甘い糸

三宮のえる

甘い糸

「んー」

 おい、今の状況をありのまま話すけど、俺の目の前に彼女の顔があって、酔ってちょっと頰赤らめて目瞑っちゃってて、ソファにぽすん、とだらしなくもたれてる彼女に、俺がまさに覆い被さらんとしているって寸法だ。一緒に飲んだんだから俺も酔ってるのは確かだけど、頭がボーっとして顔が誰か他人のみたいに熱く感じるのは、酒のせいなんだか彼女のせいなんだかよく分からない、というか、きっと俺の頭が決めたくないんだろう。確かなことは、ここが今日初めて訪れた彼女の部屋で、俺たちが今ポッキーゲームをしてるってことだ。

 彼女がチョコレートの方をくわえてて、俺がクラッカーの方から攻めて、いや、進んでいって、鼻先がくっつきそうなところでなけなしの自制心と戦っている。あとひと口進めばもう止まれないだろうと、ゆらゆらする萎縮した脳みそでも分かる。頰の赤みに比べたら幾分控えめな薄桃の唇に触れたチョコレートが溶けかかっていて、これ以上の逡巡は彼女の服に染みを作ってしまいかねない。ただ、それが言い訳になるのだろうか。

 別にキス自体は初めてじゃない。サークルの新歓で知り合って、夏休み前に付き合い始めて、デートも順調に重ねて、それなりのシチュエーションに乗じて何度か唇を重ねることはできた。でも、今ここでこの唇に触れたら、それはもう、そういうことだろう?

 あの夜のチョコレートは妙に苦かった、みたいな三文芝居じみたエピソードがひとつ残るだけならいい。ただ、女の子にとってそれってそんなにヤワなもんじゃない、俺一人の責任でどうしていいもんじゃないくらいなことは感じる。彼女がおそらく初めてだってことは分かるし、俺もここから先は知らない。残念ながら、とは思わない。初めてが彼女なら俺は本望だ。ただ、さっきからこのゲームはずっと俺の一方通行で、食べ進めるたびに、ノーでないことがイエスなのかを彼女の瞳から読み取ろうとした。だが、それを気取ったか、彼女は瞼を閉じてしまった。


 送ってくよ、と言ったのは別にいつものことで、途中のコンビニに寄るのもお決まりだった。そりゃ彼女のアパートは表通りからは何本か引っ込んだとこにあるから、人通りがなければ別れ際にキスしても怒らないだろうくらいの算段はあった。

ドアを開いて彼女に続いて店内に入ると、制服の女子高生がお菓子のコーナーで足を止めていた。いつも顔を見るバイトの二人で、勤務明けらしい。

「あたしらも買ってく?」

「てか何、二人でポッキーゲームとかすんの? えーマジかあんたそういう趣味ー?」

「いいじゃんいいじゃん」

 いいじゃん、と俺がもう一つ心の中で重ねたのは彼女には内緒にしとくとして、11月11日は #ポッキーの日、ってポップはどうも今の二人の置き土産らしい。この間まで乙女ゲーのクリアファイルが陳列してあった棚で、そりゃ推しで妄想すりゃ捗る御仁もいるだろうという目論見なんだろう。彼女も当然今のを聞いていたはずなのをいいことに、繋いでいた手を少しだけくいっ、と引っ張った。

「ユキ、何かお菓子とかいらないの?」

「あー、もう白々しい。ポッキーゲームしたいってはっきり言えば」

 本気で怒った顔じゃないのを確認して、いいの? と訊くと、まだ冬限定出てないんだっけ、とはぐらかされた。確かにほろ苦いココア味は演出として素晴らしいけれど、その実あれはガッキーみたいな女の子がチャコールグレーのコートにイヤーマフかなんかして、食べる? とかやるからいいんであって、何が言いたいかっていうと彼女がかわいければそれでいい、ってことなのだがもちろん口に出すべくもない。

「予行演習」

 そう言って普通の赤い箱のを引っ掴んでレジに向かったけれど、一瞬でもメンズポッキーに目移りしてしまった邪な気持ちは、きっと墓場まで持っていこうと思う。

「何の?」

 別に何のでもよさそうな、甘さ控えめの笑顔に、イヴの、という心の声を噛み殺した。


 半ば強引にポッキーをお持ち帰りしてしまったせいで、上がっていく? から始まる通過儀礼を経ないまま、あとは彼女の部屋へと続く一本道になってしまった。二人とも真っ直ぐ歩けるくらいのほろ酔いなので、これから起ころうとしていることをそれぞれが自分の心に馴染ませようとするような時間が過ぎ、火照った口許が饒舌になろうとするのを、ぼんやりした脳みそが俯瞰して制止しているのを感じながら階段を上がった。

 玄関を開けた途端に今まで嗅いだことのないような、甘い、でも甘すぎない、俺には女の子の匂いとしか形容する言葉のない匂いが鼻の奥をくすぐって、招じ入れた彼女がほんの瞬く間だけぐいっ、と強く手を引いてくれたような気がした。

 あとはもう身も蓋もないようなもので、一応彼女がソファに、俺が向かい合ってベッドの縁に寄りかかって床に座ったものの、何か飲む? と訊ねる選択肢もないまま、ある種の使命感を帯びたように彼女の方から黙ってポッキーの包装を破った。

おいでよ、と一本ひょいとくわえて、そのまま、もご、ともう一度口を動かした。しよ、と聞こえたのは俺の妄想か、よし現実だとしても、ゲームを、だと解するのが賢明だろう。ただ、彼女だって本当は分かっていて言っているのだとしたら。いや、それでも俺に気兼ねして拒み損なったのだとしたら。

 視線を下げるとウールのスカートから真っ白い脚が二本すっと投げ出されていて、11月11日は、というポップが脳裏にちらついた。イヴの予行演習。これを越えた向こう側に行きたい。再び視線を上げると、彼女の瞳に吸い寄せられるように、自分でも驚くほどすくりと立ち上がると彼女に覆い被さるようにゲームにベットした。

 でも、ここで越えてしまったら予行演習じゃない。遊戯じゃない。決めるのは時の運だのルーレットじゃなくて、俺たち自身であるべきだ。いや、正直言えば彼女が決めてくれればいい、と少しばかり思っていた。そして、それを見透かしたかのように、彼女は瞳を閉ざしてしまった。

 酔った勢いでここまで来てしまった自分に冷水を浴びせるのに迷いはないが、彼女が受け入れてくれるつもりなのなら、その覚悟を裏切る罪もまた重いのではないか。どちらにしてもチョコレートのなんかもちろん問題にならないくらいの消えない染みと疼痛を、彼女の中に与えるか、心に与えるかの差ではないのか、と。もう、戻れない。いや、言い訳するな、お前が戻りたくないんだろ。

 意を決して噛み進めようとした刹那、彼女は眉間に皺を寄せて身構えた。見まいと目を閉じて捉えようとしたその唇から漏れた吐息の熱さに、何とか俺自身を御しえていた理性の鎧が音を立てて崩れていくのを感じた。心まで丸裸にされた獣が怖気を奮った途端、

 ポキッ

 二人を繋いでくれていた甘い糸が悲鳴を上げた。 ハッと我に返って目を開くと、彼女はぎゅっと瞼を閉じて身体ごと強張らせていて、耐えようとしているのはこの先に訪れようとしていた瞬間の痛みなのか、それとも突然断たれてしまったこの瞬間に生まれた虚無感なのか、どっちにせよその睫毛がみるみる濡れてくるのが分かって、飛びすさらん勢いで離れようとしたら、いつ知らず絡めていた指で引き止められた。

 小指一本だけ残して繋いだままゆらんゆらんとブランコのように指切りのような仕草をしながら、彼女は微笑もうとしているようだった。すん、と鼻をすすりながら、もごもごと口を動かしたが、ポッキーをくわえたままで聞き取れない。見開いた瞳からようやく、どうして、だと理解して、だって、と言いさして自分ももごもごになってしまう。お互いくすくす笑いながら、俺自身の視界も雨催いらしいと知る。

「ありがと」

 ポッキーと一緒に、さっきまで言いかけていた言葉も飲みこんだらしい彼女が言った。礼を返すのが照れ臭いあまりに彼女を横抱きに抱え上げてしまったあたり、酔いは覚めきらなかったらしい。

 ベッドの上に寝かせて毛布をかけてやりながら、もう寝ろよ、疲れてんだろ、俺もう、と言ったところで首根っこに抱きつかれて唇を塞がれた。

「予行演習終わり。本番はもっと上手にしてね」

「は? ちょっ、おまっ」

「あーっ、まーだそういうこと考えてるでしょ」

「えっ、違うの」

「さあね」


 部屋を出て階下の集合郵便受けまで来ると、さっきの部屋の匂いの記憶を再生しながら部屋番号の下の手書きの苗字に指を這わせた。物騒な世の中にこの辺素直に書いちゃうあたりもかわいいんだよな、とかついごにょごにょ言ってしまって気持ち悪さに自分で呆れかえる。

 下の名前を訊いたとき、キラキラっぽくて漢字で書くの恥ずかしいんだよね、と言いながら彼女が書いた優姫、という字はその名のままの姿だった。音は普通じゃん、って口ではそう返したけれど、キラキラって褒め言葉じゃん、と言えなかった本心を思い返す。咄嗟に抱きかかえた彼女の二の腕と腿の感触を反芻しながら、ぼんやりと家路を辿り始める。

 いつでも本番、なんだよな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

甘い糸 三宮のえる @noel_sannomiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ