第六章
第六章
翌日。黒いセダンが、杉三を迎えにやってきた。本当は、昨日の話し合いに参加した全員が、説得に行きたいと申し出たが、病院は重病人ばかりなので、大勢で押しかけられても困ってしまう、という沖田先生の意見により、代表として、杉三とジョチに行ってもらうことになったのである。ブッチャーは、それだけ血液疾患というものは難しいんだということを感じた。
「いいですか。説得したい気持ちはわかりますが、あまり大声で怒鳴るようなことはしないでくださいね。昨日ブッチャーさんも言っていましたが、血液の疾患というものは非常に難しいものですから、ご家族などから邪見に扱われることも少なくなく、こうして説得に来るということは、珍しいのです。」
ジョチが、とりあえず「病院のルール」を言ったが、杉三は黙ったままだった。蘭のような感情的な言い方ではないものの、内容は同じようなものである。
「わかってくれましたかね。」
まったく返答がないので、ジョチも不安になってしまった。
「理事長、杉ちゃんは一生懸命シナリオを考えているんです。彼の中で、彼なりに一生懸命頑張っているのですから、邪魔はしないようにしましょうね。」
いつも無口な小園さんが運転しながらそう発言した。小園さんが発言することはめったにないので、こういうときはよほど重大な場面であるといえる。そういうことだ、と思って、ジョチもそれ以上は注意しないことにした。
「つきましたよ。」
黒いセダンは、病院の入り口の前で止まった。杉三は小園さんに手伝ってもらって車から降ろしてもらい、ジョチは入り口で受け付けに来訪した理由などを伝えた。
「たぶんきっと、凄惨すぎて驚かれるかもしれません。それでもこれが現実だと思って、受け入れてくださいというほうがつらいほどです。」
沖田先生が、廊下を歩きながらそう解説する。たとえがないので、どれほどなのか想像はできないが、ジョチは相槌を打ちながら解説を聞いていた。杉三は、沖田先生の解説も耳に入っているのかいないのか不詳であるが、とにかく、黙っていた。
「ここです。よろしくお願いします。」
沖田先生に案内されたのは、一般的な病室であった。まさか入っている患者が飢餓状態のため、深刻な困難に陥っていることは、まったく知らせてくれなかった。
「磯野さん。」
沖田先生が病室のドアを開けた。
「今日は、大事な人に来てもらいました。どうしても、お会いしたいっていうから、無理をして、来てもらいましたよ。何か仰りたいことがあるようです。磯野さん、ではどうぞ。」
と言って、杉三とジョチは部屋に入らされた。部屋に入ってジョチも思わず目をそらしてしまう。ベッドで眠っているのは明らかに水穂さんなのだが、あまりにもやせ細っていて、45歳というよりも老人のような有様であった。こういう痩せ方は、日本ではほとんど見られないのではないかと思われた。たぶんきっと、天保の大飢饉のようなときでなければ、こういう人物はあり得ない話である。天保の大飢饉の真っ盛りの時に書かれた心中小説に出てくる美男子、それにそっくりだった。
「まったく。人間というものは、どうしてこんなにひどいところまで進行しても平気な顔していられるのですかね。水穂さん、そこまで悪化しても、美しいと思わせてしまうのは、あなたは、よほどの美形男子と言わざるを得ません。」
皮肉を込めてそう言ったが、実際は、皮肉という口調ではなかった。それより悲しかったのである。
ちょうどそのころ、病室の外では、ぱくちゃんが、今の出来事を目撃していた。実は、あのあと責任を感じて、頻繁に病室の前を通って、内容を立ち聞きしていたのである。くまさんにいくら注意をされても、やめられなかった。しかし、沖田先生は、心配してくれる仲間がいることはよいことだと言って、公式に認めてくれた。はじめのころは、謝りに行こうと思って、侵入する機会を狙っていたが、あんまりにも凄惨になっていき、これでは無理だと思うようになった。でも、その日はどうしても気になって、病室のドアをそっと開け、中を覗いた。
杉三は、水穂にそっと近づいた。水穂は、眠っていた。ぽたぽたと落っこちる点滴が時を告げていた。
「やい。」
話しかけても、返答はない。
「やい、こら。」
といっても返答はない。
「やい、こら、起きろ!」
しまいにはやくざの親分がするようなしゃべり方で怒鳴りだした。この三回目の問いかけでやっと目が覚めたらしく、力ない目が開いた。
「杉ちゃん。」
「うるさい!お前のやっていることは、裏切りだ。僕がやってたことを全部消し去って、自ら危ないところに飛び込もうとしているだけだ。何にもかっこいいことはないんだぞ!」
「もう、いいよ。杉ちゃん。」
「何が!」
「いいの。」
そっと微笑みかけるその顔は、ジョチにも真似できない美しさだった。ほとんどの人が、この顔を見ると、一瞬答えが何になるのか、わかってしまう気がする。
「馬鹿野郎!」
杉三は怒鳴った。
「馬鹿野郎!そんなこと言うなら、僕がなんでお前に半分分けたと思ってるんだよ!いいのだって?そんな馬鹿なセリフ、聞いたことないぞ。そんなセリフを聞くために、僕はお前に血液の半分を出したつもりは全くなかったが、お前がそういうセリフを言うのだったら、ここまで大損したのは初めてだ。いくら損害賠償しても足りないくらいだ!まさかと思うが、死ぬことを損害賠償とするなんて思うなよ!」
くまさんが、その爆音を聞きつけて、杉三を止めようと入ったが、いえ、たぶん彼にはああしてもらわないと聞きませんと、ジョチはそれを制した。杉三は、水穂の体に、たぶん歩けるのなら抱き着くような姿でのしかかった。それはまるで、覆いかぶさるような姿で、ある意味、汚い行為と言われる行為、金を稼ぐのに必要にもなる行為にそっくりな姿勢だったが、ジョチはそれを止めなかった。
「なあ、教えろよ。なんでまたここまで弱っちゃうまで、飯を食べなくなった?なんでまた、僕らを裏切るような真似をした?本当に、ハンストしようと思ったのか?というか、そもそも、ハンストするきっかけでもあった?」
「杉ちゃんごめん。」
やっとそれだけ答えを出すことができた。
「答えろ!」
杉三に怒鳴られてまた涙が出た。
「初めのころは、単に食べる気がしないと思っていた。でも、くちに入れると、ものすごい怖いから、どうしても飲み込めないんだよ。」
「そうですね。45年というのは長かったですね。それで当たり前の生活でしたから、いきなり解放されても、対応しきるのが難しいのでしょう。確かに、理論的には解放してくれるのかもしれません。でも、頭の中まで解放ということは、まだまだできないということですね。」
「ええ、それが、現代医学と言いますか、先進医療の一番の課題なのかもしれないです。昔の医療であれば、まだ、完全に治すということが不可能でしたから、ある程度心に寄り添うということもできました。でも、どこかで体のほうを治すことばかり重点が行き過ぎて、こういうことを、忘れてしまったんだと思います。現代の忘れ物ということでしょう。」
ジョチと沖田先生は、偉い人らしく、そういうことを語り合った。
「そうかそうか。でもな、お前に流れてんのは、既に僕の血だ。お前を散々苦しめてきた、ペスト菌なんて、どこにもないぞ!そのくらいわかるんじゃないのかよ!」
「そうだけど、思い出すんだよ。ラーメン食べたり、寿司を食べたり、そういうことが引き金になって、散々ひどい目にあったもの、、、。」
「記憶との勝負ですな。戦争の記憶もそうでした。人間は、命が危なくなりそうな記憶には、なかなか打ち勝つのは難しいのです。」
沖田先生がそういった。
「わかったよ。確かに古いものを出さなければ、新しいものは入らない。箪笥だって、葛籠だって、なんでもそうだ。そういうことだろうな。よし。じゃあ、始めようか。このどら焼き、誰にもらったか知らないが、これで始めるか!」
といって、杉三はベッドの横にあったテーブルに乗っていたどら焼きをとった。実はこれ、こっそりぱくちゃんが、くまさんに渡していたものである。
杉三はどら焼きの封を切り、中身を出して、小さく割ってやった。
「食えよ。」
と、水穂の口元までもっていく。
水穂もどら焼きを受け取ろうと口を開けるが、その前に莫大な恐怖がやってくる。
「食えよ!」
その前に恐怖でそれにこたえられない。それではだめだと思うけど、どうしてもできないのだった。衰弱した体では、逃げることもできないため、単に唸るということで抵抗するしかなかった。これを聞くとくまさんは、もうやめさせたほうがいいのではないかと思ったが、ジョチも沖田先生も続けるようにといった。
「食えよ!」
しまいには杉三のほうまで涙を流してしまうのであった。それでも、どうしてもどうしてもどうしてもこわくて、どら焼きは口に入らない。
「いいよ。お前がどら焼き完食するまで、離れないぞ。僕は、馬鹿だから、偉い先生みたいにさ、こういうときになんかきれいな詩でも口ずさんで、お前を慰めるなんてできないけどさ、少なくとも体だけはここにあるんだから、ずっとここにいてやるよ。そばにいてやるよ。それでいいだろ?それしかできないけど、お前がどら焼き完食するまで、ここにいてやるから!だって、そういうもんじゃないのかよ。半分血液お前にやって、はいさよならってだけじゃないと思うんだ。きっとな、もしかしたら、どっかでつながってるっていうかさ、そういうことじゃないのかな。なあ、もういいじゃないか。もうペスト菌なんて、どこにもないんだ。それをさ、頭の中に叩き込んで、お願いだから食えよ、どら焼き!」
「ごめん、、、。」
と、その時、ガチャンと音がして、病室のドアが開いた。
「あの、僕も手伝っていい!」
入ってきたのは、ぱくちゃんだった。
「僕が、水穂さんにどら焼きをやったから、、、。」
ジョチは、この人が日本語の文法を理解していないのだと気が付かなかったのか、
「どうも敬語の使い方が変ですね。あなた、ほとんど日本語を理解していないでしょう。それに、礼儀礼節もほとんどわかっていない。」
と指摘したが、
「いや、仲間は増えたほうがいい。お前も手伝え!」
どこから聞きつけたのか、杉三が怒鳴った。
「結構ですよ。鈴木さん。ただ、あなたも点滴が取れて間もないところですから、無理をしないように気を付けてください。」
沖田先生が「正式許可」をくれたので、ぱくちゃんは中に入らせてもらうことができた。
「こっち来い。」
ぱくちゃんは、杉三の指示に従った。
「水穂さんの体支えててやってくれ。唸りだしたら、力づくで止めろ。」
杉三の言い方は、確かにやくざの親分並みに強い言い回しであるが、日本語をあまり理解していないぱくちゃんには、かえってわかりやすいものだった。
「行くぞ、どら焼き。吐き出すのは絶対に許さんからな。しっかり食えよ。」
杉三は、もう一回どら焼きを水穂の唇に近づけた。水穂は、顔を逸らそうとするが、ぱくちゃんが抑えたため、それもできなかった。
「ほら!もうペスト菌はどこにもないんだよ!怖かったら、そこだけ、そこだけを考えろ!」
「そうなんですよ。僕たちは代わってやることはできません。あとは、あなたの強い意志で、乗り切らなければいけないんです。それを第一に考えなければ。」
ついにジョチまでがそういうことを言いだした。でも、このセリフはちょっときついかもしれなかった。
結局、第一回目は、どら焼きを口にすることはできたものの、吐き出してしまい、失敗に終わった。
「仕方ありません。ある意味彼には無理なこともあるのかもしれません。人間はそういうこともあるから。」
ジョチは、がっくりと落ち込んでいった。
この時は、そうなったとしても、しかたないと、ほかの人たちもがっくりと落ち込む。
「いや、あきらめてはいけないぞ。なんぼでも挑戦するんだ。よし、もう一回!」
杉三だけはあきらめず、改めてどら焼きを口元へ差し出す。ところが、人間というものは、不思議なもので、一度恐怖を味わうと、もう一度同じものに挑戦するのは極めて大変なものだった。これは、非常に難しいもので、それを克服するのは「エベレストに登るようなもの」という、表現がぴったりであった。
この時も、どら焼きは、何とか口にしてもらったが、今度は口に入れたのと吐瀉物が噴出したのとがほぼ同時だった。
「まるで、虐待事件と同じ情景のようですね。以前、僕は虐待により、餓死寸前まで追い詰められた少年と面会させていただいたことがありましたが、彼の話によりますと、食べ物を勝手に口にすると、母親に野球のバットで強打されたことを繰り返したそうです。あとで警察の関係者が、食べ物の写真を見せただけでも、嘔吐を繰り返していたと聞きました。それと、同じようなことを、水穂さんも体験しているのでしょう。」
ジョチがそう解説すると、
「うるさい、お前さんの赤旗思想を聞くために来たわけじゃないんだよ。三度目の正直だ。こんどこそ、ちゃんとどら焼きを飲み込んでくれ!頼むから!」
杉三が、負けないくらい、でかい声で怒鳴った。
「いいか、もう一回やれ。今度こそちゃんとやれ。今度吐き出したら許さんぞ。もう、今度吐き出したら、お前のことぶったたいてやる。」
「ちょっと、ひどいこと言わないでくださいよ。これはちょっとハードルが高いですから、少しハンディを付けたほうがいいですね。直接飲み込むのは、大変だと思いますから、これで流し込んでやります。」
杉三の決定に、くまさんがそっと言って、吸い飲みをもって彼の隣についた。
「まあ、、、確かにそうだな。ちょっとかわいそうだからな。よし、そうしてくれ。じゃあ、三度目の挑戦だ!今度こそやってくれよな。いいか、もう一回いうが、今度こそ失敗したら認めんぞ。お前のこと、本当にぶったたくからな!」
半ば脅迫するように言ったが、水穂が返答してくれたかどうかは不明であった。返答を待ってからのほうが良いのではないかと思うのだが、そんなことを聞く暇はなかった。
「食えよ!」
もう一回、どら焼きが目の前に突き出される。ところが、どら焼きどころか、どら焼きというよりも、剣を目の前に出されたように見える。まるでどら焼きのあんこの色が、まるで剣の鋼のように光った。もう、これでは万事休すだ!と覚悟を決めるなんてできるはずもなく、ただ、原爆の炎におびえて泣きはらす、という一般市民のように、パニックになって泣いて泣いて泣いて泣き叫び、もう人間というより、猛獣というほうがふさわしかった。
「もう、これはやめたほうがいいのかもしれませんな。」
沖田先生が、思わずそういってしまうほどであった。でも、そうなると、何が待っているのか、みんな知っていたから、文句は言えなかった。
「うるさーい!」
泣き叫ぶ声を切り裂くように杉三が怒鳴った。すごい音量であったので、一瞬全員、つまり泣き叫んでいた水穂さえも、動作が止まった。
「お前はな、お前の顔にはなんで目がついてるんだ。よく考えろ、それは、後ろについてるもんじゃないだろう。人間の目ってのはな、前しか見えるようにしかできてないんだよ。後ろなんか見たって何もならないってことを、教えるためにそうしたんじゃねえのかよ!違うのかよ!どうなんだよ!」
杉三の怒鳴り声は、最初こそ脅迫するような響きもあったが、そのうちに、それはなくなっていき、しまいには、なんだか悲しそうなそんな響きに変わった。きっとそのうち、杉三も、止められないということに、気が付いてきたのかもしれない。人間は、どうしてもだめなこともある。天災がその代表的なものだが、ほかにも人間が解決できないものは、いくらでもある。その解決策として、勉学というものがあり、科学とか、医学とか、そういうものを開発してきたのだが、そういうものだけではどうにもならないものは、まだまだ、まだまだあるのかもしれない。
「頼む、頼む、頼むよ、、、。そうしなきゃ、僕がお前に半分あげた意味が何にもなくなっちゃうじゃないかよ、、、。なあ、、、。食えよ、、、。食えよ、、、。頼むから、、、。食えよ!」
杉ちゃんこそ、だんだんに狂乱していって、猛獣と化していくように見えた。それでは、二人の狂人ということになってしまうのではないか、とくまさんも、ジョチも、不安になってしまう。
「痛え!指をかむな!」
いきなり杉三が怒鳴った。
「いまだ!」
思わずぱくちゃんも怒鳴る。
「口にいれましたね。」
ジョチもそうつぶやいた。
くまさんが、水穂の口に吸い飲みを無理やり押し込んで、水を流し込んだ。杉三が、指を彼の口から抜く。そこにどら焼きは、、、ついていなかった。
「飲み込んだ、、、。」
思わず、ぱくちゃんがそういう。
「やった、、、やった、やったぜえ!よくできました!よくできました!よくできました!百点満点。もう、ほかに言葉も何もないよ。」
杉三がまた、英雄の上に覆いかぶさって泣きはらすのを見て、沖田先生もジョチも、少しばかりため息をつき、
「かなわないですね、結局、彼でなければ、そういうことはできないでしょう。一見すると、脅迫のように見えるけど、それはきっと、愛情のほうが勝っているのだから、脅迫というより、一生懸命背中を押していたんだと思います。」
「ええ、ある意味、珍しいのではないでしょうか。ああして、愛情をもって接してくれる存在があるっていう人物は。それはきっと、容姿だとか階級だとか、社会的地位では、提供してはくれません。きっと、そういうことだと思います。それは、僕たちには、表現できない何か、なんだと思います。」
と、顔を見合わせて言った。
「その、な、に、か、って何だろう。」
ぱくちゃんは、素朴な疑問として、くまさんに静かに聞くと、
「いやいや、俺達にはまだこれからだよ。」
くまさんは、ある意味うらやましいと思いながら言った。
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