☆5
私の受け持っていた最高学年の生徒達が卒業して、次の新入生を待つ間。一学年ほど減った校舎は驚くほど静かだった。それぞれが自由に過ごす、穏やかな空間が続いている。私もその一人で、やっと大きな荷物を置けた気分だった。
校舎の裏側を見回りに来た際、林の中に誰かを見つけた。木に寄りかかって本を読んでいるのは、久々に会う彼だった。
近づくと足音に気づいて顔を上げた。そのタイミングで片手を振る。
「久しぶり、こんなところにいたんだね」
少し歩けばベンチがあるのに、落ち葉まみれの上に座ってズボンは汚れないのだろうか?
彼は栞を挟むと本を閉じた。
「以外と快適ですよ」
そうなのかと隣に腰を下ろすと、思っていたよりも柔らかい感触に包まれた。自分も木に寄りかかって空を見つめる。
「最近君の話を聞かないから、どうしているんだろうって思っていたところだったよ」
彼が大人しくなったと言われてから問題になるのは予算の話などで、いつもの学校に戻っていた。
「人と関わるのに疲れたんで。なるべく一人でいたんです」
「……そうか。まぁそういう時期も必要かもしれないね」
自分を見つめ直す機会が早いと、それなりに成長するものだと思っている。ただそれがマイナスな方向に行きすぎたり、極端になったり必ずしも良い方向に動くとは限らないのだが、彼の場合は大丈夫だろう。それでも初めとは随分違う態度にまだ戸惑うところもある。しかし彼はそれなりに、自分を自由に見せることができる人間だろう。今もきっと、少なからず演じている。
「君はあのままだったら、もったいないことをしていただろうからね」
「……先生は」
「ん?」
「先生は、僕がどんな人間だったら良いと思いますか」
「……どんな人間か、ね。大抵はワガママを言わず素直に勉強して、人の為の労力を惜しまない、誰からも好かれるようなそんな子に育ってほしいと、親なら一度は思ってみたりもするのだろう。この立場で言うのもアレだが……初めに壁に当たるのは大抵が学校という場に来てからだと思うんだ。入ったら面倒な制約や、うまくやっていく為の方法があることを知る。我慢しなくちゃいけないことが増えていってね、そこで個性は少なからず無くなっていくんだ。それを越えなきゃ社会で生きていけないのも分かるよ。ただ無くすべきではないところも死んでいってしまうんだよね。……私は、今の君のままでいいと思っている。また迷うことがあっても、その時の等身大の君の言葉を聞かせてほしい。人は悩めば成長できるよ。そして成長している人間は自分では気づかないが、側から見たら素敵に見える」
彼は長い睫毛を伏せて、本の上に乗っていた葉を指で払った。それから頰にかかっていた髪をいじるようにしながら、じっとこちらを見つめる。
「……僕は、僕が信じられる人に好かれたい」
「うん。良いことだろうね。少しずつ見極める力がついていけば、良い友人に巡り会えると思うよ。君ならできるさ。けれど何か不安なら……私で良いなら話して欲しいよ」
「……先生」
その時見た彼は、どこか今までと違って見えた。少し成長しただろうか。表情や顔つきが大人のそれに近づいて、今の彼自身を表している。それがとても美しく見えた。彼は私の教え子の中でも、一番になるほど立派になるに違いない。
「君さえ良ければもっと上を目指してみないか。他の先生にも言えば、個別に見てもらったりできるよ」
「……そうですね。でもできるか分からないので、先生の授業からお願いしてもいいですかね」
「もちろんだよ! ああ、でも……私自身がきちんと教えられるか不安になってきた」
彼のクスクス笑う声が心地良かった。思えばこの生活を始めてから、こんなに自然体で話せたことはなかった。職場で心休まる経験も初めてだ。どのような立場でも分かり合える人というのは存在するのだと、嬉しくなった。
マンツーマンの授業は、回を重ねるごとに長くなっていた。一日分の課題をこなした後に、彼と雑談する時間が増えたからだ。確かに私自身、贔屓しているというのは痛感していた。だが言われれば他の生徒も見るつもりだった、なんて言い訳だろうか。私と彼はひしひしと噂になり始めていた。もちろん彼も私も、そんなつもりなどなかった。ただ年の差があっても友達のような関係にはなれることがある。親密な相手を見つけるのは難しい、実際私も時間がかかった。君たちにもそのうち分かるはずだから、つまらない噂程度でこの関係を汚さないでと言いたかった。
しかし彼の邪魔になってしまったのなら、それは本末転倒だ。
彼を呼び出して今後どうしようかと話を切り出した。私としては続けたいのだが、君の迷惑になるなら手紙ぐらいにしようか。そう話している間、彼は無言で床や窓の方を見ていた。そして突然何かのスイッチが入ったかのように、コツコツ足音を響かせながら、座っていた私の正面に来た。
「どうしたの――」
避ける間もなかった。彼の体が迫ってきたと思ったらぴたりと頰に手が当てられ、唇に小さく触れた感触が何かと分かる前に、思考が止まった。目の前の宝石のような瞳から大粒の涙が溢れていたのでそれを拭うと、彼は更に体を近づけ、細い腕で力一杯に抱きしめた。
「……先生」
何度も呼ばれたその単語が、急に特別な私だけの渾名に聞こえて……心は素直に、この感情の正体を現していた。
「私が君を守るから、他の奴の声なんて聞かなくていい」
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