第五章 揺れる想い…真実と想いのはざまで…

「じゃあ、明日はお願い致します」

土曜日

森野さんや杉野チーフの宣言通り、前日の比じゃない程の客入りだった。

お客様が多い分、クレームやらなんやらと問題は次々と起こる訳で…。

その度にオタオタする私を、森野さんがフォローしてくれた。

明日、15:00以降に私と杉野チーフの2人になるのを不安に思っていると

「明日、森野君がお休みなら私、最後まで残りますよ」

パートの木月さんの言葉にホッと胸を撫で下ろす。

森野さんは杉野チーフに引継ぎをして、いつもより少し早めに仕事を上がった。

私は昨日聞いた小さな小さな歌声が忘れられなくて、でも、それを森野さんに聞く勇気が無かった。

ただ…聞こえた歌声は本当に小さくて、本当は何か呟いていたのを歌に聞こえたのかもしれない。

私は不安をかき消すように首を振った。




日曜日。

土曜日に買えなかったお客様にプラスして、日曜日に買い物を予定していたお客様が開店1時間前には既に列を作っていた。

一応、チラシには「開店時間前の店舗へ並ぶ行為はお断りいたします」と書いてあるにも関わらず…だ。

この時点で、仕入れた商品は完売になっている程の人の列。

店長と杉野チーフは話し合い、取り敢えず整理券を配ることにした。

近隣のご迷惑にならないように、開店してから再度ご来店頂くように促し、お店の入口には

「〇〇は整理券の段階で完売致しました」

と貼り紙をした。

ただ、杉野チーフは

「時間を守って来て下さるお客様に販売出来ないのが申し訳無い……」

と呟いていた。

その時、店長の店内放送が流れた。

杉野チーフが内線に出ると

「え!本当ですか?分かりました!すぐに用意します!」

明るい声になった杉野チーフを見ると

「森野君凄い!」

そう叫ぶと、ストック置き場の

「大きなキッチン」と書かれた女児玩具の箱の中に、今、まさに売り切れた商品が入っていた。

うちのお店は基本的にメーカーと直接取引をしている。

ただ、中には古くからの付き合いで仲卸業者さんとも取引をしていた。

人気アニメや特撮ヒーローの人気番組の玩具を一手に販売している某メーカーは、黙っていても売れる商品を扱っている為、仲卸業者さんに無理難題を押し付けると噂には聞いていた。

人気商品を売る代わりに、抱き合わせで売れ残りの何処も買い取らないような玩具を売りつけるのだ。

かと言って、そんなに大きくも無い卸業者さんは在庫を抱える訳にはいかない。

そういう商品を、森野さんな安く仕入れて販売していたのだ。

安く……とはいえ、相手に原価割れを起こすような値引きでは無く、ギリギリの値段で引き受ける。

その商品を自分で試し、楽しめる方法を見つけて売り場へ出す。

楽しい商品なら、知らないメーカーや玩具でも子供達は食いつく。

値段が安ければママの財布も緩む。

そうやって卸業者さんを助けているので、メーカーさんから限られた商品しか届かなかったり、製造が間に合わなくて数が足りない時に助けてもらえる。

「森野君に感謝だね」

杉野チーフはそう言いながら、店長と何やら打ち合わせをしていた。


10:00

お店がオープンになった。

まぁ、整理券を持っている人は来る筈も無く……。

そんな中、店長に連れられた方が数人現れた。

「杉ちゃん、オープンに合わせていらした方やから宜しく~」

と店長がヒラヒラと手を振って去って行った。

お客様は怪訝な顔で杉野チーフを見ている。

「本日は、オープンに合わせてご来店頂きありがとうございます。

 お待たせ致しました」

そう言って、1人1人のお客様に売り切れている筈の商品を手渡した。

お客様が驚いた顔をしていると

「キャンセルが出た分です」

と笑顔で続けると、商品を受け取るお客様がみんな笑顔になって帰って行った。

……でも、焼け石に水な事も分かっている。

買いたい人に対して、売れる商品の数は圧倒的に少ない。

ルールを守っている人にこそ、買って欲しいと売る側は思う。

ただ、実情はそんな綺麗事では済まない事も分かっている。

でも、ルールを破って早く並んで玩具を手にしたとして、それを見ている子供はどう思うのだろう?

欲しい物を手に入れる為なら、何をしても良いと思ってしまうのではないでしょうか?

此処で働き始めてから、驚く光景を目にする事が多い。

ただ、そうじゃないきちんとしたお客様もたくさんいらっしゃる。

実際、他所の子供さんが玩具の開封留めシールを剥がす為に箱を破っているのを見て、慌てて注意してくださる方もいらっしゃる。

だからこそ、きちんとしたお客様を大切にしたいと思うけど現実は厳しい。

又、きちんとしたお客様は、商品が売り切れても私達に絶対文句は言わない。

「売り切れたんだって……。残念だけど、他のしようか?

 ほら、あれを買わないから、これとこれが買えるよ~」

って、泣いている自分の子供をあやしている。

色々な場面に出くわし、本当に考えさせられる事が多い。

そして又、自分は目の前の良いお客様のようなお母さんになれるのか?と、自分に疑問を投げかける。

そんな事を考えていた閉店間際。

「ちょっと店員さん!」

明らかにヒステリックな声。

「はい」

必死に笑顔を作り振り返ると

「なんで〇〇が無いの!

 どこに行っても『売り切れ』って……。客を馬鹿にしてんの!」

そう叫ばれて

「申し訳ございません。

 人気がありますので、朝1番に売り切れてしまいました」

謝罪の言葉を口にした瞬間

「納得出来ない。本当は隠してるんじゃないの!」

激昂したお客様が、ストック置き場へ入ろうとするので

「すみません。ここから先は従業員以外は立ち入り禁止です」

慌ててお客様を制止する。

するとお客様は益々怒り出し

「退きなさいよ!そうやって隠すって事は、中にあるんでしょう!

 出せ!出しなさいよ!」

ドアの前に立ちはだかる私を、お客様は肩を掴んでドアへと叩き付ける。

私は頭をドアにぶつけながら、必死にお客様を止めていると

「お客様。それ以上騒ぐようでしたら警察を呼びますよ」

休みの筈の大好きな声に、私をドアに叩き付けていたお客様の手が止まる。

その隙を見て、声の主は私の前に立ちはだかった。

黒いスーツを着ていたけれど、後ろ姿で確信した。

森野さんの姿に気が緩み、涙がこぼれそうになる。

森野さんがお客様と話している間に、騒ぎを聞きつけた店長が飛んで来た。

「そんなに言うんやったら、見てもらえばええやん」

店長はそう言うと、お客様を連れてストック置き場から倉庫と案内した。

私はお客様が倉庫に行った瞬間、腰が抜けてしまう。

その瞬間、森野さんが私を抱き留めてくれた。

「大丈夫か?」

広い森野さんの腕に抱き留められて、益々腰が抜ける。

上手く立てないで居ると

「お前、少しは反抗しろよ」

と、森野さんは心配そうに言うと、杉野チーフが持って来てくれた椅子に座らせてくれた。

何となく森野さんから離れるのが名残り惜しい気持ちになりながら、椅子に座りホッと一息吐く。

すると突然、森野さんが私の後頭部に触れて

「大丈夫か?コブ、出来てないか?」

そう尋ねて来た。

「はは……はい、大丈夫です」

珍しく優しい森野さんにドキマギしていると

「これ以上馬鹿になったら大変だからな」

って言いながら笑っている。

「ちょ!これ以上ってどういう意味ですか!」

「そのままの意味ですが?」

「馬鹿って言った方が馬鹿なんですからね!」

「お前…小学生男子か…」

私と森野さんが言い争っていると、お客様が納得いかない顔して戻って来た。

「あれで全部です。隠して無いって分かって頂けました?」

関西訛りが混じった言葉で、店長がお客様に質問した。

「信じないから!絶対、隠してるのよ!」

そう捨て台詞を残して帰ろうとしたお客様に、森野さんが

「待ってください!こいつに何か無いんですか?」

って、怒った顔でそう言い出した。

「えっ!あの、私は大丈夫ですから……」

と慌てて言うと

「せやな。言い掛かり着けて、うちの社員を怪我させる所やったんやし…」

そう店長が私の言葉を遮った。

「はぁ?商品を置いてないあんたらが悪いんでしょう!」

そのお客様は吐き捨てるように言うと、子供の手を引いて帰ってしまった。

「おい!」

追い掛けようとする森野さんの腕を掴み

「もう、良いですから!」

私は必死に止めた。

「せやけど……ホンマに酷い客やったなぁ~」

溜息混じりに店長は呟くと

「で、何でお休みの森野君が此処におるの?」

ニヤニヤした顔で森野さんに呟いた。

「売り出し最終日なんで、気になって来ただけですよ」

顔色一つ変えず、森野さんが店長の言葉に答える。

その時、さっきは気付かなかったけど、森野さんの左薬指に指輪があるのに気が付いた。

明らかに古い物で、昨日今日の品物では無い。

その瞬間、私の心臓がバクバクと嫌な音を立て始めた。

「墓参りの帰りやろ?喪服が汚れるから、今日は帰った方がええ」

 店長の言葉に、私は弾かれたように森野さんを見た。

たしかに、黒いスーツに黒いネクタイをしている。

「早いなぁ~。もう、16年か……」

呟いた店長に、森野さんは視線だけでそれ以上の言葉を止めた。

店長は私を見て苦笑すると

「なぁ、もうええんやないか?」

ポツリと呟いた。

「充分苦しんで来たんやから、もう自分を解放したらどうや」

店長の言葉に、森野さんは無表情の顔のまま

「何年経とうが、俺の罪は消えない」

その一言だけ残して歩き出した。

「帰るんか?」

気遣う店長の声に、森野さんは振り返らずに

「制服に着替えて来るだけです」

とだけ答えて階段を降りて行った。

店長はやれやれ……という顔をして私を見ると

「まぁ、今年はあいつが正常で居られたんは、柊ちゃんのお陰かな??」

そう言って微笑んだ。

言葉の意味が分からないで居ると

「今日な……、森野君の高校時代の彼女の命日やねん。」

店長はポツリと呟くと

「詳しい事は言えへんけど、森野君の目の前で交通事故で亡くなったらしいんや。

目撃者はたくさんおって、明らかに事故やったらしいけどな……。

目の前の恋人を助けられへんかった事を、16年間ずっと責めて生きてるんや。」

そう続けた。

「なんで……その話を私に?」

思わず疑問を口にすると

「俺の勘やけど、森野君を救えるのは柊ちゃんのような気がしてな」

『俺の勘は当たるんやで』って付け加えながら店長が笑った。

「亡くなった彼女かて、まるで自分を戒めるように指輪をはめて生きてるあいつを 見たら悲しむで…」

ポツリと呟き、私の頭をポンポンって優しく叩いた。

森野さんの過去を少しだけ知り、心が傷んだ。

ずっと誰も受け入れず、誰も求めず1人で生きて来たんだろう。

だから、森野さんの瞳は何も映さないんだと知った。



 クリスマス・イブが明日となった休日。

相変わらずお客様の無茶苦茶な電話はあるものの、一時の酷い状況からはやっと脱した。

ずっと神経を張り詰めていたからか、やっと明日で全て楽になると思って気が抜けてしまったからなのか…。

今日は朝から体調が悪い。

そんな中、店内放送が鳴る。

『3F玩具売り場の方、3F玩具売り場の方。外線お願い致します』

丁度、電話の近くに居たので電話を取る。

「もしもし!」

電話の相手は既にキレ気味だ。

「はい、玩具売り場です。」

答えた私に、いつも売り出すと瞬時に売れる玩具名を言って来た。

「申し訳ございません。そちらの玩具は完売しております」

私の言葉を最後まで聞かず

「はぁ?メーカーに問い合わせたら完売。デパート行っても完売。

 だからあんたみたいなちんけな店に電話したんじゃない!

 あんたの所で隠してるんでしょう!」

何度目だろう。

うちのお店は他のお店より少し安めに商品を提供している。

だから、デパートや普通の玩具屋さんより先に売れていくのだ。

それなのに、なんでこんな言いがかりをつけるんだか…。

体調が悪い事もあり、私は溜息を吐いた。

「ちょっとあなた!馬鹿にしてるの!」

電話口のお客様の声が遠くに聞こえる。

その時

「おい、柊?」

森野さんの声が遠くに聞こえる。

受話器を持ったまま森野さんの顔を見た瞬間、私は意識を手放した。


 いけない…お客様と電話の途中だった。

必死に意識を取り戻そうと瞼を開けると、そこは病院のベットの上だった。

「あれ?」

思わず呟いた私に、店長の奥様が顔を出した。

「あ、気が付いた。大丈夫?」

事態が飲み込めずに店長の奥様を見ていると

「柊さん、お店で倒れたのよ。

 森野君が電話のお客様を杉野さんに任せて、此処まで運んでくれたの。

 ずっと電話ってうなされてたけど…大丈夫」

店長の奥様の言葉に、なんとなく事態を理解した。

どうやらお店で倒れて、私はお店の裏にある総合病院に運び込まれたらしい。

「熱、39℃以上あるのに…無理しちゃダメじゃない」

店長の奥様に言われて、そんなに熱があったのかとぼんやり考えていた。

手には点滴が刺さっていて、もうじき終わりそうになっている。

…という事は、一時間以上気を失ってたんだ…。

自分の不甲斐なさに泣きそうになる。

その時

「あ…気ぃついたんか?」

店長の、のんびりした声と穏やかな笑顔が見えた。

その瞬間、気が緩んで涙が溢れて来た。

「すみません。仕事中にご迷惑をかけて…」

必死に涙を隠すように両手で顔を覆うと、店長の奥様がハンカチを差し出してくれた。

「急性胃腸炎やて。まぁ、ほんまによう頑張ってたもんな」

店長の大きな手が私の頭を撫でる。

「でも…結局ご迷惑を掛けてしまいした」

泣きながら呟いた私に

「迷惑?誰も掛かってへんよ。

まぁ、強いて言えば、柊ちゃんを此処までお姫様抱っこで運んできた森野君が被害者かな?」

悪戯な笑みを浮かべて、店長がウインクしてそう答えた。

「森野さんが?」

「せやで。柊ちゃん抱えて、『店長!俺の大事な柊が倒れました!』ってな」

「誰が『俺の大事な』なんて言いました?」

私の言葉に店長が答えていると、地の底から這って来たような森野さんの声が聞こえる。

「あれ?森野君、お店は?」

「店長に戻って欲しいそうなので、俺が代わりに呼んで来いと言われて来たん

 です。

 ったく、俺が居ないからって、嘘八百並べないで下さい」

笑って誤魔化す店長に、森野さんが相変わらずの表情で答える。

「嘘八百やないで。

 森野君のあの慌て振り、そう思ってるように見えたんやけどな~」

店長はおどけたように言うと、椅子から立ち上がった。

「俺は!……二度と目の前で誰かの命が消えるのを見たくないだけです」

森野さんは吐き捨てるようにそう言うと、店長から視線を外した。

「せやな、せやな。まぁ、そう思ってた方が楽やもんな」

店長はそう言って森野さんの肩をポンっと軽く叩いた。

「でもな、どんなに表面取り繕うても、目は嘘吐けへんのやで」

意味深な言葉を言うと、店長は私に視線を戻して

「ごめんな~、柊ちゃん。

 ほんまは俺が送りたかったんやけど…、森野君で勘弁してな」

そう言って部屋を出て行った。

私はその瞬間、ガバっとベッドから飛び起きようとして、目眩で倒れ込む。

「お前…熱あるのに何してる訳?」

呆れた顔をしている森野さんに

「え!だって、送るって?」

動揺している私に

「安心しろ、園田さんも一緒だ。」

と森野さんが答えると、看護師さんが点滴を取りにやって来てしまった。

会計は既に店長の奥様が済ませていてくれて、車椅子で看護師さんにお店の車まで運ばれる。

「あの…一人で大丈夫です」

必死に訴える私に

「往生際が悪い!ほら、とっとと乗れ!」

森野さんがイライラした様子で私を後部座席に押し込んだ。

運転席に森野さんが乗ると、店長の奥様が助手席に座った。

その瞬間、相手は店長の奥様なのに胸がモヤモヤしている自分に驚いた。

お店から10分位の所にあるアパートに私の部屋がある。

森野さんは杉野チーフから私の私物を預かったらしく、アパートに着くと鞄を私に差し出した。

「ありがとうございました」

お礼を言って部屋に戻ろうとしたら、何故か二人まで上がり込んで来た。

「え!あの!部屋、散らかってるんで!」

言いながら、身体がフラフラしている私を森野さんは荷物を運ぶように肩に抱え込み

「こんな身体で、一人で何が出来るんだよ!」

そう言うと、ズカズカと部屋へ上がり込む。

(嫌~!)

恥ずかしさにジタバタしていると

「うるせえ!諦めろ!」

と私のお尻をパシっと叩き、ベッドへと下ろした。

私の部屋は玄関を入るとキッチンになっており、その先に和室が2間続いている。

その一室が私の寝室になっている。

「恥ずかしいから、早く向こうの部屋へ行ってください!」

森野さんを寝室から追い出そうと、親切に運んでくれた森野さんの背中をグイグイと押す。

「分かったよ、うるせぇな!」

そう言って森野さんが立ち上がった瞬間、森野さんの手に何かが触れて床に『ガシャーン』と音を立てて落ちた。

私はハッとしてその落ちた物を拾おうとした時、一瞬早く森野さんが落ちた物を拾った。

「これ…」

驚いた顔で見ている森野さんに

「返して下さい。私の命より大切な物なんです」

そう言ってゆっくりと立ち上がった。

「お前…何でこれを?…これ、ふじま あすみって書いてあるぞ」

茫然とした顔で尋ねる森野さんに

「私、両親が小学校上がる前に離婚して名字が変わったんです。」

そう言いながら、森野さんの手からCDを取り返す。

「え?」

私の言葉に、森野さんが驚いて私を見た。

「この歌声に出会った時、丁度両親が離婚で揉めていて…。

 親戚の家に預けられていたんです。

 本当は寂しくて悲しくて辛い状況だったけど、誰にも言えなかった。

 そんな私の心を、カケルさんの歌声が救ってくれたんです。

 カケルさんの歌があったから、両親が離婚しても頑張れた。

 母親に引き取られて、住み慣れた街から転居して、誰も知らない場所でも

 頑張れた。

 カケルさんの歌が無かったら、私は多分心が死んでたと思う」

私はこの世でたった一枚しか無いCDを抱き締めて

「だから、このCDは自分の命よりも大切な物なんです」

そう続けた。

すると森野さんは私から視線を外し

「分かったから、お前はさっさと寝てろよ」

そう言い残して部屋から出て行ってしまった。

私はCDをいつも置いているベッド横のサイドテーブルに戻し、パジャマに着替えてベッドの中へ戻った。

この時、私は熱のせいで気付いていなかった。

森野さんが聞いていたのは、何故あのCDが小さな女の子「藤間明日海」ちゃん宛てに送った筈なのに、私の手元に有るのかと聞いて来た事に…。

そして私がその時の少女だと知って動揺していた事を…。




 深い眠りに着いていたらしく、目が覚めた時は夜になっていた。

喉の渇きを感じて寝室を出ると、店長の奥様がキッチンに立っている。

奥様は私に気が付くと

「あ?喉が渇いたの?はい」

と経口補水液を渡して来た。

「え?まさかずっと居てくれたんですか?」

驚いて聞くと、店長の奥様は苦笑いして

「冷蔵庫、空っぽだったからお買い物に行ったりはしたけどね」

そう言うと、一人用の土鍋に火を付けた。

「まだ固形物は食べられないから…」

そう言って、店長の奥様は重湯を出してくれる。

「離乳食の予習しちゃった」

フフフって笑いながら言う店長の奥様につられて、私も笑顔になる。

一口口にした瞬間、心の中がじんわりと温かくなった。

「美味しいです」

思わず呟いた私に

「ええ~!ただの重湯だよ」

困ったように店長の奥様が笑う。

「私…小学校に上がる時に両親が離婚して、母一人子一人で生活していたんです。

 だから、体調を崩しても母が私の為に仕事を休むなんてしなかったので…。

 こうして誰かに料理を作ってもらたのは、小学校に上がる前までなんです」

重湯を噛み締めながら呟いた私に

「柊さん…苦労して来たんだね…」

ポツリと呟いた。

その言葉に私が目を丸くしていると

「そっか…。柊ちゃんは、苦労したって思ってなかったんだ。

 じゃあ、頑張ってたんだね」

店長の奥様が微笑んでそう言ってくれた。

私は何だか照れくさくて重湯をもう一口、口に含んだ。

すると部屋のインターフォンが鳴った。

「あ、亮君かな?」

店長の奥様は玄関へ向かいドアを開ける。

「あ、杉ちゃん」

「あの…柊さんの様子はどうですか?」

心配そうな声に店長の奥様は

「取り敢えず中に入れば?」

そう言うと、杉野チーフを中に招き入れた。

(えっと…ここは私の部屋だよね…)

苦笑してそう思っていると、杉野チーフが私の顔を見るなり抱き付いて来た。

「柊さん、大丈夫!ごめんね、体調悪いの全然気付いてあげられなくて」

今にも泣きそうな顔で杉野チーフが何度も謝る。

「そんな…私こそ、仕事に穴を空けてすみません」

そう答えると

「ううん。柊さん、本当に頑張ってくれたから大丈夫だよ。

取り敢えず、お医者様も2~3日は安静って言ってたみたいだし、ゆっくり休んで」

笑顔で言う杉野チーフに言われてしまった。

心配してくれている杉野チーフには悪いと思うけれど、3日も森野さんの顔を見られないのか…。

私はそう、ぼんやりと考えていた。

 三人で他愛のない話をしていると、しばらくして店長が奥様を迎えに来た。

杉野チーフも一緒に帰宅してしまい、にぎやかだった部屋が急に静かになる。

私が部屋に戻ると、携帯の音が鳴り響く。

誰だろう?と画面を見ると『森野さん』という表示で慌てて電話に出た。

「もしもし」

余りにも慌てて出たので、少し声が裏返る。

すると、電話の向こうで森野さんの笑う気配を感じた。

『元気そうだな』

低くて響く声に胸がドキドキと高鳴る。

「今日はありがとうございました。」

必死にお礼の言葉を絞り出すと、森野さんは

『別に…。それよりお前…』

そう言い掛けて

『三日間休むんだろう?こっちは気にしなくて良いから、ゆっくり休めよ』

と呟いた。

「なんか…森野さんが優しいの不気味です」

素直にお礼が言えなくて呟くと、森野さんは小さく笑っている気配にほっとする。

『あまり話してると疲れるだろうから、もう切るな』

ふいにそう言われて

「あの!」

と、思わず叫んだ。

『何?』

思わず叫んだものの、次の言葉が見つからない。

必死に言葉を探していると

『どうした?何もないなら切るぞ』

森野さんの言葉に

「森野さんからの電話、嬉しかったです」

必死に絞り出した言葉に赤面する。

(それって…好きって言ってるみたいじゃない!)

自分の言葉に真っ赤になっていると「ふ…」って笑い声が聞こえ

『バ~カ』

とだけ返事が返って来る。

『じゃあ、もう本当に切るな』

そう言われて切なくなる。

気持を必死に切り替えていると

『おやすみ』

と言う森野さんの声が聞こえた。

「え…!あ、はい!おやすみなさい…です!」

思わず動揺して叫ぶと

『うるせえよ、お前の声。ったく、病人なんだからさっさと寝ろよ』

と言うと、電話が切れてしまった。

『ツーツーツー』

電話の無機質な機械音に切なくなる。

電話が嬉しかった分、切れた後が物凄く寂しい。

今、聞いたばかりなのに、もう声が聴きたくなる。

どうしてこんなに好きになってしまったんだろう?

私はベッドに横になりながら、ドキドキと高鳴る胸を押える。

寝ようと目を閉じると『おやすみ』の声に目が冴える。

好きな人の何でもない言葉が、こんなに嬉しいなんて知らなかった。

「森野さんの馬鹿。三日間会えなのが、もっと切なくなっちゃったよ」

ポツリと呟いて布団を頭までかぶって目を閉じた。


 三日間の休みの間、店長の奥様が私の食事を作りに通ってくれてすっかり元気になった。

森野さんからは、あれ以来電話は来ることが無く…会いたさが募ってしまった。

毎日、毎日、出勤できる日を指折り数えていた。

4日目にやっと出勤すると、木月さんや他の売り場の人から物凄く心配したと声を掛けられた。

私はやっと森野さんに会えると売り場に小走りで向かう。

ストック置き場に着くと、森野さんがいつものように本店からの書類に目を通していた。

「おはようございます」

声を掛けると、森野さんがゆっくりと視線を私へと向ける。

「おはよう」

そう答えると、森野さんはいつものように視線を書類へと戻した。

「三日間、すみませんでした。それから…色々とありがとうございました。」

お辞儀した私に、森野さんは視線も向けずに

「嫌、気にしないで…。それより、売り場掃除…して来てくれる?」

いつも通りの態度だった。

(優しかったのはあの日だけか…)

がっかりした気持ちで売り場へ行き、掃除を始める。

でも…森野さんの態度はこの日からガラリと変わった。

「もう、一人で仕事出来るよな」

と言われて、私は半ば強制的に一人立ちさせられてしまう。

今までずっと、なんだかんだと世話を焼いてくれていたのに、私に距離を置くようになったのだ。

私はそれが辛くて…。

(何で?私…何かしたの?)

グルグルと毎日毎日悩んでいた。

森野さんに話しかけようとしても、その背中は私を拒否しているかのように見えた。

森野さんと会話をしなくなって一週間が経過した頃

「ねぇ、森野君と何かあった?」

杉野チーフに声を掛けられる。

「分からないんです。ただ、あの日から急に避けだして…」

落ち込んで答えた私に

「直接、森野君に聞いてみたら?」

杉野チーフの言葉に胸が痛くなる。

「嫌われたのかもしれないって悩んでるより、直接聞いて答えをもらったら?

言わない後悔より、言って後悔した方が良いよ」

杉野チーフはそう言うと、私の背中をそっと押す。

「この時間、森野君はいつもの場所で休憩取ってる筈だから」

そう言って杉野チーフは軽くウインクした。

(うじうじ悩む位なら…当たって砕けるしかない!)

覚悟を決めて、私は倉庫の屋上へと駆け上った。

その時、屋上から声が聞こえて来る。

誰かと話してるのかな?と、私は声が聞こえた場所からそっと階段を上るようにして屋上のドアをそっと開けた。

そこには、夕暮れに色が変わり始めた空を見上げて歌を唄う森野さんの姿があった。

私はその歌を聴いて足が震え始める。

(この声は…この歌は…)

聞き間違える筈が無い。

CDにも入っていないBlue moonの楽曲。

あの日、初めて心を鷲掴みにされたあの歌だった。

(何で?どうしてあの歌を…森野さんが歌ってるの?しかもこの声…歌い方は…)

愕然とする私の耳に

「もう…歌わないって決めたのにな…」

自嘲するような森野さんの声が聞こえる。

空に手を伸ばし

「なぁ…どうしてあいつなんだよ。どうして今更…。」

苦しそうに呟く森野さんの声が聞こえて来る。

私はその声に胸が苦しくなる。

気が付くと、自分の瞳から涙が溢れていた。

(やっぱり…森野さんがカケルさんだったんだ)

今となっては、別人であって欲しかったと思う。

カケルさんは…あのスポットライトの中に居るべき人。

私が幼心に惹かれたのは、あの神々しいまでの美しいオーラを纏った彼の姿と、

まるで神様から授かったような美しい歌声。

森野さんがカケルさんだとしたら…私の手の届かない人だと思い知らされた気持ちになった。

その時、やっと私は気が付いた。

あの日、私の部屋でCDを見た森野さんが動揺した理由わけを…。

漏れそうになる嗚咽を堪え、私は森野さんに気付かれないようにその場を後にした。

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