第八章

第八章

「今日はちょっと、お散歩してみましょうか。御外は、暖かいですよ。」

くまさんが水穂をストレッチャーに乗せた。その日は丁度小春日和で暖かく、澄んだ青空が広がっていた。と言っても、水穂本人は、明け方にせき込んで目が覚めるなど、決してよい状態とは言えなかったのであるが。

とりあえず、くまさんにストレッチャーを動かしてもらって、庭へ出た。庭へ出ると、ほんの少し風が吹いて、冷たい風にあたって、咳が出た。

「あ、来た来た。よかったよ。また会えて。」

ぱくちゃんがまってましたとばかり、にこやかに笑って駆け寄ってきた。こら、走るなとくまさんが注意しても効果なし。くまさんは、それだけ元気なら大丈夫だ、とあきれていた。

「あ、この間は、すみませんでした。あの時は杉ちゃんと一緒にああしてくださって。」

と、言いかけてまたせき込んでしまうのだった。

「大丈夫?大変なんだね。あの時はごめん。悪いことしちゃったよ。」

「あ、あ、ああ、気にしないでください。それより、本当にあの時は手伝って下さって、ありがとうございました。」

ぱくちゃんに頭を下げられて、水穂はそう返答した。

「いいよ、僕もあの後、看護師さんに叱られちゃった。やたらに、他人に声を掛けて、どら焼きを渡すもんじゃないって。」

「構いません。だって、それはきっと故郷では当たり前だったんだろうし、そういうことは、仕方ありませんよ。古くからある習慣を変えるのは、なかなか難しいことですから。」

「ううん、いいよ。これからは、やたらにどら焼きは出さないようにするから。」

「でも、そうなったら、寂しいのでは?」

「優しいね。でも、日本ではやってはいけないというのだから、しないことにするよ。まあ、確かに寂しいと言えば、寂しいけど。」

確かに、日本作法を学習したということだが、それはきっと本人には、寂しいということなのかもしれなかった。

「それより、体調はどう?結構辛いの?」

ぱくちゃんは、もうそれでいいというような口ぶりで言った。

「あ、はい。昨日、生まれて初めて魚を口にしました。くまさんに立ち会ってもらって。とりあえず、何とか飲み込むことはできて、よかったよかったとくまさんと安堵していましたが、数分後には、もう気持ちが悪くなって、あれよあれよと吐き戻してしまいましたけどね。」

「そうかあ。」

水穂がそういうと、ぱくちゃんはため息をついた。

「結局、ペスト菌を駆除しても、変えられないんだ。僕、子供のころに見たことあるけどさ、ペストにかかった人。もう、三日くらいで、ゾンビみたいになってなくなっていったよ。僕らのところでは、血を抜くしか方法がなかったけど、日本では新しいものに入れ替えができると聞いて、それだけでもすごいなあと感動していたんだ。でも、それでも治らないんだね。」

どうやら、ぱくちゃんは水穂の事を、ペストにかかって入院した患者だと思っているらしい。基本的に、日本ではペストにかかっても抗生物質のおかげで重症化することはまずないが、彼の故郷では、しょっちゅうあるのだろう。それに、抗生物質がないので、治療法としては、瀉血しか方法はないと思われているようである。かつてヨーロッパで大流行した時もそうだった。それが、間違いだと確定したのは、かなり時代が後になってからだ。そういうこともあるから、多分ぱくちゃんは、瀉血により血液を抜いて、そのあとで健康な血液と入れ替えたと思い込んでいるのだ。日本ではありえない話というか、ばかばかしい理屈であるが、識字率の低いぱくちゃんの故郷では、そういうことが本当だと信じられてしまうこともある。

「それでも、よかったねえ。ああして、ゾンビ化しなかったんだもんね。そこだけは救われたと思ってよ。本当に綺麗な顔だもん、そうなったら、かわいそうすぎてたまらんよ。」

「あ、えーと、そうですか。」

水穂は、あえて訂正しないことにした。

「でもさ、日本では新しいのができるだけでも、すごいことだと思ったよ。それなのに、なんか、かわいそうな気がするな。完全に治せないのに、無理矢理そういうのをやらされるって、なんか嫌じゃないかな?」

ぱくちゃんの一言に、はっとした。確かに、そうなのかもしれなかった。かっこいい名前の大掛かりな治療をしたって、いまだに魚を食べられないのである。

「そうなのかもしれませんね。たぶんそうだと思います。沖田先生にも言われました。人間は、時計みたいに、ぜんまいを取り換えればすぐに動き出してくれるかというと、そうではないそうです。人間は、ぜんまいを動かすようになるには、まだまだ必要なものが沢山あるって。でも、医者がしてやれることは、ぜんまいを新しいのに取り替えてやることだけだって。あとのことは、僕たちがやらなきゃいけないんだって。残念ながら、それは僕にはたぶんできないでしょう。だから今でも、食べ物を受け付けないのだと思います。そういうことだと思います。」

「いつになったら帰れるの?」

不意にぱくちゃんが急に話題を変えたので、またびっくりした。

「帰れるって、、、。まあ、沖田先生は、しばらく体力をつけたら、かえっていいと言いましたが、今の事だから、多分、無理なんじゃないでしょうか。もうあとはゆっくりと、最期までかな。」

と、予想している答えを出すと、

「帰ろう。」

ぱくちゃんは明るく言った。

「帰ろうよ。」

「そんなこと。」

「無理って言ったら、あの怒鳴ってくれたおじさんが怒るよ。」

またいたずらっぽく笑うぱくちゃん。

「僕、約束したんだ。うちのかみさんと。あの曾我さんに、うちの店を買収してもらって、もう一回、やり直すってさ。実をいうとね、僕がこっちにいるせいで、うちのかみさんもかなり困っているみたいで。だから、もう、店は閉めようかと思ってたんだけどね。だけど、曾我さんにお願いされたの。店を立て直して、新しいお客さんが、生まれて初めてラーメンを食べに来た時に、暖かい顔で迎えてやってくれって。」

「そうですか。生まれて初めて、、、。きっとお客さんも喜びますよ。ラーメンの原点を食べられるということで。」

「本当?」

またぱくちゃんはそう確認した。

「ええ。そういうことだと思いますが。」

「よし、そういってくれたんなら、その通りにしてね。必ずうちの店に来て、感想を言ってね。」

と、ぱくちゃんは、水穂の肩を叩いた。

「え、つまりそれは僕の事?」

思わずきょとんとして、水穂がそういうと、

「そうだよ。ほかにだれもいないよ。いま、約束したんだから、それ、実行してね。必ずうちの店に来てね。よろしくね。」

というぱくちゃん。ああ、はめられたんだとわかった。

「でも、できないことだってあるし、」

「いや、約束は約束だよ。必ずそうしてね。」

返答のしようがなく、もうだめかと思った。

「じゃあ、楽しみに待ってるよ。うちのかみさんも、ラーメンを食べてくれるの、楽しみに待ってるって。まあ、そんなに大きな店じゃないけど、少なくとも、十人くらいなら入るよ。」

「いいじゃないの。よくなってぱくちゃんの店に行ったら、思いっきりラーメンを食べて、世間話に花を咲かせるといいよ。二人そろって、思い出話、男の友情か。いいなあ、俺も欲しい。」

くまさんが、二人の話に羨ましそうに入った。

「何だ、くまさんは、そういう人はいないのか?」

ぱくちゃんがそうからかうと、

「おう、こういう仕事だもん、男にとっては友情どころか、彼女さえもできない仕事だよ。まあ、患者さんには、重宝されるけどさ。」

と、くまさんは正直に答えた。

「男ってのは、出世して偉くなるのがかっこいいのだろうが、たまにはこういう、地道に働く男がいてもいいかなあと思って。」

なんだか、くまさんのこの発言、ブッチャーにそっくりだと思った。

「いいんじゃないですか。そういう男性がいても。財力をなすより、重宝されたほうが、人間的には幸せなんですよ。」

「いいこと言ってくれるねえ。でも、外の世界では、ただのつまらない男としか見られないよ。こんな仕事してるとさ。男も女も、どっちも頑張っているって、言える仕事って、意外に少ないな。そうなると、ラーメンなんて、男も女も大好きだし、嫌いな人はいないし、いい仕事じゃないかあ。」

くまさんは、ぱくちゃんにもそういうことを言った。

「もう、くまさんどうしたんですか。今日はなんだか感慨深いこと言って。ラーメン屋さんも、大変なんですよ。最近はチェーン店で、簡単に作れちゃうので。お客さん獲得にも大変なんじゃないですか。」

水穂はそういったが、またそこでせき込んでしまうのだった。

「ほらほら、そういう時も、せき込まないでいられるようになりましょうね。これからは、日課的に外へ出て、体力をつけてもらわないと。そうしないと、いつまでもぱくちゃんのラーメン、食べにいけないですからね。さて、そのためにも、今日も魚を食べる練習、してくださいよ。」

やっぱり、くまさんはいくら運が悪くても、医療従事者なんだなと思った。


そのころ。

「こんなにたくさん持ってたんだね。いやあ、、、信じられないなあ。うちの店にも頻繁に買いに来てくれていたが、なんでこんなに銘仙ばかり持っていたのだろう。」

カールさんは、水穂の箪笥をあけて、一枚一枚着物を取り出し、中身を確認した。青柳教授が、入院している間に、着物をすべて洗濯屋に出してあげようと提案したため、ブッチャーと「開封」作業を始めたのだ。

「そうですねえ。俺もやっと、銘仙の特徴を掴めるようになりましたが、こうなると、単に好きだっただけとは思えませんね。」

手伝っていたブッチャーも、カールさんに同意した。

「しかし、なぜこんなにたくさん持っていたんだろう。銘仙と言えば、間違いなく同和地区で着用されていた着物であるし、ある意味、これでは僕たちの、黄色い星印を背中に背負っているようなものじゃないか。これ、ある意味危険信号だよ。わざわざ、差別してくれと言っているようなもの。」

「そうですよねえ、、、。よく言ってたのが、羽二重とかそういう高級品を身に着けて出かけると、いざばれたとき、言い訳ができないからということですが、どうもそれでは言い訳としては甘すぎるような気がしますが、、、。」

ブッチャーがそういうと、カールさんはあきれた顔をした。

「あーあ全く。日本はそういうところが甘いんだ。もう、人種差別を辞めさせるなら、銘仙なんて販売を禁止すればいいのに。これでは、黄色い星印を平気で販売させて、そっちのほうが安全だと言っているだけじゃないか。少なくとも、ドイツでは、黄色い星印は、つけてはいけないことになっている。そういう風に、しっかり決着をつけないから、人種差別がなくならないんだよ。」

「そうですね。人種差別の道具が、今でも平気で販売され続けているからなくならない。そして、それを着用してれば安全だという変な安心感が、差別される側にも残っているわけですか。そうですねえ、それでは確かに泥沼化ですよ。よし、この際ですから、新しいものを入れ替えてやってくれませんか。俺も、水穂さんがこのまま差別され続けるのは、やっぱりつらいですし。それに、水穂さんだって、杉ちゃんに骨髄を貰ったわけですから、もう、血液的に言ったら、杉ちゃんと同じということになります。だから、少なくとも穢れた血はないわけですから。全部変えちゃいましょう!」

「よし、わかった。僕も同じ考えだ。店の売れ残りがいくつかあるから、これ全部処分して、新しいものを入れてあげよう。僕たちの、水穂さんへのお祝い。今から店に行って、売れ残りを確認するから、手伝ってくれるかな?」

カールさんは、イスラエル人らしく、素早く決断した。

「わかりました!俺、手伝います!」

二人の呉服商は、「作戦」を決行するため、四畳半を出た。


「はあ、もう。着物って本当に重いですねえ。本当に羽二重は重いんだなあ。高級品は、やっぱり持っているだけで、ずしっと来ますよ。」

入れ替えをすべてやり終えて、ブッチャーは、お茶を飲みながらカールさんに言った。

「はい、そうだねえ。日本では、着物の種類なんて、ほとんど士農工商に起因しているからねえ。それだけ、身分制度が細かかった国家はそうはないよ。」

カールさんは、また感慨深く言った。

「それにしても、どうしてもわからないな。なぜ、ここまで徹底的に、水穂さんたちは、差別的に扱われたのだろうか。」

「カールさん、またそこですか。いつも銘仙に触れると、そういうことを言いますね。それほど、疑問に思うんですか?」

ブッチャーは、日本人らしく、そういいかえした。日本人は、日本に住んでいるはずなのに、こういうことに関しては、あまり関心がないらしい。

「しかしねえ、ブッチャー君。僕たちから見たら疑問というか、よくわからないことは、はっきりしないと気が済まないんだよ。日本人は、何でも曖昧にしてしまうから、今になるまでもめている問題が、本当に山ほどあると思うんだけどねえ。同和問題だってその一つだろう。水穂さんたちが、民族系統的に問題がないというのなら、そういうことちゃんと証明して、差別をやめるように、法律で呼びかけるべきではないのかな?」

「そうですねえ。俺も、直接同和問題にかかわったことはないし、ほとんどの若い人は、もう過去のものになっていると言いますが、しかし、こういう着物が普通に売られていると、必ず通らなければならないので、まだ解決していないと実感させられますよ。」

「そうなんだよ。まず初めに、これをはっきりさせておかないと。なぜ、このような着物が、今の時代まで生産され続けてきたのかな?もし、差別を禁止するのなら、とっくに生産は取りやめになっているはずだ。そこが不思議なんだよ。そもそも、なぜ、水穂さんたちは、ああして徹底的に差別されてきたのだろう?いまでこそ、ゴルフ場になっているそうで、その現場は見ていないが、彼の住んでいた地区は、ワルシャワゲットーとほぼ同じくらい、極貧生活を強いられたそうじゃないか。」

カールさんは歴史学者のような話を始めた。

「ワルシャワゲットー、あ、えーと、、、。」

ブッチャーが一生懸命思い出そうと考えていると、

「須藤さん、第二次世界大戦中に、ユダヤ人はゲットーと呼ばれた居住区に集団移住を強いられていたんですよ。」

懍が二人の話に割って入ってきた。

「じゃあ、先生。ワルシャワゲットーと同じようなものが平気で存在したのなら、水穂さんたちは、やはり違う民族と考えていいのですかね?」

またそういうことを聞くカールさん。

「そうですね、彼等の明確な起点は明らかになっていません。様々な文献が彼らの起源を調べていますが、決定的なものはないですね。」

「しかし先生、僕も、店の合間に日本の歴史について調べさせてもらいましたが、大和朝廷が、日本を統一する以前は、日本は大和民族だけの、単一民族国家ではなかったそうじゃありませんか。中には、大和朝廷に最後まで抵抗した人物もいたそうですね。民族名称は忘れてしまいましたが、かつて坂上田村麻呂に抵抗した部族の酋長で、阿弖流為という人物がいて、彼は、一人で百人斬り殺すほどの、怪力であったそうじゃありませんか。」

カールさんは外国人らしい話を始めた。

「そうですね。阿弖流為の存在は確かであったようで、京都の清水寺には、彼の記念碑が設置されています。しかし、そう考えると、またおかしな話になる。阿弖流為が坂上田村麻呂と対戦したのは古墳時代から奈良時代のころで、今の同和地区の制度が始まったのは江戸時代ということがはっきりしています。だから、その間に何があったかがわかっていないのです。その間に、平安、鎌倉と時代は変わっていて、何百年近い開きがあります。」

「それに、俺、映画で見たことあるんですが、阿弖流為が住んでいたのは宮城県のほうですよ?」

ブッチャーは、記憶の限りを思い出して、二人の話についていくように試みた。

「そうですが、江戸時代に同和地区が設定されたというのなら、もしかしたらその間に、バビロン捕囚のようなものがあったのかもしれませんよ。そして、何らかの原因で解放され、異民族が日本全国に散らばったとは考えられませんか?しかし、徳川政権は、彼等が反乱でも起こすのを恐れて、わざと極貧生活をさせるようにして、それが同和問題として現代まで続いているのではないでしょうか?」

「ええ、確かに、そういう説を唱えた人類学者もおります。だからこそ、徹底的に差別したのなら、辻褄はあいます。しかしですね、これは今後の課題かもしれませんが、同和地区の住民と、そうでない人の遺伝子検査でもして、明らかに違いが判るのなら、それが確証となるでしょう、、、。でも、果たして、それが実現するかは、疑問ですが。」

懍は大きなため息をついた。

「だから先生、それだって、日本人が足りないところじゃありませんか。たとえば、インドで、糞便の処理を強いられたダリットという身分がありましたが、インド政府が彼らの遺伝子を検査したところ、アーリア人とは違う、南アジア人の遺伝子を持っていたことが明らかになりましたよ。そういう風に、一度徹底的にやってみることも必要だと思うんです。日本人は、肝心なところに来ると、そういうところから逃げてしまうような気がするんですがね。」

カールさんは、今一度そう主張したが、

「でも、僕たちは、中央政府ではないのですから、そういうことはできませんよ。どっちにしろ、僕たちは、国家の道具でしかないのですから。」

と、懍が現実的な意見を出したため、その主張はかすんでしまった。

「ああ、よくわからないが、俺が見た映画では、確かに阿弖流為役の俳優は、ほかの人より濃い顔の人だったなあ、、、。」

ブッチャーは、そうつぶやくしかできなかった。

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