第九章
第九章
その日。
「はい、晩御飯の時間だよ。」
くまさんと一緒に、ぱくちゃんも入ってきた。最近の食事は、ぱくちゃんと一緒にとることが恒例になっている。食事することに恐怖心を持たせないようにするために、沖田先生が、用意してくれた作戦であった。
「今日は、」
くまさんにご飯の内容を確認すると、
「かつ丼。」
ぱくちゃんが嬉しそうに言って、食器をベッドテーブルに乗せてくれたのだが、それをみて、水穂は再び剣を突き付けられたような気がする。急いで断ろうと思ったが、
「大丈夫だよ。僕も一緒だから、怖いことはないよ。」
と、ぱくちゃんにそういわれて、恐々であるが食べてみることにした。
「じゃあ、二人とも食べようか。いただきます。」
「いただきます。」
今までは、横になったままくまさんに食べさせてもらうのが通例であったが、ここへきて座って食べるようになった。箸を持つのも様になったね、かっこいい、なんてぱくちゃんが褒めてくれたこともある。そんな当たり前のことを褒められても、通常うれしくはないが、病院では、大喜びになるということはよくあった。
恐る恐るではあるけれど、とんかつを口に入れた。口に入れてかみ砕いてみたけれど、吐き気も何もしなかった。少し安心して、それを飲み込んだ。飲み込んでも何も起こらなかった。というか、起こらないはずだった。くまさんが、とりあえず変化はないな、よかったね、なんて言ってくれてほっとした。というか、ほっとしたはずだった。
「どしたの?」
当り前のようにとんかつを食べていたぱくちゃんが、水穂の顔を見ると、表情は何も嬉しそうではなく、だんだんに苦しそうになってくる。
「あ、、、。」
くまさんが急いで膿盆を取りに行った。一言、腹が苦しいと言いかけてももう遅い、今の今まで音量が小さすぎると言われ続けてきた腹が、雷龍のようにごろごろなりだして、いつもより猛烈な勢いでとんかつを吐き戻した。こうなると、ペストどころか、かつて日本にもよくあった、三日ころりにかかった人に「そっくり」であった。吐き戻しておしまいかと、くまさんもぱくちゃんも予想していたが、恐ろしい映像でも見せられているのだろうか、今まで以上の恐怖心で激しく泣き叫び、ベッドに倒れこんだ。すぐにくまさんが沖田先生をよんできて、先生が安定剤なるものを打ってくれたところでやっと楽になって、そのままうとうと眠ってしまったことで、難を逃れた。
とりあえず、この騒動はこれで収まったが、このとんかつのせいで、再び食物を一切受け付けない体に戻ってしまった。水だけは何とか飲むことはできたため、とりあえず生きていることは確かだが、今まで以上に食事に対して恐怖心は増大してしまったのである。あーあ、これでは、、、とくまさんさえも、半ばさじを投げるような態度で接するようになってしまった。
製鉄所に沖田先生から手紙が送られてきた。こういう時はメールよりも、手紙のほうが、より状況は伝わりやすい。誰かに文書を回して、早く伝言が伝わる利点もあった。それに、筆跡から、逼迫しているのがわかる。電話やメールよりすごいところは、一対一ではなく、一体複数で伝言内容を見ることができるということだ。文字の読めない杉三も、代読してもらって、これでは大変だと理解できた。すぐに杉三の家に集合して、ジョチを議長に、会議が開始された。
「そうですか。水穂さんにとって、とんかつってそんなに怖いものなんですね。ある意味では睡眠薬より怖い凶器なんですね。もう、大量破壊兵器に近いんだろうなあ。」
ブッチャーは大きなため息をついた。
「はい。しかし、今回の課題はそこではなくて、彼がまた何も食べない状態になったということです。食べなかったら、そのうち体力をなくし、確実に餓死することは目に見えています。今は、水は飲んでいるから、まだよいだけの事ですから。」
カールさんもとりあえず事実を述べる。
「もう、しょうがない。僕、もう一回怒鳴り込んでやろうか。」
「いや、それはやめたほうがいいと思いますよ。杉ちゃんの怒鳴り込みは、以前作戦の一つとして決行していますし、再度決行するのは難しいでしょう。怒鳴るというのは、効果的な時もありますけど、恐怖をさらに増大する可能性もあります。そうしたら、さらに食物をとらなくなり、餓死の危険が増します。」
杉三が提案したが、ジョチがそう反対した。確かに、カツを入れられて動き出すという例もあるが、それはある条件が整わないと成功しないことが多い。
「なんでだ?あんまり甘やかしても聞かないときは、怒鳴ったほうがいいのでは?」
「杉ちゃん、よく考えて。一度重大な恐怖を与えられている兵器を再び突き付けられただけでも、かなり人間は動揺するよ。そこへ、お前は弱虫だ、しっかりしろなんて怒鳴られたら、より劣等感が強くなって、落ち込むだけじゃないか。」
「ええ、カールさんの言う通りですよ。健康な人であれば、一度や二度怒鳴られても、それをばねにして立ち直ることはできますが、重症な人にはできません。それは、人が弱いとかそういうことではなくて、だれでもそうなるんです。」
杉三が不服そうに言うと、カールさんもジョチもそう反論した。
「はい。そうですよね。一度や二度、経験しただけなら、まだ何とか立ち直れるんですけど、戦争中みたいに、何回も危険なことを体験させられると、立ち直るどころか、怖くなって泣くしかできなくなってしまうんですよ。アウシュビッツの収容所だってそうだったけど、強制労働とか、人体実験の恐怖に耐えられなくて、死んだほうがましと言ってわざわざガス室へ行った人も、少なくなかったそうですよ。」
確かに、カールさんが言う通り、何回も怖い目に会わされた人間は、立ち直る力を失い、恐怖に従うしかできなくなるらしい。カールさんはそれに基づいて、杉三に言った。
「そうだよ。水穂さんだって今はまさにそういう感じだ。そういう人に対して馬鹿野郎、しっかりやれなんて怒鳴っても、立ち直れると思う?杉ちゃん。カツを入れなきゃいけないときもあるけどさ、それだけじゃ人間、何にもならないのさ。カツを入れるのも必要だけど、その反対の優しく包んでやるような人がいないと、ダメなんだよ。それに、戦争中とはちがって、今はもののほうが人間よりも影響力を持っている時代なんだから、カツよりも優しい面を強調しないとダメなんだ。特に、日本人はイスラエル人と違って、弱いところが多いのにそれをもろに出すのは認められない種族なんだから、他以上にしっかり支えてあげないとダメなんだよ。」
「カールさんすごいですねえ、、、。俺たち以上に、日本の事を知っているんじゃありませんか?」
ブッチャーは思わず感動して、そういってしまった。
「まあ、そういうことはよくあることです。海外から来たわけですから、日本人を客観的に見れるということですよ。ブッチャーさんのお姉さんだってそうだったのではないですか?ご両親がお姉さんに対して、お叱りになったり慰めたり、何度もしてきたでしょう。」
ジョチに言われて、ブッチャーは確かにそうだと思った。
「そうですね。ですが、俺の姉ちゃんは、褒められるよりも叱られるほうを当り前だと思って、悪いほうが頭に入ってしまうようです。叱られたことばかり思い出して、褒められたことは一度もないと泣きさけぶ。俺から見たら、そんなことはなかったんですけどね。一度も褒めてないなんて、子供の時は、俺より褒めてもらっていたのに、何を言い出すのかとよく思いました。まあ、お医者さんによれば、もう過去のことは仕方ないので、根気よく親子関係を改善していこうと言われてますが。」
「そうそう、ブッチャーさん。それが日本人が一番劣化したところです。かつての日本人は、結構叱られても耐えられるしぶといところがありましたが、若い人はどんどんできなくなっている。ところが、老人はまだ耐えられると、信じ切っているから、若い人と老人の間で摩擦が起こるんでしょう。」
「カールさんさ、水穂さんはどっちかな?」
杉三が、カールさんにそう口を挟んだ。
「うーんそうだねえ、45とは言え、年代的には若い人には当てはまらないけどね。特殊な病気にかかってしまっているわけですから、うーん、どうなるのかなあ、、、。」
カールさんは、答えを出すのに悩んでしまった。
「僕はどっちもできないと思う。」
杉三はそういった。
「そうですね。今は、どんな説明も、彼には通じないでしょうね。つまり、理論というものは、ほぼ役に立たないということですね。」
「ジョチさん、それじゃあ、救いようがないじゃありませんか。いくら説明しても立ち直れないというのなら、絶対変わらないということでしょう。そうしたら、間違えなく、餓死しちゃいますよ。俺たちは手も足も出ないと?」
ブッチャーは、また絶望的なことを言った。
「そういうことになりますね。つまり、カウントダウンはまた一歩踏み出すということですね。」
カールさんもそう結論を出す。
「ええ、だれでもカウントダウンというものは持っています。水穂さんだけが持っているわけではなく、開始されたのが早いか遅いかの違いだけです。ただ、カウントダウンのスピードを遅らせることは、こちらでもできることにはできますけど。」
「そうですね。ジョチさんの言う通り、医薬品でなんとかし、寿命を延ばすということですよね。水穂さんの場合、大掛かりなことをやって、理論的には食物を受け付けられる体にはなったんじゃないですか。ですけど、いくら体をそうしたとしても、過去の記憶が邪魔をして、食べものを受け付けさせないわけですから、これはもう、打つ手はないのではありませんかね。」
ブッチャーは、姉の看病経験に基づきそういうことを言った。いくら医薬品を使っても、記憶とか感情が邪魔をしてしまっては、全く効果がでないということは、精神疾患ではよくわかる。
「ええ。男性はどうしても理論でもっていってしまうので、そういう風に考えてしまうんですよね。そういう風にできているのですから、いくら僕たちがなんといっても効きません。だから、僕たちは撤退するべきでしょう。とにかく、こうなったら、女性を呼び戻すしかない。」
ジョチの結論に一瞬どよめきがあったが、みなそうするしかないと感づいた。
「しかしジョチさん、女の人は、どこにいるんでしょうかね。」
「一人いるじゃないですか。僕もそれは認めます。男性には、フローレンス・ナイチンゲールのようなことはできないと思います。」
ブッチャーの発言に、カールさんが付け加えた。
「うーんそうか。つまり、女のほうが理論ではなく、感情に勝負できるというわけだよな。しかしだよ、福島からどうやって呼び戻す?手紙出しても、郵便屋からもらってすぐに破り捨てるかもしれないよ。女ってのはすぐそうなるから。受け取った時点で感情が爆発して、内容なんか見たくないって叫ぶこともざらにあるじゃん。」
確かに杉三が言うとおりだ。とりあえず取っておく、ということは、女の人はあまりしない。
「それなら、俺が直接行くしかないじゃありませんか。俺、また新幹線と、常磐線、水郡線の切符を買ってきます。恵子さんのご両親の許可をもらうのも、また大きな壁ですが。」
確かにブッチャーのいう通りだった。若いころ、恵子さんはリンゴ農家がどうしてもいやで、実家を飛び出して、そのまま結婚してしまったそうだ。そのため、彼女の両親は、彼女に対してもそうだし、他人に対しても何か不信感を持っているようである。
「そうですね。一日くらいなら、店を臨時休業してもいいと思うので、僕も一緒に福島行ってきますよ。こういうときは、戦力は多いほうがいいでしょう。」
カールさんもそういってくれたので、恵子さんを呼び戻す作戦は、実行されることになった。
「そして、水穂さんがとんかつを大量破壊兵器としてしまった背景には、絶対同和問題が潜んでいると思います。ここだけは、僕たちにはどうしても手を出せません。なぜなら、僕たちは、人種差別を経験していないからです。」
「そうですねえ。この前も言ったけど、水穂さんたちが、阿弖流為の子孫であるとかそういう風にはっきりした理由があれば、もうちょっと、解決策ができると思うんですよ。何とか族とか、具体的な名前があって、身体的に大和民族と決定的に違うところがあるとか、そういうのが何もないわけですからね。そこが、僕たちイスラエル人とは違うところですし、僕が励ましても通じないのはそのためだ。」
カールさんが、水穂の箪笥の中身を入れ替えたのを思い出しながら、そう発言した。
「そうなんですよね。一人だけでは戦力にはなりません。例えば、異民族同士のコミュニティがあって、定期的に集まるなどすれば、もうちょっと意欲的になれると思います。しかし、日本ではそれさえもつぶそうとしてしまうという、歴史がありますからね。」
共産主義者らしく、ジョチもそういうことを言った。弱い人が手を組んで、差別に立ち向かおうとするときは、こういう思想もどこかで役に立つのかもしれなかった。
「まあ、それは無理だから、本人に打ち勝ってもらうしかないよ。とにかく、ブッチャーと、カールさんで福島へ行ってもらおう。」
杉三がそういうと、みな頷きあって、大きなため息をついた。
一方、蘭の家では、蘭と懍が、会議終了まで待機していた。
「本当になんで僕は、参加してはいけないのでしょうか。それほど、僕は能力がないということなのですか?」
蘭は落ち込んでいた。本当は、杉三が病院に怒鳴り込みに行ったときも、一緒にいきたかったが、懍に止められてしまったのだった。
「当り前じゃないですか。蘭さんのような人は、いても大した戦力にはならないんですよ。だから、今回はいても仕方ないので、外れてもらいました。」
懍はいつものクールな口調で言ったが、蘭はどこか悔しかった。
「しかし、なぜ僕だけが除け者にされてしまったのですか?僕だって水穂には早くよくなってもらいたいし、できることがあれば協力しようと思っているんです。それがどうしてだめなんでしょうか?」
「だから、そういう気持ちなら徹底的にそうならなければダメなんです。あなた、そういっておきながら、反対の意味の愚痴も漏らしたでしょうに。ですから、あなたのしていることはすべて自己本位にすぎないんです。言ってみればただの野次馬ですよ。そういう態度で接しても、水穂さん本人もよい気持ちにはなりませんよ。だから、今回は外れてもらいました。お分かりになりますか?あなたは、本気で水穂さんの事を思っているわけではないからです。」
「教授、何を言っているのですか!僕は決してそんなことありません!」
蘭は、自分のことを馬鹿にしていると思い、思わず声を荒げてそういってしまったが、懍は口調も変えずにそのまま続けた。
「では蘭さん、先日水穂さんが昏倒した翌日に、あなた、自身の着物をクリーニングに出して、クリーニング店に文句を言われたと愚痴を漏らしましたね。本当に水穂さんの事を思うなら、そのような愚痴を漏らすことは先ずありませんよ。それは結局、ご自身の事しか頭になかったから。あなたのしていることは、結局自己本位ですよ。そのようなことを、水穂さん本人が立ち聞きでもしたら、はたしてどう思うでしょうか。現状から判断すれば、立ち聞きということはできないのかもしれませんが、そういう状態なのだからよいのではないか、と思ってしまってはなりません。そこを考えてから発言されるべきです。」
「しかし教授、人間ですから、それくらいのことは言ってもいいのではないでしょうか。」
と、蘭は言い返したが、
「いいえ、他人を思うということは、生半可なことではありません。ある時は肯定的に接して、ある時は否定するという態度では、相手にとっても良い結果をもたらしませんし、自身でも不快な思いしか残りませんよ。よく、精神障害のある、子供さんをもつ親御さんが、よく発言するのですが、息子や娘に対して向き合いたいという気持ちはあるが、自身がけがをするなどして息子や娘が怖い気持ちが捨てられないという、相反することを同時に口にします。そういうとき、僕は、それだから子供さんが立ち直れないのだと言っています。そういうときは、自身の持っているものは、一度全部捨てなければならないからです。生半可な思いはかえって、相手をダメにしてしまいますよ。そういうことがあるので、蘭さんは、こういう時には向かないと思い、外れてもらったんですよ。わかりますか?」
「生半可って、そんなことはないんですけど、」
「いいえ、蘭さんがしていることははっきり言えば傍観にすぎません。人間誰でもそうですが、傍観は同罪ということもあり、役には立ちません。」
懍に言われて、蘭はがっくりと落ち込んだ。
「結局、僕は水穂にとって何になるんでしょうか。うちの母が贈賄をしていたのを、あいつが告発して、母がそれに激怒して大量の賠償金を支払わせたのは確かですから、僕は、あいつにとって、どうしようもない悪人にすぎないということですかね、、、。あいつも、今病院で最期の時を感じているんだと思いますが、一人寂しくということはないのかなあ。そうなってほしくないから、僕は一生懸命やっているつもりなのですけど。」
「蘭さん、その気持ちさえ忘れなければ、きっと水穂さんにも届くと思いますよ。ですから、そのためにも、正反対の愚痴を漏らすと言った、生半可な態度はとらないようにしてください。」
懍はそこで指導者の顔になった。やっぱり青柳教授と呼ばれる教育者だった。
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