない。
「
「なんだよ、今更フルネームで」
車は、黒猫の指定した病院へ向かっている。
到着は、十一分後の予想。火鼠が出動してからの時間を考慮すれば、辛うじて間に合うものと計算した。
「何を、そんなに急いでるんだ」
発進した車の中で、斎藤が口を開いた。
「早くしなければ」
黒猫の声は、落ち着いている。しかし、明らかに様子がおかしい。
「落ち着けよ、黒猫」
「早くしなければ、博士が」
「何を言ってるんだ」
わけが分からぬまま、車は進む。
「なあ、黒猫」
病院まであと数分というところで、不意に斎藤が言った。
「あのとき、ありがとうな」
黒猫は、癖で小首を傾げた。
「家族のこと。家族は、俺を知っている。だから、信じてくれるって」
「家族——」
様々なものが、去来した。
何事かを叫ぶ女。それが、倒れる。傍らにいる少女も、同じように。
平賀博士の話を思い返して、その内容からその時の情景を想像しているらしい。
そして、黒猫の想像の前で崩れゆく彼女らは、黒猫が命じられて殺害した者の家族でもあった。
つい先程殺した四人の男にも、それがある。
その続きを考える前に、車は病院に着いた。
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