第163話

 オレとマチルダが転移した先は自宅の中でも今の時間帯、家族が居合わせる可能性の最も低い風呂場だった。


 案の定、昼前のこの時間には誰も中に居らず、無事に一時避難に成功。

 衣服を身に付けているわけではないマチルダを風呂場に残し、母を呼びにいく。

 母は、急に風呂場から現れたオレに珍しく目を丸くしていたが、簡単に事情を話すと途端にいつもの冷静さを取り戻し、妻か義姉のものらしき下着や衣服を持って、風呂場へと入っていった。


 オレが建てた家や、実家に飛ばなかった理由は実に単純なものだ。

 万が一にもバンパイアが追跡してくる可能性を、完全に無くすためだった。

 どのダンジョンからも優に3Km離れている、この別荘地には、現状のではモンスターの侵入自体が不可能らしいからだ。

 そもそも、守護者を務めるモンスターがスタンピード時以外にダンジョンの外に出られるとも思えないのだが、念には念を入れるべきだろう。

 魔力の消費を考えれば近場で済ますのもアリかもしれないが、今のオレの魔力量から考えれば微々たる差異でしかない。


 当たり前といえば当たり前だが、急に風呂場から出てきたオレを見て驚いていたのは母だけではなかった。

 しばらく、父や義姉、それから上の甥っ子にまで質問攻めにされたが、戻ってきた母の取り成しと、母に連れられてその場に現れた憔悴しきったマチルダの姿を見たこともあって、どうにか必要以上に時間を取られずに済んだ。


 すぐにでも、ダンジョンに戻って完全に後顧の憂いを断つべきなのだろうが、その前にやるべきことがある。


 まずは【調剤】だ。

 あのスタンピード時に戦利品として得たスキルブックに籠められていた【調剤】スキルは、これまでもオレが合間を縫って地道に育てて来たスキルなのだが、そのスキル効果のおかげで作成レシピ自体は判明しているのに、材料が入手出来なかったため、これまで作れていなかったポーションが有る。


 それこそが『造血ポーション』だ。


 材料は……よもぎ、行者にんにく、ふきのとう、クマザサなどの野草類か、昆布、ふのり、ヒジキなどの海藻類、または舞茸、山伏茸、松茸などのキノコ類のうち、いずれか2種。

 魔石を磨り潰したもの。

 塩。

 純水または蒸留水。

 このうち、野草類やキノコは自生しているものや、ド田舎ダンジョンで手に入る物が多かったし、塩や海藻類、純水、蒸留水などは、世の中がなってすぐにスーパーやドラッグストアで入手した物が、まだ大量に手元にある。

 魔石は、今のオレの握力なら簡単に粉砕出来るし、粉末化さえり鉢を用いれば容易だ。

 欲を言えば、ちゃんとした乳鉢が欲しいところだが、今のところは普通の擂り鉢で間に合わせておく。


 大半の材料は、このように何回でも用意が可能なものだったのだが、肝心要の材料であるにも関わらず、これまで入手方法そのものが不明だったものがある。

 それこそが『天使の羽毛』という特殊な素材アイテムで、今までは何かの暗喩だとさえ思っていた代物だ。

 ダンジョンでしか入手できない薬草のようなものを想像していたのだが、蓋を開けてみれば何のこともない、第8層で膨大な数を屠った下位の天使のレアドロップだった。

 レアドロップなだけのことはあって、今日のダンジョンアタックで得られた『天使の羽毛』は全部で8つのみ。

 その全てを『造血ポーション』作成に費やす。

 そのうち5つを母に託し、マチルダの様子を見ながら与えて貰うことにした。

 残りの3つはバンパイア戦に備えて携行する。


 さて……次にすべきは、いわゆるレベル上げだ。

 もちろん、数値化されたレベルやステータスなどというものは存在しないのだが、敵を倒すことで強くなれるのは、これまでのオレの成長や戦果が何よりの証拠と言えるかもしれない。

 短時間の会話に過ぎなかったが、その中で垣間見えたバンパイアの性格からすると、低層のモンスターを、わざわざリポップさせることは無いだろう。

 低層のモンスターは、階層ボスのギガントビートルやデスサイズなどでさえ、第8層の雑魚モンスターには明らかに劣る強さしか持たない。

 他者を見下す傾向の強いあの腐れ吸血鬼なら、量よりも質を選ぶだろうことは火を見るよりも明らかだ。

 癇癪を起こしてスタンピードを発動されないとも限らないが、恐らくは魔素を温存して自分の位階を高めたい欲求と、万が一にもオレに自分が敗れる恐怖とが相まって、第8層の守りのみを厚くし、ローコストかつハイパフォーマンスな取り巻きモンスターを増やすことあたりに腐心していそうな気がする。


 ヤツの誤算を狙うとすれば、ここが肝心だ。


 どの段階から観察されていたかは分からないが、あのバンパイアはオレの大まかな強さを把握しているらしかった。

 間一髪、オレがマチルダを救いに駆け付けた時に……


『ふむ……まさか、コレが息絶える前に貴様がここに来るとはな』


 ……などと言っていたことからも、それは明らかだろう。


 ヤツの目論見と違ってマチルダが死ぬ前にオレが到達できた最大の理由……それこそが【存在強奪】による常識はずれなオレの成長速度だった。

 今さら他のダンジョンでチンタラ戦ってみても、バンパイアとオレとの間にある力の差は容易には埋まるまい。

 そう判断したオレは、マチルダのことを母に託すと、すぐさま無理ゲーダンジョン第8層のスタート地点へと繋がる扉の前に【転移魔法】で飛び、攻略を再開した。


 ◆


 出掛ける直前、義姉が急いで握ってくれた少し塩味の薄いお握りを咀嚼し飲み下しながら、オレは呆れることになる。


 ……腐れ吸血鬼は、どうやらオレの想像した以上にビビりだったようだ。


 先ほど訪れた際に立ち塞がった敵に倍する数のモンスターが、酷く雄弁にそれを物語っていた。

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