第17話 Les Femme Fatale du 3e étage

”プルルルル!”

 織音さんに携帯?


「ハイ、織音です。あ、ハイ! 今三階に……あ、ハイ、すいません」

「どうしました?」

「白鳥さんからです。マダムから連絡があって、青田さんを引き留めておけと。色々お話があるそうです」

「あ、はい。お仕事関係かな?」


「ここではなんですので、下のお店でお待ちいただけますか? さすがに僕の部屋は……」

「あ、はい、そうさせてもらいます」

 ん? お嬢様は(お持ち帰りされたら?)ぐらいのたまうと思ったけど、なにも無し。


 お店まで降りると、すでに白鳥さんと目黒さんが開店の準備をしている。

 椅子を下ろして机を拭いたり、看板を出したり、グラスを磨いたり、棚のお酒をチェックしていた。

「すいませんスワンさん、クロウさん」

 織音さんが頭を下げながらカウンターをくぐった。やっぱり、源氏名で呼ぶんだ。


「かまいませんよ、カルラ。まわし(準備)は我々がやりますので、青田”様”のお相手を」

「へっへっ! 店の中で口説くんじゃねぇぞ!」

「わかりました。青田”様”、こちらへ」

「あ、はい」


 喫茶店、今はバーか。店内は横に広く、ステンドグラスを模した入口のドアは建物の真ん中辺り。

 入口から入って左の壁側は、合皮のソファーとテーブルが並び、真ん中はテーブルと椅子が、右側はU字を縦に切ったようなカウンター席となっている。

 店の奥はちょっとした舞台になっていて、カラオケもあり、壁には年代物のスピーカーが、隅にはレコードプレーヤーもある。


 私は織音さんの案内でカウンターの一番奥へと座らされた。

「せっかくですので何かお飲みになりますか? もちろん、僕のおごりです」

「あ、いえ、そんな。ちゃんと払います! 払わせて下さい!」

 一瞬、静まる店内……やってしまった。

 こう言う時、殿方の顔を立て、お言葉に甘えるのがかわいい女の条件。悪女の私は、わずかな好意すら花粉症のように拒絶する、アレルギー女。


「失礼しました青田様。それでは、こちらがメニューとなっております。ごゆっくりとお選び下さい」

 織音さんは接客モードになった。これでいいのだろうか?

「ご、ごめんなさい、私……きつい言葉を」

「だいじょうぶですよ。だって


『それが、青田様ですから』」


 あ……。

 うつむく私。今日何回目だろう。何しずく目だろう。

 でも温かい雫。心が解ける雫。私の心が燃え上がる雫。

 物心ついてから初めてかもしれない。


『私が、私であると認めてくれたのは』


 人は肉親からついさっき出会った人間にまで、自分の価値観を押しつける生き物。

 親は子に。兄姉は弟妹に。先輩は後輩に。上司は部下に。そして、友人は友人に。

 私も相手に自分の価値観を押しつけて、私も、相手から押しつけられた。

 互いに傷つけ、傷つけられた。

 でもそれは、相手を理解していないがゆえ、相手を一人の人間として認めていないがゆえ。


「あ、青田様?」

「あ、ごめんなさい。ちょっと、髪の毛が目に……私って、こういうお店来たことなかったので、何かお任せでよろしいかしら?」

「はい! かしこまりました! そうですね……アルコールはだいじょうぶですか?」

「はい、会社の飲み会とかでは、たしなむ程度には飲んでいましたので」


「そうですか、ならば女性向きに”ウオツカ”をベースにオレンジジュースを使った、スクリュードライバーはいかがでしょう?」

「……ウオツカ? ”ウォッカ”ですか?」


「色々と呼び名があるみたいですが、当店ではマダムにならってウオツカと呼んでいます。ウオツカは度数が高いので風味程度にしますね」

 織音さんは水晶のような透き通った氷をコップに……


(タンブラーよ)

 ウオツカとオレンジジュースを入れると、かき混ぜ棒で……。


(バー・スプーンよ。ホント、アンタって大罪の書以外、大人の一般常識も知らないのね)

 ……面目ない。

(その年になれば、大人の雰囲気が味わえるお店ぐらいは誘わ……あらぁ、ごめんあそばせ。フフフ……)

 むっかぁ!


 気を取り直して、あれ? 織音さん、指で挟むようにしてバー・スプーンを持っている?

「変わったかき混ぜ方しますね。もっとシャカシャカ混ぜるのかと」

「はい、こうするとスプーンの背でタンブラーをなぞるようになり、音を立てずかき混ぜることができるのです」

「へぇ~。なんか見ているだけで楽しいですね。メリーゴーランドみたい」


「マダムやウンベルトに鍛えられましたからね。インスタントのコーンスープやお味噌汁を作る時も、バー・スプーンでかき混ぜていましたから」

 織音さんの手から私の前にタンブラーが置かれた。

「お待たせしました」


「織音さん、このカットオレンジはどうすれば? 私あまりこういう作法とかは……」

「お任せします。口に含んでから飲んでも、氷が溶けて薄くなったらしぼって入れてもかまいません。お客様が楽しんでくださばそれでいいのです」


「いただきます」

 オレンジの甘い味とアルコールのほんのり辛い味がお口の中で混ざり合う。

「……飲みやすいですね。夕焼け空の甘い光って感じかな? ごめんなさい。うまく言えなくて」

「いいえ、感じたまま、おっしゃって下さればよろしいですよ。ん~夕焼け空の甘い光ですか。ちょっといい響きですね」


 アルコールが私をほんのりさせる。会社の飲み会では味わうことが不可能な、落ち着いた、大人の時間。

 お酒を飲むってこういうことなんだ……。


 飲み終えた頃

「じょ~ちゃん。ちょっと~、ええかね?」

 金剛……白銀先生かな? 店の奥から呼んでいる。

「あ、はい。織音さん。忘れないうちに、先に払っておきます」

「かしこまりました」


 先生の後について階段を上る。着いた先は書庫のある三階だ。

 廊下の奥へ進む。まだ部屋があったんだ。

 一番奥の扉を開けると、八畳、それ以上? の部屋だった。

 フローリングの床に古びた木の本棚、木の机、マットレスなんかない木のベッド。

 それがこの部屋の先住人であり、すべてだった。

 出窓の一つはこの部屋だったんだ。


「おみゃ~さん、ええころかげん(適当な時)になったらここにいりゃあ~(来なさい)。ひよっこ共をこき使ってもええよ」

「え? よろしいんですか?」


「ええてええて。今の家賃もたきゃ~(高い)のじゃろ? きむい(せまい)けど、いちお~電気もテレビの線もあるでよぉ~。ほんでも”ちでじ”になってから使ったことにゃ~(ない)でなぁ。ひゃっひゃひゃ!」

「あ、ありがとうございます。私なんかの為に」


 これまで数え切れないほど泣いたことがある。

 でもそれは、冷たい雫を流しただけだった。

 今日一日で、何回、温かい雫を流したのだろう……。


 あと、わかったことがある。

”ひゃっひゃっひゃ!”は金剛先生。

”はぁっはぁっはぁ!”は白銀先生だ! ……たぶん。


『だからちゅ~わけじゃね~けどなぁ。ひとつあたまぁ使ってほしいんだぎゃ』


「あ、はい! 簿記とかの事務仕事とかならできます」

「いやいや、そんなどえりゃあことせんでもええんや。あんなぁ……」

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