七色なのか

一ノ瀬 水々

春の章

 誰にも言えない大切な七日間、あの日あの時、世界中の何にもいらなくて。君だけが欲しかったんだ。ただそれだけ分かっていたんだ。



 二月、今年もこの田舎の町に芽吹きの季節が来た。毎年見ているはずの、見飽きている風景なのになぜだか春は心を浮足立たせ高揚した気持ちにさせてくれる。そんな気持ちに急かされて僕は毎年この山に来てしまう。普段は誰も近づかない三秋神社の奥に進むと、自然のまま人の手が入っていない木の空間が広がっているのだ。木のところどころに新芽や青葉が見え隠れし、小鳥たちもあちこちでさえずっている。気持ちのいい涼やかな風は色鮮やかな薫りを乗せて僕の体を通り過ぎていく。毎年繰り返されるこの感覚の中で、ただ僕の胸の奥だけが異なる様子だった。

「僕の生きる道は間違ってないよな…おまえたちを守ることにもなるんだから…」

 四月になれば僕は隣町に売られていく。正確には自分で自分を売ったんだけれど。


 山を下りて家に戻る。悩みながら歩く道は何でこんなにも足を重く感じさせるのだろうか。頭が重くなっているからその分重力がよけいにかかっているせいだろうとか考えていたら家の門の前に着いていた。庭で洗濯物を取り込んでいた母がこちらに気付きっと微笑んだ。

「おかえり、ユキ。寒かっただろ」

「ただいま、母さん。山は少し肌寒かったけど、だいぶ春めいてたよ」

「今年もまた見事な桜が見れそうだね。でもそのころもうユキはあそこで働き始めているんだから一緒には、見れないよね…ごめんね私が、」

そう言いつぐんだ母は悲しげな目になり、その目を隠すかのように下を向いた。そんな表情を浮かべる母を最近何度見ただろう。母の悲しげな目を見るたび変えようのない現実が迫っていることを伝えられているようで僕は辛い。しかし母が抱える罪の意識を少しでも軽くしてやるために僕ができることなんて実際にはないんだ。だから出来るだけ落ち着いて、現実を受け入れているように母には話すようにしている。

「大丈夫だよ。全部うまくいくさ、きっと。それより今日の晩御飯は何?」

残り少ないこの家族の時間を僕は噛みしめている。心配なんてかけさせる歳じゃあないだろう。たぶん。


 晩御飯は僕の好きなアユの塩焼きだった。向かい合って食卓を囲む母は優しい顔で話をしながらも、時折さっきの悲しい目をする。そしてポツリと壁の写真に漏らした。

「お父さんが生きていたらあなたを守れたのかしら。この町も、山も。」

 そう、僕の父は二年前にいなくなってしまった。進行性のガンで、見つかった時にはもう手遅れだったそうだ。体調の悪い日が続いているぐらいにしか認識していなかったが、父は父なりに心配をかけまいと無理をしていたんだろう。今なら分かる。

 母は続けて髪に手をやりながら物憂げに語り掛ける。

「桐山さんにはお世話になっているとはいえ、やっぱりあんまりだよ…ユキを連れていっちゃうなんて、あんまりだよ…」

桐山とは、隣町に住む桐山大二郎のことで、彼は桐山建設という会社の社長なのだ。四月から僕の働くことになる会社でもある。ただ桐山建設で働くというわけではなく、三人の子宝に恵まれつつも三人とも女の子だったため後継ぎを探していた桐山家の婿養子として迎え入れられるのだ。僕が夫となるのは、長女の桐山和美で歳は八つも上の28である。これらすべてはあとわずか、ほんの遠くない未来に起こることだけれど実感がなさ過ぎて自分でも笑えるくらいだ。

「連れていくなんて言わないでよ。このことは僕が望んで選んだことなんだし、ほんとに母さんは心配しすぎだって。そんなことより、ほらご飯のおかわり入れてきてあげるよ」

「ああ、ありがとう。じゃあお願いね」

 湿った空気から逃げるように食卓を離れた後、台所で小さくため息をつく。確かにそうなのだ。父が営んでいた木材会社は、父で四代目となる歴史ある会社だったのだが、人口減少や海外産の輸入木材の煽りを受けて経営は苦しくなり、借金がかさんできた折に父が倒れてしまい窮地に追い込まれている。歴史ある会社を代々受け継いできた僕ら大石家はこの小さな町ではちょっとした家柄だったのだけど、父が倒れてからはもはや見る影もない。しかしやはりそこは田舎の名家だったこともあってそこそこの資産はあった。それが僕の大好きな森や鳥たちが住まう山である。この山をめぐって桐山とのいざこざが生じ始めたのが事の発端で、隣町の同じく田舎の名家である桐山家は昔木材業をやっていたらしいのだがその分野では大石家のほうが秀でていたために建設業に転じたそうなのだ。それ以降桐山家は密かに大石家への復習の機会を伺っていたということらしい。父は経営が苦しくなった時に昔からの同志と見込んで桐山家に株式譲渡の形で出資をお願いしていた。つまり簡単に言えば借金をしたのだ。父が亡くなってから桐山はこれぞ好機と言わんばかりにこの借金をどうするのかとうちに押しかけ、大石の歴史を終わらせるべく一人息子の僕を桐山の婿にとることを持ち掛けてきた。もちろん最初は反対していたのだが、もし婿に入らないならすぐに借金を返せと言い出し、ついには肩代わりにうちの持つ資産である山を担保にとるぞと要求してきた。桐山家はもしうちのもつ山が手に入ったなら、建設業のネットワークをいかし、県議会にかけあって山を切り開くつもりでいるらしいと噂で聞いた。この状況に立たされた僕はすべてをゆっくり諦めることができた。何もかも絶望的な今、少しでも何かを僕が残せるのなら、守れるのなら罪のない自然には絶対手出しはさせない。僕にできる精一杯の抵抗だったのだ。

「はい、母さん。食欲ないみたいだから半分ぐらいにしておいたよ」

「ありがとう。ユキもたくさん食べなよ」

 しんみりとしてしまったが、母と二人きりで過ごせるこの幸せな時間は僕にとってかけがえのないものだと感じる。そう思うと温もりに溢れたこの心のやりとりが、間もなく失われることに僕の気持ちは陰りの色で覆われてしまう。

「そうだユキ、母さん明日朝九時に出発することにしたから後のことはよろしくね。まったく兄さんたらこの忙しい時に手を煩わせるんだから困ったよ」

「おじさんだって急に事故にあって困ってるんだしこっちのことは気にせずお世話してきてあげてよ。母さんも東京まで行くんだしくれぐれも気を付けてよ」

「はいはい、田舎と違って都会は複雑だから道に迷わないように気を付けるよ」

「おじさんも東京で始めた会社がやっと軌道に乗ってきたところで今回の事故だし本当に災難だね。足の骨折だけですんでるのが不思議なくらいだけど、やっぱりおじさんは運がいい」

「ハハハ、もともとはしっこい性格で落ち着きがなかったし、今回はいい薬になったかもね。一週間ぐらい面倒を見たらすぐ帰ってくるつもりだけど、何かあったら電話してくれたらいいよ」


僕は運命とかよく知らないけど、たぶんこのあたりから神様の運命のいたずらが始まっていたのだと思う。母がいなくなるこの翌日から僕は、いや、僕たちの世界は大きく交わりつつ形を変えていったんだ。


君と僕のたった数日の春が咲き始めた瞬間だった。

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