振り向いて、君がいてくれたなら

岩原みお

振り向いて、君がいてくれたなら

一章 いなかったのは誰?

初夏の憂い

 名前を呼ばれて、私は足を止めた。

 同時に目の前を猛スピードで通っていく信号無視の車。

 呆然ぼうぜんとしながら後ろに一歩よろめいて、転ぶような形で地面に座り込む。そこでようやく驚きとか恐怖とか、いろんな感情が冷や汗と共にどっと押し寄せた。


 学校近くの交差点、下校中に横断歩道を渡ろうとしたときのことだった。


「あ、あぶなかった……」


 呼ばれて足を止めなかったら、きっと即死していただろう。そう思いながら肩越しに振り返ってみるが、なぜか私を呼んだ声の持ち主は見当たらなかった。


「あれ……?」


 聞き間違えるはずはない。陽那ひな、と呼んだその声は、大好きな人のものだったから。しかしどれだけ目をこらしても彼の姿はない。やがて横断歩道の向こう側から来た人に大丈夫だったかと声をかけられて、私は探すのを諦めた。


「あ、大丈夫です。ありがとうございます」


 車との接触はなかったし、転んだときスクールバッグにつけていたアクリルキーホルダーが食い込んだのか左肩あたりに少し違和感があるけれど、気にするほどでもない。大した怪我がなくてよかったとようやく安堵して、立ち上がって制服についた砂をはらう。


 私を呼んだはずの彼――隆晴たかはるには、明日にでも聞いてみればいい。トークアプリで連絡してもいいのだが、確か今日はバイトがあると言っていたからすぐに返事はこないだろう。


 遅刻するって慌てて帰るくらいなら、放課後の教室でだらだら話さなければいいのに。先ほどの教室での出来事を思い出して、そっと笑う。「早くバイト行きなよ」なんて私は言うけれど、帰りのHRが終わって真っ先に私の机まで隆晴が来てくれるのはとても嬉しいのだ。


 もうすぐ夏休みだから、何をして遊ぼうかと話すだけで楽しい。夏休みで隆晴との距離を縮めたいという下心があるからかもしれない。

 眩しい青空に大きな雲が気持ちよさそうに浮かぶようになった、高校生活二年目の初夏。今年は少しくらい期待していいかな、なんて頬を緩めながら、つい今しがた事故に遭いかけたことなんてすぐ頭の隅に追いやってしまった。



 □



 翌日、登校した私は教室に入って真っ先に隆晴のもとへ向かった。生まれつきらしいやわらかな色味の茶髪は、探さなくてもすぐに見つけられる。あとは挨拶をして、雑談ついでに「昨日、学校に忘れ物でもしたの?」と聞くだけ。

 たったそれだけのことが、できなかった。


「隆晴、おはよ」


 そう声をかけた私は、それ以上何も言葉が出てこなかった。


「おはよう、須賀野すがのさん」


 隆晴が返した挨拶は、私が知るものじゃなかった。いつもは「陽那」と名前で呼んでくれるのに。なんでそんなよそよそしく苗字で呼ぶのだろう。


 私、なにかした?

 そう考えるものの隆晴の表情に悪意が見られるわけでもなく、それが更に私を混乱させた。

 結局昨日のことは聞けないままその場を離れ、自分の席に荷物を置く。ため息をついてしまうのは自然なことだった。


「なーに、あんたたち喧嘩でもしたの?」


 あの場からついてきた芳恵よしえが、意外そうな表情でたずねてきた。


「んー、わかんない」

「心当たりは?」

「ない」

「告白してフられたわけでもないのね?」

「もう、違うよ!」


 あまりの言われようにむきになって返すと、芳恵は「冗談だって、ごめんごめん」そう言って可笑しそうに笑った。ワンレンボブの髪が似合う彼女は、見た目どおりのさっぱりした性格で他の人が言いにくそうなこともさらっと言ってのける。それは間違いなく彼女の良いところなのだけれど、励まそうとしたのか単に面白がっているだけなのか判断しづらい。


「ま、何かあれば協力くらいはしてあげる」


 芳恵は最後に私の肩をぽんと叩き、再び話の輪に戻っていく。その気遣いが嬉しくてすこし元気になった私は、心の中で気合を入れ直して芳恵のあとを追うことにした。

 いつも通りに隆晴の隣に立つ。とくに拒否されることはなく、こっそりと安堵あんどの息をつく。


「昨日の帰り、忘れ物でもした?」

「ん? なんで?」

「そこのコンビニがある交差点のとこに、隆晴がいた気がして……」

「……いや、気のせいじゃないかな」

「そっか……」


 会話に返事はしてくれるけれど、やはり以前のような親しさは感じられない。それについて訊ねてみようかと悩むうちに担任が教室に入ってきてしまったため、私は渋々自分の机へと戻ることとなった。





 授業中もずっと隆晴の態度について考えていたが、一向に理由はわからないまま。気付けば帰りのHRも終わっていて、友達との雑談もそこそこに家に帰ってきていた。


――嫌われたわけじゃないんだし、そんなに考えすぎないことよ。

 お風呂に入りながら、帰り際に芳恵に耳打ちされた言葉を思いだす。


(言われてみれば、確かにそうなんだよね……)


 嫌われてはいないはず。冷たい態度をとられているわけでも、無視をされているわけでもない。昨日までは普通だったし、その後の自分の行動を振り返ってみてもトークアプリで既読無視をしたわけではないし、そもそも連絡きてないし。


「……あーもう、やめたやめた!」


 無い頭で考えてもどうにもならないと、私は湯船から勢いよく立ち上がって叫ぶ。


「陽那、うるさいよ!」

「ごめんなさーい」


 即座に浴室の外からお母さんの怒声が飛んできて、肩をすくめながら浴室から出てバスタオルをひっつかんだ。


「あれ?」


 太ってないかな、なんて鏡を見ながら体を拭いていると、左肩近くの二の腕に小さなあざができていることに気付く。こんなところぶつけたっけ、とすこし考えてから、昨日事故に遭いかけたときにそういえば違和感があったと思いだした。


 筋状の小さな痣。やはりアクリルキーホルダーが食い込んだのだろうか。しかしそれにしては痣の見た目がおかしい。青痣のようなものではなく、どちらかというと色素沈着に近いような色をしている。試しに押してみるが、特有の痛みはなかった。

 そして何より、見覚えがあった。


「……隆晴だ」


 以前、体育のあとに暑さでそでをまくる隆晴の腕に同じような痣があった。「どうしたの」と訊ねた私に「これは昔からあるやつだから、怪我とかじゃないよ。大丈夫」と答えていた。

 そういえば痣がある位置も同じだ。左肩近くの二の腕。

 隆晴の態度に関係があるのかはわからないけれど、少なくとも何かしら知っていることがあるかもしれない。聞いてみる価値はありそうだった。



 □



「隆晴、ちょっといい?」


 翌日の放課後、いつものように雑談を終えたクラスメイト達が教室を出て行くなかで、私は隆晴に声をかけた。長話にはならないだろうけど、今日はバイトが無いようで助かった。


「前に見せてもらった腕の痣、もっかい見せてもらっていいかな」


 きっとたまたま同じような位置に痣ができただけで、見比べてみれば全然違うに決まってる。でも私は頭のどこかで、同じものではないのかと思ってしまっている。馬鹿みたいだと自分でも思うし、きっと隆晴も呆れるだろう。しかし。


「……」


 彼はわずかに目を細めると、肩にかけていたスクールバッグを机に置いた。そして他の生徒がいなくなったのを確認してからようやく口を開いた。


「ないよ」

「え?」

「もう、あの痣はない。だって――」


 隆晴が小さく笑みを作る。いつもの優しそうなそれとは違ってあざ笑っているような、しかしどこか悲しそうな、奇妙きみょうな笑み。


「――いま、須賀野さんの腕にあるんだろ?」


 思わず息をのんだ。隆晴は「やっぱり」と言いたげに笑みを深める。


「同じもの……なの?」


 夏服の袖をまくって痣を見せる。彼はひと目見てからうなずき、ちゃんと移るんだなぁと呟いた。


「移る?」

「それはね、以前の俺が願いを叶えた証拠だよ」


 話が飲み込めない私を真っ直ぐに見据えて、隆晴は信じられない言葉を口にした。


「須賀野さん、一度死んでるから」

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