第十四怪 回答
「あっ」
ボールが大きすぎる弧を描いて飛んでいく。辿り着くべき少年の手元を大きく上回り、少年の背を超えて、遠く、遠く、向こうまで。
それは家の塀を飛び越えて、中庭に落ちてしまった。
「なにしてんだよシラギ、とばしすぎだって」
ボールに上を横切られてしまった少年――歳はまだ一桁、七つほどだろうか――がそう文句を言った。ごめんごめん、と、シラギ、と呼ばれた少年は笑う。シラギは、少女とも思えるような、可愛らしい顔をしていた――特にその『双眼』はぱちくりと瞬いて、大きく、彼の可愛らしさを強調する。
「ケチケチ言わないで、タカツキがとりに行ってよ」
そう、けたけたともう一人の少年、カサモトは笑う。彼の『二つ』の瞳は面白がるような色を滲ませていて、タカツキ、と呼ばれた少年は、嫌そうに顔を顰めた。
「ええ、あそこの……サクヤさん、今いないだろ? さっき出ていくの見たもん」
「じゃあ、しょーてんがいまで行ってみる?」
「やだよ、めんどくさいなぁ……しょうがない、あのヘイ、のぼって入るか」
カサモトの提案に、タカツキはより一層顔を顰めて棄却し、塀を見上げた。そんな彼に、彼等のうち紅一点となる少女――ソラネが笑う。彼女は裏声を使って、サクヤ、かの塀に囲まれた家の主を表現する。
「おこられちゃうよタカツキ? 『タカツキくん、そんなあぶないこと、しちゃだめよぉ』って」
「にてねーよ、声マネヘタクソ」
「あっ、言ったなー!? わたし、おっきくなったらセイユーになるんだもん! タカツキのバーカ! おばけやしきにも入れないくせに! こわいゆめ見てママーって泣くくせにー!」
「はぁ!? 今おばけやしきカンケーないだろ!?」
それに、と、付け加えて、タカツキは泣きそうな顔をした。
「……かあさん、夜はガイコクジンと話してて、おれにかまってくれないもん」
あ、と声を漏らして、ソラネは気まずげに口を閉ざした。だがタカツキは俯いたまま、言葉を続ける。
「とうさんにも、日曜日しか会えないし……あんなガイコクジン、おれしらないもん。ガイコクジンはとうさんとちがって、自転車の練習手伝ってくれないし……
……とうさんは、あたらしくなんてなんないもん」
タカツキの震えた声は段々と小さくなっていく。
離婚も、再婚も、七歳の子供達にはよく分からない。俯いたタカツキにかける言葉は、シラギもカサモトもソラネも、持ち合わせていなかった。
「……ボール、取ってくる!」
その気まずい沈黙は、タカツキ本人が破る。彼はぱっと顔を上げて、遊んでいた公園をぬけ、ボールが飛び越えた塀に飛びついた。
サクヤの住む家を囲むこの塀は、石を積み重ねて出来ており、その凸凹のおかげで子供でも容易によじ登れる。それ故に子供にとっては格好の遊び場であり、子供の、時に不法侵入になりかねないそれを――危険を叱りつつも――受け入れてくれるサクヤという家主の性格もあって、タカツキ自身も何度も登ったことがあった。
だから、タカツキはいつも通り、手馴れたように、登りきって、中庭を覗き込み――
――いつもと違う、ものを見た。
ぼやぼやと、揺れ動く、モヤのような黒いもの。
吹けば飛ぶか。否、そんな儚いものではない。不安定ながらも、それは確かにそこに『在る』。
それが、ボールにまとわりついて――少年を、見ていた。
――それに、少年は、何を感じただろうか。
少年は、おばけやしきに恐れるように悲鳴をあげる、でもなく――ただ一言、零した。
「――かすみ?」
「――かすみ、霞、幽――なるほど、成程」
――黒が、笑う。
「うん、うん、気に入った。気に入った、なぁ」
――黒は、やがてかたちを作る。白い手が伸びて、タカツキの頬を撫でた。黒は、長く艶やかな髪になって、深淵の如き瞳になって――
黒は。
――『私』は、そうして、成ったのだよ。
理解出来たかな?
まあ、出来なくても構わない。どうせ起きたら忘れるだろう。
ここは夢だ、我が命名者、我が共鳴者、我が愛しき――航海者。
覚えているだろうか? 君は原初のトンカラトンに切りつけられたのだと。
ああでも安心したまえ、君は生きているよ。大丈夫。少し眠っているだけさ。当然だとも。君が死ぬわけがないじゃないか。
君も。白戯も。傘本も。空音も。咲夜も。直斗も。鈴も。あの町に住むにんげん全てが、方舟に積まれた伝達物であるのだから。
君達は滅びない。この世界の存在を、次に、あるかもしれない世界に届けるまで。
――まあ、君はそれを忘れて、また、禍の脅威に怯えるのだろうが。
――数百年。
――二百年だっただろうか、五百年だっただろうか、それよりも長き年月が経っていただろうか?
君が私を見付けてから、それくらいだ。ふふ、早いものだね。ほんの十年くらいしか経っていないようにも思えるよ。
君の母が幼い君に作った地図が読めなくなるほどに。
君が町の外に出た理由を忘れてしまうほどに。
年月は経っている、と言うのにね。
その間――禍はどんどん、勢いを増してきた。そうして、これからも増すだろう。
世界は終焉に導かれる。
必ず。
――その証拠が、この町だ。
方舟に選ばれた町が存在する――それこそが、逃れられぬ崩壊の証。
崩壊は刻一刻と近付いてきている。そしてそれに従って、禍の活動は活発になるだろう。
町に選ばれなかった怨念は、暴れに暴れ、共に滅びようとするだろう。
だがまあ――町に選ばれなかった、というと、不名誉に思えるが、実際にはそうでも無いのだから気に病むことは無いのにね。
方舟はゴミ箱でもある。少なくとも、今の世界には不適合だとみなされた故に放り投げられる場所だ。だからこそ、『今の世界』の崩壊、すなわち『駄目な世界だった』と明らかになった時、『駄目な世界』から切り捨てられたゴミを拾い上げて次に持っていく訳だが――
ああ、これが不名誉なのかな?
まあそれはそれぞれの思想によるだろうが――禍はあらゆる滅びを望む。町の外にも、内にも。
だが外はともかく内に関しては――不可能なのにね?
方舟に積まれた資源は、次に、産まれるかもしれない世界に遺すもの。
それが壊されるなんてあってはならない。
故に――故に、壊れないようにしているのだから。
さても、さても……何が不幸かは分からないね。ただ、原初のトンカラトンにとっては、壊れないことこそ不幸だったのやも。
はてさて、町にありながら、町に選ばれず、禍と成り果ててなお、とは――父性とは、実に興味深い。
……ああ、お喋りが過ぎただろうか? だが許してくれよ、私はお喋りが好きなんだ。君も知っているだろう?
――ところで。
理由も忘れるほどに長い間、町を出て、放浪した君よ。
オリーブの木は見付けたかな?
見付けられなかったのだろうね。
君は全て忘れて、ごちゃまぜにした記憶を結びつけて、手ぶらでこの町に帰ってきた。
君の放浪に意味などなかった。
君は本当に愚かだ。
知らないくせに、知れないくせに、もがいて、怯えて、暴れて、逃れて、のこのこと帰ってきて――
だが。
そんな君を、私は愛しく思うのだよ。
異常の中の凡庸よ。
だから君がこの町に帰ってきたことを、私は嬉しく思う。
君はこれからも、この町の住人だ。
とても、とても嬉しいよ。
お帰り、高月君。
これからもこの私に、にんげんをよく見せてくれ給え。
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