第4話 砂浜競争

 当初の目的をやっと思い出し、はっとして帽子のつばを持ち上げると、林の隙間から白い反射光が目に飛びこんできた。


 それは間違いなく探しにさがした、念願の白い砂浜だった。


 先ほどまでの感傷に浸っていた私はどこへやら、ベンチから勢いよく立ち上がり林の中を駆け抜ける。そして私は一段と強い光の中に飛び込んでいった。

遮蔽物のない太陽光に一瞬目がくらむ。そして次の瞬間には目の前は真っ青に染まった。


 視界の端から端まですべてが海で埋め尽くされたのだ。


 空と海の境界が分からなくなるほど澄んだ青が波打ち際では白砂を飲み込んでは吐き出しを繰り返している。


 海岸線はカーブを描くように続いていて、遠くの方に目をやると海の家らしきものも見える。おそらくあそこが正真正銘の海水浴場だろう。ここはいわばその端切れみたいなものだ。でもいまの私にそんな些細なことはどうでもよかった。むしろ私にとっては好都合。


 雲の漂う青い空も、白波がたつ青い海も、このきらきら光る砂浜も今見える景色全部、この瞬間だけは私の独り占めだ。

 

 まるでこの世界を手中に納めたかのような優越感と万能感。すべては私の手の中に。今ならどんな大それたことでもできる気がする。だってこの世界は私のものなのだから。


 私は海に向かって両手を大きく広げた。


「今の見たか、あのねえちゃん森から飛び出してきたで」


「変な帽子被ってお祈りしとるな」「魔女や魔女や!」


 前言撤回。地元の小学生たちだろう。みんな半袖短パンで、一人は虫取り網を持っている。


 この時、私の顔がゆでだこよりも真っ赤に染めあがったのは言うまでもない。この広げた両手をどうしてくれるんだ。


 恥ずかしさのあまり小学生の方を向くことができなかった。

 だがそれっきり小学生の会話はなく、あまりに静かだったのでもう行ってしまったのかと視線を向けると、小学生たちは立ち止ったまま、吹き出すのを堪えるような表情でこちらの様子を伺っていた。


 最近の子供は勘が良すぎる。勘のいい子は嫌いだよ。


 私は恥ずかしいやら悔し何やらでやらで訳も分からず真っ赤な顔のまま走り出した。

 

「うわー魔女が追いかけてくるでー。逃げろー」


 追いかけられているにも関わらず小学生たちは満面の笑みでこちらを振り返りながら余裕そうな様子だ。


 一方の私も必死に追いかけるがなかなか追いつけない。それどころか数メートルも走っていないのにもう息が切れる始末だ。日頃の運動不足を痛感させられる。それにこのぶかぶか帽子が風で飛んでいきそうになるのを押さえながら走るので物凄く走りにくい。


 別に捕まえて縛りあげてやろうなんて気持ちはさらさらないが、この恥ずかしさを紛らわすにはとにかく走る以外考えられなかった。


 しばらく追いかけっこを強いられて砂浜で足がもつれながらも辛うじて、だんだん小さくなる小学生の背中を追っていると、視界の端に見覚えのある姿をとらえた。


 それは道中で出会ったあのヒッチハイカーだった。波打ち際に立ち、横顔しか見えなかったがその視線の先は真っすぐ対岸の島の方に向かっている。


 髪こそ乱れてはいたが、その姿には道の真ん中で情けなく転がっている男の影はなく、背中に芯が通っているかのような凛とした立ち姿があまりに絵になっていたものだから、私は足を止めて見とれてしまった。


 彼の周りだけ、背景の色が鮮明に輝いているかのよう。身動き一つせず目先の一点を見つめる様子に、私は彼がただ景色を楽しんでいるだけのようには見えなかった。


 いま、その真剣な青い瞳には何が映っているのだろう。 


 引き寄せられるように彼に近づき、先ほどの茂みで話しかけられなかった分、今度こそと声をかけようとした瞬間。


「おーい、魔女のねえちゃーん」


 その恐らく、いや間違いなく私を呼ぶ声に男も我に返ったのか、こちらを振り向く素振りをしたので、私は思わず顔を背けてしまった。


 そのまま男と目が合っていれば、話の一つや二つはできたかもしれない。でもその場合、私は「魔女のねえちゃん」として会話しなければならないのだ。そんなの耐えられるか。 


 仕方ない。彼との会話は諦めよう。すべてはあの悪童たちのせいだ。


 そう思って見ると、小学生たちはすでに一番端の防波堤についていた。だがあの防波堤、結構な高さのある防波堤で足をかけるような場所もなく、大人でも登るのは至難の業だ。だから小学生の身長ならなおさら無理。つまり行き止まりだ。


 しめしめと今度は私が余裕綽々で小学生たちとの距離を縮めていく。


 やっと追い詰めた。さあどうしてくれようかと考えていると、小学生たちは防波堤の海側に突き出したかなり細い道に回り込んだ。そして姿が見えなくなった数秒後、なんと防波堤の上にいたのだ。


 登れる場所あったんかい。


 笑いながら去っていく少年たちの後ろ姿を見送る。 


さすがに疲れてもう追う体力は残ってない。そして今の一撃で完全に気力も失ってしまった。


 へなへなと砂浜に膝をつき、もう小学生の姿も見えなくなった防波堤をじっと見つめる。空には切れ切れになった雲が風に運ばれるようにしてたなびいていた。


 こんなに綺麗で素敵な場所で、ついて早々小学生たちと鬼ごっこ、いや魔女ごっこをする私。そして砂浜に倒れこんだぶかぶかのカラフル帽子を被る私。


 正気に戻り、今までの自分の行動や姿を顧みてみて、どれだけ滑稽なことをしていたかに気づくと、たがが外れたかのように笑いが込み上げてきた。


「ぷっ、あははは」


 なんとか自分で笑いをおさえようとするが、止められない止まらない。懸命に走ったせいでお腹にも足にも力が入らないからうまく笑いを堪えることもできず、抱腹絶倒、ただ自然に笑いが治まるのを待つばかり。


 こんなに走ったのはいつぶりだったかな。学校の体育でもまともに走ったことはなかったが、それにしては良く走れた方だ。


 こんなに笑ったのはいつぶりだったかな。学校でも家でも話す機会は数少ないし、あまり表情も感情も表に出すのは得意でない私はいつも仏頂面を決め込んでいた。だからこんなに自然に恥ずかしがって、自然に笑えている自分に正直びっくりしている。


 でもこんなに笑いのツボが浅いなんて、私は案外簡単なやつなのかもしれない。


 こんな私でも小さい頃は今のように無邪気に笑っている時があった。ちょうどさっきの小学生たちくらいの歳の頃だ。男の子みたいに落ち着きがなくて、よく家の壁にクーピーで落書きして母にこっぴどく叱られていたっけ。そんな小さな私が最後に泣いたのは父が亡くなった日。だからきっと最後に笑ったのはその前日だ。


 一度入ってしまった笑いのつぼは一向に止まないまま、砂浜を笑い転げる。

 暫く経って、ようやく抜け出すことに成功すると、目に溜まった涙を拭いて立ち上がった。


「おーい、こずえちゃーん」  


 名前の呼ぶ声に振り返ると、防波堤の上にはこちらに向かって手を振っている女性のシルエットが浮かんでいた。それに応えるように私も手を振り返す。


 ふいに吹いた海風がおばさんの黒髪を優しくなびかせ、それを片手で抑える姿は空の背景も相まってまるで女優さんのようだ。


 防波堤に向かって走る途中、飛びそうになる帽子を押さえたところであのヒッチハイカーの男のことを思い出し、砂浜を見回してみる。しかし、すでに彼の姿はそこにはなかった。


 この帽子、返しそびれちゃったな。


 「いやーごめんごめん。車の中で待ってると思ってたけどまさかカギかけたままだったなんてね」


 そう言っておばさんは頭を掻きながら駆け寄る私を待っていたが、だんだん近づいていくにつれて、おばさんの顔が少しづつ怪訝になっていくのが分かった。


「……こずえちゃん、その格好のどこからツッコめばいいのかな」


 おばさんは私と同じく東京生まれだが、高校を卒業したと同時に大阪に引っ越したと聞いている。だからおばさんならば今の私の格好にも鋭くツッコミを入れるだけの技量を持っていると踏んでいたのだが、さすがのおばさんも面食らってしまったようだった。


 改めて自分の格好を確認してみると、ワンピースの所々が少し破けたり、ほつれたりしていた。おそらくあの細道を通った時に枝などで引っかけてしまったのだろう。


 しかしおばさんを一番驚かせたのは言うまでもなく、ワンピースには似つかわしくもないアメリカ帽子だ。おばさんの視線は私が来たときからこの帽子に釘付けになっていたからすぐに分かった。


 さてどうしたものか、本当なら私のここに至るまでのあらすじをおばさんに話すべきところではあるが、先ほど車から締め出された件もある。それにいままでおばさんに散々弄ばれた分のお礼もいつかしなくちゃいけないとは思っていたのだ。そして今がお返しをする絶好のチャンスではないだろうか。だとしたらなんとしてもおばさんの悔しがった顔をこの目に収めたい。


 私はわざとらしくゆっくり帽子を脱ぐと、おばさんの視線を遮るように脱いだ帽子を背中の後ろに隠した。


 その意図をすぐに察したおばさんは、不機嫌そうな顔をする。作戦成功か。

 

 だが私がニタニタと表情を覗きこんでいるのに気づくと、すぐにいつもの私をからかう目に戻ってしまった。

 やはりおばさんから一本取るのは難しいこと相手をからかうことに関しては経験も技術もおばさんの方が格上だ。何せおばさんは日頃からかい慣れているからな。ちなみに相手はもちろん私である。

 だが今日は私にも勝機がある。この手にしたチャンスと帽子を無駄にする訳にはいかない。 


「ねえ、何か良いことでもあった?」


おばさんからのカウンター。


「別にー?」


それをいなすように私も必死の猛攻。


 こんな感じで押し問答の揚げ足取り合戦はしばらく続き、結局どちらも譲らないまま、私たちはその防波堤を後にした。


「やっぱり何か良いことあったんでしょ」


「なんにもないですよー」

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