6章

月のライン 6-1


 傘を持ってホテルのロビーへ向かうと、キトは足を止めた。


 ロビーから続くフロントで、ずぶ濡れの男がチェックインをしているところだった。


 濡れた手で宿帳に名前をサインする。


 キトはすぐ横に近づき、ポケットから取り出したハンカチを差し伸べた。


 宿帳を盗み見ると、細い筆圧で『ロイ』と書かれている。


 ハンカチで水滴を拭うロイの顔を、もちろんキトは知っていた。


 けれど、どこか以前とは違う。なんとなくだが、目がうつろだ。


「自分の家に、泊まればいいのに」


 キトが喋りかけると、ロイは微かに口角を上げた。


 知られたくないことでもあるのかな、とキトは思った。


 深く追求はせず、キトはまた歩き出した。


 ロビーから入口ドアへ。


 表は薄暗く、湿度も濃い。


 深呼吸してもすっきりとしない。


 傘を開いて、キトは雨の町を歩き出した。


 観光客とすれ違うたびに、キトの心臓がドキリとする。


「お前のお祖母さんは、花を栽培してるんだろう?」


 聞いたこともないセリフと声が、ずっと自分の心の中で反響している。


「町長に弱みを握られているんじゃないのか?」


 周りの人々がすぐ近くでキトに話しかけているかのようだ。


 絶え間のない、雨のノイズと重なって、あの時の言葉が蘇える。


「じつは組織の一員でした……でもこのことは、内緒ですよ」


 ずっと隠していられるだろうか。あの日以来、マリとまともに喋っていない。


 警察はラジをスパイによこした。証拠は掴んだ。


 なのになぜ、捕まえに来ないんだ。


 キトの足が止まった。


 ラジが嘘をついているとは、考えられない。


 だけどなぜ、そこまで彼を信用できる?


 ため息をつくと、白い蒸気が飛んでゆく。


 ラジは元の組織のところへ、帰って行ってしまったのかもしれない。


 あるいは、スパイを見破られて、組織からボコボコにされているのかも……。


 そこまで考えて、キトは強く首を振った。


 あんなことを聞きたくなかった。何も知らず、前と同じように暮らしていられたら……。


 立ち止まったキトをさけるように、観光客の足並みは過ぎ去り、キトはただひとり、取り残されているような気持ちがしていた。


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