☆7
いつものように家に戻ろうとした時だ。玄関先に誰かが座っていた。荷物を持っている様子はないので、私の帰りを待っていた宅配業者ではないだろう。どこかの青年が足を休ませている、それかただの乞食か。少し警戒して近づいた。
十メートルほどの距離になったとき、彼は顔を上げた。その仕草と雰囲気がどこか……似ていた。闇夜の中で玄関の明かりに照らされた横顔を見て、体の力が抜ける。胸が苦しくなってきて、壁に手をついた。
「どちら様ですか」
震える声で尋ねると、あの頃と全く変わらないトーンで彼の唇は動いた。
「……先生」
頭から言葉が一つ一つ剥がれていく。血が下がって目の前に霞がかかった。突然悪夢の中に放り出されたように景色は歪み、音は遠くの方でわんわんと響いている。
いつの間にか倒れていたらしい。目を開けると自室にいた。必要以上に毛布が重ねられた中で起き上がると、隣に彼が座っていた。あれからどれくらい経ったのか。瞳を閉じた顔を見ると、どこかくたびれた感じがする。あれから苦労を重ねたのか……いや、他人の空似だ。彼がいるはずがない。
「……あっ」
彼が目を開いた。そのままこちらを見てにこりと笑う。その表情に返すものが思いつかなくて、目を背けた。
「先生、おはようございます。でも……もうこんな時間ですね」
「……っ」
何から切り出せばいいのか分からない。何か恐ろしい予感が身体中を巡っていた。
「まだお疲れですか? でしたら……」
「君は……っ」
もう一度寝かそうと肩に触れた手を押さえて、顔を見上げた。どこか仄かに上気している頰が染まる。
「……君は、誰だ」
「嫌ですね先生……意地悪ですよ」
彼は愛おしそうに胸元に寄ると、そこに顔を埋めた。ここから見ると髪には少し白髪が混じっている。
「……随分と時間が経ってしまいました。でもその間、ずっと探していたんですよ。先生はちゃんとヒントをくれていたから……。あはは、昔はカッコよかったのに、今はなんだか可愛くなっちゃいましたね。これもいいですけど……長生きしてほしいので、お肉はちょっと落とせるように管理してあげます」
「離れて、くれないか」
私の言い方が冷たかったことに驚いたのか、一度体を離した。しかしまた、もう一生離れないと言わんばかりに締めつける。
「先生言ってましたよね、将来は海が見えるところで生活をしたいって。森や丘があって、休日にはピクニックに行けるような暖かいところで暮らしたいねって……僕も同じでした。だから……やっと見つけた」
「……どうして」
今更という言葉を飲み込む。私の所在を知っているものは少ないだろうが、当時の先生の中には知っていたものもいたのではないか。
昔は私の方が彼の所在を知りたがっていた。会いには行けないがどこかという曖昧な場所よりも、もう少し明確に分かっていた方が生きがいがあると思ったからだ。しかしもう遅い。何もかも過去の話なのだ。
まさか私より彼の方が依存していたなど、そんな考えには及ばなかった。彼に子供がいたら、もうそれなりの歳になっていただろう。けれど彼は父親にはなっていない気がした。……歪んでしまった。でも今ここで、私ならまだ変えられるかもしれない。
「私は君のことをほとんど覚えてないんだよ。私は明日も明後日も子供達の面倒を見て、日曜日には教会に行き、たまに酒を飲み行くようなそんな毎日を過ごして、そのままこの世を去るんだ。それが私の望みだ。それをもう邪魔されたくない」
「……邪魔なんてしませんよ。それが二人に増えるだけじゃないですか。お祈りもご飯も、散歩も買い物も二人になって……ああ、楽しそうですね」
「……帰って、くれ」
「……っ」
そのまま黙っていると、不意に彼は離れた。何かのメモを書き、また来ますと言って去っていく。
彼の書いたものは、この先にあるアパートまでの地図と部屋番号だった。
何時間経っても眠れず、布団の中に閉じこもっていた。
今の私が一番大事にしていたものは安息だ。不安要素など一切無く……あっても家庭菜園での害虫程度の悩みなら、どれだけ良かったものか。いつの間にかまた泣いていた。
頭のどこかで喜んでいるような自分もいる。ただ今の自分はあの頃とは違う。見た目は醜くなり、もう特定の誰かだけを愛するようなことなど想像できない。それに彼は……一体どうやってここまで来たのだろう。母親とはもう和解したのか、彼の方が出て行ったのか。
なぜまた私を追いかけてきたのだろう。彼に、私が返せるものなど無い。今更そんな好意など怖くて堪らない。
宣言通り彼はまた家の前に立っていた。私はそれを通り過ぎようとする。彼は私の後ろに向かって、また耳馴染みのいい言葉を突き刺す。私は振り向かず家に入った。
ここで私がよく帰ってきてくれた、まだ私も君を愛している、これからずっと一緒に暮らそうとそう言えば……言ってしまえば良いのか? それが本当に良いことなのか、正解なのか? また彼が傷つくだけではないか?
「ああ……私は……どうしたら、いいのか」
なぜ神はこんな試練を私に与えるのだ……。
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