第7話 黄昏時に

 そう言って手渡してきた物には綺麗な包み紙で丁寧にラッピングされていた。


 「まあなんだ、私からの引っ越し祝いってやつかな」


 照れ臭そうに笑うおばさんの顔は、夕日に照らされて紅潮して見えた。いつも私に見せてくれる元気で優しい笑顔。その笑顔にどれだけ励まされたか。


 とたんにおばさんの顔は滲んで見えなくなった。私の頬を生温かな水滴が伝って落ちる。拭いても拭いても視界を遮るもやは消えてくれない。


 こんなはずじゃなかった。もう大丈夫だからさっさと帰れくらい言ってやるつもりだったのに。


 こんな弱々しい姿を見せたら、いつもの調子で「こずえちゃんは泣き虫だなぁ」なんて言ってからかってくれるだろうか。


 ああ、駄目だ。これじゃあまたおばさんを心配させてしまう。いつまでも甘えてはいられないんだから。耐えろ、耐えろ、私。


 溢れだす何かをぐっと堪え、俯いたまま目を閉じる。



 その時、私の全身が温もりに包まれた。


 背中に感じる両腕の感触、お日さまの匂い。


胸はめぐさんよりも小さなはずなのに、おばさんの胸の中はとても温かくて、安心する。おばさんの心音が全身を通って伝わって来る。


 「頑張らなくてもいいんだよ」


 おばさんが言ったのはただそれだけだった。そっと耳元で囁かれたその言葉に、私の中で固まっていた何かが融けていく。それと同時に私の中の抑えていたものも一気に溢れだしていた。


 「おばさん、ずるいよ……」


 「うん、知ってる」


 そう、おばさんは全部知っている。私が涙もろいことも、強がりなことも、そして人一倍寂しがりやなことも。



 誰も居ない部屋、冷えたご飯。ラップに包まれた夕食をレンジで温める。テレビの音を聞きながら食べるそれは、どれだけの時間をかけて温めようとも、相変わらず冷たいままだった。


 母は仕事のために、滅多に家には帰って来なかった。用意された夕食でさえ、家政婦さんが作り置いてくれたものだ。


 妹は寮に入っている。悪魔もとい姉は同居しているが、幾分特殊な人なので家に居ることは少ない。


 こんな状態でも、世間的には三人暮らしと定義されるのだろうが、私にとっては一人暮らしも同然だった。


 周囲には幾度となく心配されたが、そんな時はいつも「みんな頑張ってるんだから、仕方ないよ。私は一人のほうが楽だし」なんて言い繕っていた。本音は漏らさず、涙はみせずに。


 ある日、母親がまた海外に勤務先を移すという報告が入った。そう、報告、事後報告。相談などあるはずもない。母親からの電話自体が久しぶりのことだった。決断に至った経緯を話すでもなく、不躾に言い渡された話。


 だがこの時、私はチャンスだと思った。


 電話口に向かって一方的に言い放つ。


「私、一人暮らしするから」


 いま思えば私もかなり自暴自棄になっていたから、半ば衝動的に言ってしまった感がある。一人暮らしのことは以前から少し考えてはいたが、自分でもまさか直接母親に伝えることになるとは思ってもみなかった。


 ただ、ますます私から離れていく母親が、何故だか無性に許せなかったのだ。


 母親からの返事は聞かなかった。受話器を元に戻す。


 もしこのまま電話を続けていれば、勝手に全部決めた母親はどんな風に私を諭したのだろうか。散々独りにしておいて、今更何も言われる筋合いなんてない。


 そして私は勢いそのままに、淡々と引っ越しの準備を始めた。半分は意地だったんだと思う。そんな私の様子も、ずっとおばさんは見ていてくれた。いつもの呆れ顔で微笑みながら。



 柔軟剤の匂いがする。うちで使ってたやつと同じ匂いだ。だからかな、何だか懐かしい気がする。


 こんなに優しくされたら、また私はおばさんに甘えてしまうことも分かっているくせに。おばさんは本当にずるい。


 私は一人で生きるって自分で決めたんだ。そこは曲げたくない。母親を見返す為とかじゃなく、ただ今まで見守ってくれていたおばさんに胸を張れるような私になるために。


 でも、もう誰かが私から離れていくのはいやだな。やっぱり一人は怖いよ。しばらく会えなくなってしまうのなら、もうちょっとだけ、甘えてもいいかな。


 体の隙間からのぞく夕日は、対岸の山に隠れようとしている。

 例えばあの太陽が、このままずっと沈まなければいいのに。


 名残惜しさを感じつつ、私たちは渥池島の夜に包まれていった。

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