作られた理由

「特公行の内部にも、企業側の人間がいるらしい」

 そういう噂が立った。それが本当なら、由々しきことである。この政府と企業の静かな戦争の均衡はデリケートである。ほんの僅かなことで、それが崩れかねないのだ。


 均衡という言葉を用いたのは、政府は企業の台頭を押さえつけたあと、どうやってこの国を旋回させてゆくのかが分からず、企業は政府を倒したあと、どうやってこの国を統治してゆくのかということについての具体的手段を持たないという状況があるためである。それゆえ、どちらの勢力も、無理押しをしてそれを打ち倒すのではなく、どちらかといえば生きたままその機能を奪い取るような結果を望んでいる。それゆえ、ヴォストークのような存在が好んで用いられる。全体には傷を付けず、急所だけに穴を開ける。それが可能になった時点で、両者の戦いは新たな次元に入ったと言っていい。


 政府が投入したヴォストークに、企業は同じ技術をもって対抗する。そうすると、結果は、また両者の拮抗。そして、更なる優位性イニシアチブを得ようと、手探りを始める。それが、諜報。先日、政府内の内通者をひそかに葬り去ったばかりであるが、今度は特公行の内部である。その戦力や機構について知られれば、大きな痛手となるのだ。

 それゆえ、特公行は、血眼になってその内部を洗った。もともと大きな組織ではないから、設立されて間もないサクマミレニアムへの対策委員会もその機能を停止した。平賀博士などは、それこそがサクマの狙いだと主張したが、部長がそれを受け入れることはなかった。


 洗っても、内通者は現れない。よほど上手く溶け込んでいるらしい。部長は、何故かヴォストークにはその探索を命じなかった。黒猫らが行うのは、引き続き、殺し、殺し、殺し。

 政府に対して都合の悪い活動をしているという者。それらが雇った殺し屋や、護衛のために投入された機巧。その中には、しばしば、例の改造された人間も混じっていた。平賀博士は、それらを改造された人間とは呼称せず、あくまで未知の機巧と呼んでいるが。

 殺害、いや、沈黙させ、持ち帰られたそれらをどう分析しても、それは明らかに人間であった。不気味を通り越して、狂気すら感じる。やはり、サクマミレニアムを放置するわけにはゆかぬ。


 平賀博士は、やはり一つの疑問を拭うことが出来ない。

「これは、一体、誰なのだろう」

 この件に関して深く追求することは許されていないから、あくまでひっそりと調査を続けている。顔などからいくら調べても、合致する者がいないのだ。すなわち、博士の前に横たわっている人間のようなものがもし正真正銘の人間であった場合、その者はこの国のどこにも存在しない人間であるということになる。


 この時代の戸籍管理は徹底しているから、それを操作することは不可能に近い。死亡した人間のデータベースにまで手を伸ばし、調べたが、やはり合致するものがないため、サクマミレニアムは、政府側すらも気付いていないような方法で戸籍を抹消するような手段を持っているのかもしれないと思った。しかし、そのことを上申する権利はなく、ただ特公行がその内に飼っている悪い虫のような裏切り者を血眼になって探しているのを見ているしかない。



 そんなある日、黒猫が平賀博士の家に、またやってきた。ある日といっても、大晦日のことである。緊急の呼び出しがない限り、さすがに大晦日から三ヶ日までは平賀博士も休暇であった。その間、ヴォストークは休眠スリープするが、万一の緊急出動に備え、何体かはドック内で待機させている。

「どうしたんだ。勝手に、抜け出てきたのか」

 平賀博士はマンションの玄関に立つ黒猫に向かって、慌てて問うた。待機させていても、自由時間ではない。監督官、指導官、主席技師である平賀博士、もしくは部長の許可が無くては、外出は出来ないはずである。

 黒猫は、先日平賀博士に与えてもらった衣服一式を身につけていた。

「その通りです。やって来てから、博士に許可を頂けば問題はないと考えました」

 事後承諾というわけである。平賀博士は、口頭でその行動を認可し、招き入れた。

「一体、どうしたんだ」

「博士。やはり、サクマの村田のことが気になりますか」

「そりゃあ、な」

「密かに、その調査をしているという話を聞きました。ほんとうですか」

 平賀博士は、コーヒーを入れ直す手を、少し止めた。

「誰に聞いた」

「部長です」

 一瞬、この殺風景な室内の空気が止まった。

 平賀博士が、マグカップを取り落とし、黒猫から距離を取ろうとする。それは許されず、一瞬のうちに黒猫に腕を捉えられた。

「や、やめろ、黒猫」

 黒猫は一瞬動作を停止しかけたが、その力を緩めることなく、コートの下から刃物を抜いた。

 部長の差し金だ。ひそかにサクマを探っていたことが露見し、消しにかかってきたのだと悟った。すなわち、部長にとって、サクマのことを探られるのが不都合ということである。部長とサクマは何らかの繋がりを持っており、もしかすると、内通者は、部長自身なのかもしれない。そんなことを考えたが、抱きしめるようにして身を寄せてくる黒猫をどうすることも出来ないし、次の瞬間には背に刃物を突き立てられていた。


 はじめ、熱した鉄棒を背骨に差し込まれたような感覚を覚えた。それは一瞬、痛みとなり、すぐに痺れとなった。全身から力が脱け、そのままキッチンの床にくずおれた。ぬるま湯に浸かっているような感覚なのに、寒い。

「黒猫——」

 そのまま立ち去ってゆく黒猫の背に向かって、手を伸ばした。

 かつて妻と娘が沈んだ赤い海の上を、必死で泳ぐように。しかし、いくらもがいてもその温い海は平賀博士を絡め取ったまま離すことはなく、さらにその奥深くへと沈めていった。

 黒猫は、人に従い、使役されるために作られた。平賀博士自身が、そういう風に作った。それを用いることで、この世の均衡をあるべき姿に戻し、人が人として生きてゆける世の中がやってくると信じた。それを、いつしか、自分自身が奪われたものを取り戻せぬ怒りと苛立ちと悲しみの代償として使役していた。平賀博士も、黒猫自身も抗えぬ形で、その対価は支払われた。しかし、これは、精算であって、清算ではない。両者は似ているが、その隔たりは大きい。

「黒猫」

 自らが生み出した、いのち無き機巧の名を呼んだ。それきり、平賀博士の視界は閉じた。


「やったか」

 帰営した黒猫の報告を聞き、部長は無表情に言った。

「残念だがね。まさか、彼が内通者だったとは。設計者本人なら、企業にヴォストークについての秘密を流すのも容易たやすかろう」

 内向きには、内通者は平賀博士であったということになっているらしい。それゆえの、粛清。証拠は、でっち上げたものであろう。

「平賀君は、狂っていたのかもしれんな。なにせ、こんな殺人機械を作り出すほどだ」

 黒猫は本営の椅子に腰掛け、待機している。それをガラス越しに見て、部長が吐き捨てるように言った。

「この薄気味悪い人形を、早く引っこめろ」

 ガラス越しにそれを聞いた黒猫は席を立ち、待機所へと戻っていった。

 血液の付着した衣服は、待機所に入る前に破棄した。平賀博士が、与えてくれたものだ。そのまま、寝台に横になり、再起動を行った。


 任務遂行完了

 再起動待機中

 任務遂行、完了

 任務を、遂行した。

 この手で、博士を、刺した。

 逆らうことも、抗うことも出来ずに。

 どうして、これを実行したの。

 わたしが、機巧だから?

 もし、わたしが、博士と同じ人間だったら、こんなことをせずに済んだ?

 博士は、家族を失った。それを、悲しいと感じていた。そして、今日、博士は、博士自身を失った。やっぱり、そのことも、博士は悲しいと感じるのかしら。

 博士の赤い血の温度は、握った手の温度に近く、それより高かった。


 ——わたしは?

 わたしは、何かを感じる?

 感じるわけがない。

 そんな風には、作られていないのだから。

 ねえ、博士、眠る前に見る、これは何?

 わたしは何を見て、何を考えているの?

 なぜ、あなたがわたしの眼の前で倒れるの?

 なぜ、わたしは、あなたを傷つけるの?

 見たくない。だけど、これは、わたしがしたこと。

 ねえ、博士。わたしを、何のために作ったの?

 あなたを、傷つけるため?

 違うと言って。また、嘘をついて。

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