ピアノの恋人
青海 嶺 (あおうみ れい)
ピアノの恋人
北国の、さびれた港町の、人かげもまばらな通りの奥のほうに、そのさびれた酒場はありました。たいへん狭い店でしたが、カウンターの横の壁ぎわには、小さなステージが設えてありました。
そこには、古いベースと、ドラムセット、そして、古い古いアップライトピアノが置いてありました。といっても、この店で、週末ごとにジャズの音色が鳴り響いたのは、もうずいぶん昔の話です。店主であるバーテンダーのおじいさんも、最後のライブが何年前だったか、すぐには思い出せないほどです。
楽器たちも、ながらく、まともに音を出していないので、自分たちが楽器だということも忘れがちで、もともとただの置物だったような気すらしてくるのでした。
この港町に活気があった時代には、繁華街もにぎわっていて、この酒場も繁盛しました。週末には、ジャズの音と、客たちの笑い声が満ちあふれていたものです。
その当時のことを、時々思い出しては、古いピアノはため息をつきました。そんなとき、ピアノはきまって、あるピアノ弾きのことを思い浮かべるのです。その若いピアノ弾きは、遠い街から来たジャズバンドのピアノ奏者でした。ある週末、ジャズライブのために来店したのです。そのピアノ弾きは、無名でしたが見事な腕前でした。ピアノ自身でさえ、今まで聞いたことがないほどきれいな音色で、ジャズを奏でました。わたしって、こんな素敵な音色が出せたんだ、と、ピアノはびっくりし、そして、とても嬉しくなりました。
それまでピアノは、ベースやドラムから、高音はキンキン、低音はスカスカ、中音域は地味で薄っぺらと、さんざん悪口を言われていて、すっかりしょげていたのです。でも、その時ピアノは初めて知りました。上手な人が弾けば、わたしはこんなにきれいな音が出せるんだ、と。そして今ならコンサートホールの立派なグランドピアノにだって負けない気がしました。
そればかりではありません。その若いピアノ弾きは、このピアノをとても気に入ってくれて、閉店時間が過ぎてお客さんがいなくなってから、そのピアノで、シューマンのトロイメライを弾いたのでした。
ピアノは、この有名な曲を、何度も奏でたことはありましたが、こんなにもうっとりと夢見るように奏でたのは、生まれて初めてのことだったのです。
その日以来、ピアノは、暇さえあればあのピアノ弾きのことを思い出しては、ため息をつき、ベースとドラムから、恋わずらいだな、と、からかわれていたのでした。
ピアノは、あのピアノ弾きがまた来てくれることを、ずっと待っていました。でも、再び出会うことのないうちに、街は次第にさびれ、店も暇になり、週末のジャズライブも、とうとう立ち消えになりました。
それから、どれほどの月日がたったことでしょう。ピアノは、ずいぶん長いこと、あの日のピアノ弾きとの再会を夢見て暮らしておりましたが、やがて、それすらも忘れてしまいました。ほかの楽器たちにしても、ジャズ独特のスウィング感はおろか、そもそも音の出し方だって、すっかり忘れてしまったほどでした。
店主のおじいさんは、もう歳を取って、すっかり疲れてしまって、店を閉めることにしました。そして、ともだちや、昔よく来てくれた常連のお客さんに、閉店を知らせるハガキを出しました。
しばらくすると別れを惜しむ人たちが、チラホラと店を訪ねて来るようになりました。店主は、酒場の最後の数日を、思い出話に花を咲かせて過ごしたのです。
ある日、初老の男が、店を訪ねてきました。男は、ピアノの蓋を開け、いくつか音を鳴らして、そして悲しそうな顔をしました。ピアノは、その人が、あの時のピアノ弾きだと気づきました。
ピアノ弾きは、店主のおじいさんと話しました。店主が、楽器はすべて処分するつもりだと言うと、ピアノを引き取りたい、と申し出ました。そうしてピアノは、そのピアノ弾きの家へと引っ越すことになったのです。
ピアノは、ピアノ弾きの家の居間の壁際に置かれました。ピアノ弾きは、自分で、その古いピアノを調律しました。ピアノは、調律をされて、あの、年中素敵な音楽を奏でていた頃の声を取り戻し、すっかり若返った気がしました。調律が終わると、ピアノ弾きは、そっと鍵盤を端から端まで撫でました。
「長いこと、待たせてしまったね」
そういうと、ピアノ弾きは、シューマンのトロイメライを弾きました。
(終)
ピアノの恋人 青海 嶺 (あおうみ れい) @aoumirei
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