第3話 木漏れ日
茂みの中は本当に人ひとりくらいしか通る隙間はなく、這って進むのが精いっぱいだった。だがこうして道が続いているところから察するにおそらく獣道にもなっているのだろう。つい先ほど一人の獣が通ってくれていたおかげで多少進みやすくはなっていた。そういえばあの男は私より一、二回りも大きいはずなのにここを通り切ったのか。
枝に引っ掛かりながらも懸命に獣道を這い進む男の姿を想像すると笑いが込み上げてくる。
顔に次々と覆いかぶさる枝葉をかき分けかき分け、絡まる蜘蛛の巣と格闘しながら進んでいると、何だか私まで動物になったみたいだ。
そういえばいつだったか連れて行ってもらった動物園の生き物たちはこんなに活発には動いていなかったな。だとしたら今の私は動物園の動物よりもよっぽど動物らしい。
日の光が急に強くなったのを感じてふと顔をあげると、狭っ苦しい細道から一転、少し木々の拓けた場所が現れた。
「すっご……」
私は次の瞬間、思わず息をのんだ。
360度林に囲まれたその場所は、半径10メートルくらいがまるで人の手が加えられたかのように草木が生えておらず、黄土色の土が顔をだしている。頭上から差し込む木漏れ日は周囲の薄暗さもあってか一層際立って明るく、日の光を浴びて濃淡あざやかな緑や茶色の枝葉が風になびく動きに合わせるように、光の筋たちはゆらゆらと揺れながらその場所を照らし出していた。
見上げた先の幾重にも重なった枝や葉の間をすり抜けるように漏れ出す陽光が眩しい。手で遮った隙間から覗くクヌギやモミジの葉脈の一本まで見えそうな透き通った陽射しはずっと見つめていると今にも吸い込まれそうだ。
私はどこか別の世界に迷い込んでしまったのではないかと思った。そのくらい、いま目の前に見える景色は幻想的で、自然の中に自分も融けていってしまいそうなほど純粋で透明な美しさだったのだ。
そうだ、私がキャンバスに描きたかったのはこういう景色だ。
私はその光景に圧倒され、しばらく棒立ちのまま立ち尽くしていた。
ふと我に返り改めて周囲を見回してみると、大きな木の木陰に隠れるようにしてベンチがぽつんと置かれているのが見えた。
近づいてみると、かなり以前に設置されたものらしくツタやコケが全体に張り付いていて、こんな雨風があたるところに置かれていたせいでボルトはさびさびで木材も半分腐っている状態だった。
でもそんな朽ちかけのベンチだからこそ、この空間に自然になじめている気がする。
しかしせっかくベンチがあるのに、その役割を果たせないというのも不憫な話だ。
「……よっこらせっと」
私は背もたれに手をついて体を支えると、ベンチにゆっくりと腰をおろした。
この時にはもう私の頭には汚れるだとかそういう考えは一切浮かんではこなかった。
なるべく体重はかけないように慎重に座ると少し軋むような音がしたが、ベンチは思ったよりも安定していた。心なしかお尻が冷たい。
ふと、手を置いたところに違和感を感じ、目を向けるとベンチにはコケに覆われてよく見えないが何やら文字のようなものが書いてある。
気になって邪魔なコケたちを取り除くと、そこから相合傘が現れた。小学生なんかがからかって男女の名前を書くあれだ。だがこの場合、大方カップルがデートついでに訪れて愛の証だかなんだか知らないが自分たちの名前をベンチに刻んでいったのだろう。
気になったわけでもなく、ただなんとなく相合傘に書かれている名前を見てみる。
アレックス……外国人かな。それともう片方は……かえで。どこかで聞いたことがある名前だけれど多分気のせいだ。同名の人なんて星の数ほどいる。たとえ知っていたとしても私には心底関係ないことだし。
そうして視線を戻そうとした時、ベンチの隙間からなにやらカラフルな色が覗いているのが見えた。赤、白、青。それに特徴的なストライプと星のマーク。間違いない、アメリカ国旗だ。
私はそれに見覚えがある。
手を伸ばして拾い上げると、やはりそれはあのヒッチハイカーの男が被っていた帽子だった。
これがベンチ裏に落ちているということはあの男もこの場所を訪れたということだ。全く同じ帽子がたまたまここに落ちていたということも考えられなくはないが、東京でも見たことないような派手な帽子を同じ地域で二度も見かけるなんて考えにくい。というかもしそうだったらこの地域の人の帽子のチョイスはどうかしている。
でもそうなるとさっきのお尻の正体はあの男の人だったのか。いったい彼は何者なのか、謎はますます深まるばかりだ。
ヒッチハイカーのお尻を不本意ながらも思い出しながら、改めてまじまじとその帽子を見ると、ところどころに色が剥げているところや刺繍がほどけているところもあって、よく使い古されているのが分かる。
それにしてもこんな派手な帽子どこで買ったのだろう。私だったらお店に置いてあったとしても、まず手には取らないような男物のキャップ。やっぱり外国人は独特のセンスを持っているのだろうか。
物珍しさに目を丸くして見入っていると、私はなんだかこの帽子を被ってみたくなった。人の帽子を被りたいだなんておかしな話だが、そもそも帽子自体被る機会もなく、ましてや男物の帽子なんて周りには無かったものだから物凄く惹かれるものがあったのだ。
そんなわけで私は自分の頭に帽子を被せた。だが当然といえば当然だが男物の帽子が私の頭のサイズぴったりなはずもなし。加えてどうやら被り方にも工夫のいる帽子だったらしく、とたんに視界が真っ暗になってしまった。
多分私は今、周りから見れば相当にシュールな絵面になっていることだろう。帽子を顔が半分隠れるようにして被っているやつなんてそうそう居やしない。というか居ても絶対に近づきたくない。
しかし視界を遮られ、聴覚と嗅覚に身を委ねるのみとなってしまった私の感覚は、いつもよりも音や匂いが敏感に感じられ、不思議なほど穏やかで心が落ち着いた。
こうしてじっとしているだけで、周りの音や匂い、いろんなものが私の中に入り込んでくる気がする。
お日様の光をたっぷりと含んだ緑と豊かな土の匂い。潮の香り。
草木が風に揺れる音、鳥の声も聞こえる。それと波の音。
……波の音!
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