インプット:二 たいせつなものとは
休暇
平賀博士は、電子煙草の電源を入れた。
コーヒーを片手に、甘い香りの蒸気を吸い込む。久々の休日ではあるが、習慣として朝早くに目覚めてしまったのだ。鳥も届かぬ高層マンションの一室目掛けて真横から差し込む朝日にその身を晒そうと、カーテンを開いた。
「今日も、いい天気だな」
呟いた。
「土曜日だ。学校も、休みだろ。久しぶりに、三人でどこかに行くか?」
そう言って、室内に向けて笑いかけた。
「そんなこと言ったって、今から準備してたら、お昼前になっちゃうわよ」
「お父さん、わたし、観たい映画があるの。アニメのやつ」
そう返してくる声が聞こえた。
「アニメ?お父さんは、洋画がいいんだけどな」
平賀博士は声に向かって苦笑を返した。その手には、写真立てが握られていた。
しんとした室内。その空白を埋めようとテレビを点けるが、それで平賀博士の空白が埋まったことはない。
写真立てをそっと戻し、またコーヒーと煙草を握りしめ、窓の外に向かって立つ。その視界には、無機質な都会の朝が横たわっているだけであった。陽が平賀博士の目線より高くなった頃、青白い光のデスクトップ端末の前に座り、なにか作業を始めた。こうしているときは、没頭できる。一人になってしまった世界から、一人の世界へと移動できるのだ。
食事も摂らず、昼過ぎまでその作業を続け、少し休息した。目を閉じれば、また、声が聞こえた。
「
出来るなら、そうしたかった。今も、出来るなら、そうしたい。しかし、それはどうしても叶わない。彼はヴォストークのように武器を執り、戦うことは出来ない。だが、戦うものを作り出すことは出来た。理不尽や不条理と戦う刃を、彼は持つことが出来た。結果、そのために、世界は彼を置き去りにし、どこかに行ってしまった。特公行に雇われてはいても、平賀博士は、自分のために仕事をしている。今一度、世界と自分とを繋ぐために。
インターホンが鳴る。
閉じていた眼を開け、何杯目かのコーヒーを机に置いた。モニターには、見慣れた姿。平賀博士は、無言でロックを解除した。数分して、部屋のチャイムが鳴る。
「黒猫。珍しいな」
ヴォストークには、特に任務のないとき、一週間に一度、自由時間を与えている。そこで様々な経験を得、より精密な判断と思考を持たせるためである。無論、彼女らがどこで何をしているのかは、彼女ら自身が常に接続しているネットワークによって監視されているが。
数分待って、ドアのチャイムが鳴り、鍵を開けた。ヴォストークに支給している平時服という、自由時間中や待機中に着る当たり障りのないワンピース型の衣服にダウンジャケットを羽織った黒猫が居た。
「博士。入浴と、歯磨きをお勧めします」
言われてみれば、昨夜も今朝も、シャワーも歯磨きも何もしていなかった。顔を合わせるなり黒猫がそう言うということは、臭うのだろう。
「そうだな。そうしよう」
平賀博士は、言われた通りにした。その間、黒猫は柔らかなソファに身を沈めている。
「さて。シャワーも浴びたし、歯も磨いた。要件を聞こうか」
「どこかに、連れ出して下さい」
「どこかって、どこに」
「お任せします」
平賀博士は、胸が締め付けられるような思いであった。その頭の中ではなく、両の耳で聴く声である。もう何年も、このようなやり取りをしていない。
「じゃあ、映画でも行くか」
「映画」
「ああ、今、何を上映しているだろうか」
黒猫は、無言で、映画館の上映スケジュールにアクセスし、その中から一つを挙げた。
「月に笑う鬼、か。渋いな」
元殺し屋の初老の男が、少女を連れて旅をし、悪と戦うというストーリーの時代劇らしい。どういう部分に黒猫が興味を持ったのかは分からぬが、黒猫が観たいと言うなら平賀博士にそれを断る理由はない。
そのまま着替え直し、最寄りの映画館まで自動運転タクシーを用いた。
「なあ、黒猫」
「はい、博士」
「例の、人間のような機巧のことだがな」
「それは、明日でもよいでしょうか」
「別に構わんが、どうして?」
「今日は、わたしの自由時間であり、博士の休暇です」
また、胸が痛んだ。
「だから、自由時間や休暇は、そのときにしか出来ないことをすべきであると考えます」
「それは、そうだ」
平賀博士は、苦笑した。
「よし、お前が観たいと言った時代劇だ。めいっぱい、楽しもう」
二人は、そのまま映画館へ。
チケット売り場で前に並んでいる父娘が、手を繋いでいる。黒猫が、じっとそれを見ている。
「人間は、安堵感や快感を得るためにオキシトシンの分泌を求め、手を繋ぐのですね」
「生物学的には、そうなんだろう。だが、それだけじゃない」
黒猫は、癖のようになっている、小首を傾げる動作をした。
「大切に思うから、手を繋ぐ。それだけなのさ」
また黒猫は父娘に眼を戻した。そのまま、平賀博士の手を握った。
「おい、何だ、いきなり。よせよ」
「承知しました」
すぐに、その手を離した。
「黒猫」
「はい、博士」
「ありがとう」
また、黒猫は小首を傾げた。
映画は、タイトルとあらすじの通り、内容も非常に渋みのあるもので、それはそれで楽しめた。黒猫は、アクションシーンが気に入ったらしく、映画館を出てから小さく主人公の動作を再現している。
「面白かったか」
「参考になりました。これも、一種の戦闘訓練です」
「自由時間は、仕事のことは考えないんじゃなかったのか」
「失礼しました。矛盾した発言でした。訂正します」
「いや、いいさ」
平賀博士は、個人端末からタクシーを呼んだ。
「俺なんて、矛盾だらけの人生だ。そんなものさ」
「わたしに、矛盾は許されていません」
「誰でも、そうだ。しかし、矛盾はある」
「博士の仰ることが、分かりません」
「いいさ。そのうち、分かるようになる」
「その意味を、検証します」
平賀博士は、苦笑した。到着したタクシーに乗り込み、ショッピングモールへ。
「買い物をする。付き合ってくれ」
「承知しました」
ぶらぶらと歩きながら入った一軒の店で、平賀博士は服を選んだ。
「似合うか」
「月間ダンディズムの最新号に、似たコーディネイトの写真があります。一般的に受け入れられるコーディネイトであると判断します」
黒猫は神経回路から直接ネットワークにアクセス出来るため、大衆向けの雑誌記事なども同時複数のものを瞬時に閲覧する。
「そうか。じゃあ、これにしよう」
普段、作業着しか着ない。家では、ジャージである。今平賀博士が着ている私服は、何年ぶりに引っ張り出したものであろうか。
新しいセーターとジーンズ、上着を購入し、店を出た。そのまま、隣の店へ。
「この店は、女性用の衣服の専門店であると判断します」
「知ってるさ」
そのまま、店の奥にいる店員に声をかけた。
「娘なんだがね。ファッションセンスがまるで無い。コーディネイトしてやってくれないか」
たしかに、黒猫が用いている平時服は黒とオリーブグリーンのみの色彩で、センスのかけらもない。店員は作った声でかしこまりました、と言うと、黒猫の身長や体型を見、似合いそうなものを見繕ってきた。
「着てみろよ」
きょとんとする黒猫に、平賀博士がいたずらっぽく笑う。黒猫は頷き、試着室へ。
「お嬢様とお買い物、良いですねぇ」
待つ間、場持たせに店員が話しかけてくる。
「滅多に、出かけることなんてなかったんですがね」
「じゃあ、今日は家族サービスですね」
「ええ、まあ」
「とっても綺麗なお嬢様です」
「ええ、まあ」
黒猫は店員が驚くほどの速さで着替えを終え、試着室から出てきた。
「かわいい。とってもお似合いですぅ」
黒猫は、鏡に映った自らの姿を確認している。
「どうだ、気に入ったか」
鏡に向かってポーズを決め、にっこりと笑った。恐らく、またネットワークにアクセスしてファッション誌を閲覧し、似たコーディネイトをしたモデルの映った写真を再現しているのだろう。店員があれこれと服の説明をし、黒猫の人工血液による白い肌を褒めていいるがそれは聞かず、何度も何度もポーズを変え、確認している。
「じゃあ、これを下さい」
裾の開いたオフホワイトのコートに、ワインレッドのタートルネックのニット。胸元には、貝殻の形をあしらったネックレス。膝上丈のグレーのチェックのタイトスカートに、革のローファー。アクセントに、エナメルの小さなバッグも。
こうして見ると、普通の女の子にしか見えない。平賀博士はまた胸が少し苦しくなりそうになったが、まだ続く店員の説明に耳を傾けることで回避した。
黒猫用に購入した服はそのまま着せてもらい、着飾った彼女を連れ回してショッピングモールの中をしばらくうろつき、日が暮れてからそこを出、また、タクシーへ。
「食事を摂るのでしょうか」
「そうだ。腹が減った。お前は?」
「わたしは、食事の摂取を必要とするほど、エネルギーを消費していません」
「そうか。なら、軽いものを食べるといい」
レストランに到着し、着席する。博士はハンバーグのセットを、黒猫はパンのみを注文した。
「このレストランには、昔よく来ていた」
「なぜ、今は利用されなくなったのですか?」
ヴォストークは、言葉のうちに含まれるその背景というものを予測し、察することも出来る。
「来る理由がなくなった」
「理由とは?」
「娘が、好きだったんだ」
「娘さん?」
黒猫の持つ平賀博士のプロフィールには無い項目であった。
「そうだな。お前には、俺のことを、何も話していなかったな」
「平賀
「そうだな。お前達には、俺の全てが記録されているだろう。だが、それは、人に関するデータだ。それだけでは、その人が何者であるのか、分からない」
「具体的な回答を要求します」
「俺には、娘もいた。勿論、妻も」
今は、いない。と付け加えた。
「どこかに、行かれたのでしょうか。それとも、亡くなられたのでしょうか」
「死んだ。七年前に」
「そうでしたか」
「娘が可愛がっていた猫と、俺だけが生きた。その猫も、翌年、寿命で死んでしまった」
「博士は、それを悲しいと感じておられるのですね」
「分かるのか」
「博士の様子を見ていれば。それに、家族というものが、人間にとって大切なものであるということも、理解しています」
「なあ、黒猫。ひとつ、考えてみてほしいことがある」
「承ります」
料理が、運ばれてきた。平賀博士が手を付けようとしないので、黒猫もパンに手を伸ばさない。
「まず、食おう。美味そうだ」
平賀博士は、久しぶりのハンバーグを切り分け、口に頬張った。普段は栄養価が高くて手軽に摂れるゼリータイプの食事のみで済ませることが多い。
ドリンクバーを何度も往復する間、今日一日を振り返って話した。黒猫は、じっと聴きながらアイスティーを啜ったり、ときに質問をしたりした。
「それで、博士」
「ん?」
「わたしに、考えてほしいこととは?」
平賀博士は、何故か悲しげに微笑み、伝票を手にし、立ち上がった。退店するということであると黒猫は判断し、今日平賀博士に買ってもらったコートを羽織った。
会計を済ませ、タクシーに。
「博士。回答を、要求します」
それでようやく、平賀博士は、口を開いた。政府のための殺人を行うべく作られた機巧に、それを考えさせてよいのかは、分からない。だが、平賀博士は、黒猫に、それを要求した。
「考えてみてほしい。お前にとって大切なものとは、何かということを」
黒猫は即答出来ないらしく、ただ、小首を傾げた。
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