第2話 Genova's Residence
石とコンクリートの街並みを抜けた車は、いつの間にかモーターからエンジンに切り替わり、緑が増える郊外へと進む。
やがて、木々の間から現れる、いろいろな建造物。
お役所から帝都ホテル。
教会から病院。
街の郵便局や駐在所。
刑務所や軍の官舎まで存在する。
すべてに共通するのは、今はもう使われていない、人の息吹を感じられない、百年近く前の建物。
テーマーパークの施設と化し、来場者の目を楽しませる、抜け殻の建物。
その”敷地外”の場所に突如現れたお屋敷。
西洋、東洋、中東、そんな言葉だけで表すことができない様式。
木と青銅と大理石で彫られた彫刻に、水墨と油絵の具とクレパスで彩られたような、世界で一番、我の強いお屋敷。
でも、風の精霊の一吹きで、突然消えてしまいそうな、そんな
そう、アレが私の家、ジェノヴァ家のお屋敷。
まるで、今の私そのもの……。
車が近づくと、格子の門がゆっくりと内側に開いていく。
敷地周辺で排気ガスは無粋だと、車もいつの間にかモーターに切り替わっていた。
池や川、滝や森で彩られた庭園。
走って、遊んで、転んで、泣いた。思い出の場所。
”ヒヒィーン!”
今日も、鳴き声で出迎えてくれる。
ごく当たり前の風景。見慣れた景色。
だって、私はここで生まれて、ここで育ったんだから。
屋敷の前に止められる車。
カバンを手に取り、ドアを開ける彼。
手袋越しに彼の手に触れ、スカートを引きずるように降りる私。
そして、ゆっくりと階段を上って正面玄関へと向かう。
その後ろを、彼はカバンを胸の前で
本当は、カバンなんてどうでもいい。車の中に忘れてくれてもよかった。
中に入っている冊子は、もっとどうでもいい。二度と見たくなかった。
でも彼は、大切に抱えている。
まるで、過去の私を抱きしめているように……。
音もなく、魔法のようにゆっくりと内側に開く扉。
そこは正門とエントランスをつなぐ玄関。
左右に扉があり、右はお客様の待合室。
そして左は、化粧の間。
出かける時は、ここで最後の身だしなみを整え。
帰宅時には、俗世間のホコリを払ってもらう場所。
そして、彼が私に”直接”触れる場所。
化粧の間に入ると、当たり前のように、壁に貼り付けられた大型の姿見に立つ。
そう、今の私は私ではない。
鏡に写るのは、ジェノバ家のご令嬢、マルゲリータ。
「失礼します。お嬢様」
私のつむじの辺りで、彼が優しく
ブラシが、そよ風のように髪をなでる。
手袋を外した彼の手が、柔らかいお日様の輝きのように、髪をなでてくれる。
次に彼の両手が、私の顔を包み込む。
疲れた私の顔を、命を燃やしたぬくもりで、暖かく
果実が
化粧も、香水もいらない。
だって、彼の両手は魔法の手なんだから。
細くしなやかな指で、私の顔にこびりついた俗世間という名の垢を、ビーナス像を彫るかのように削り取ってゆく。
彼の両手は額からこめかみ。
上まぶたから目尻を通って下まぶた。
鼻筋にこばなを経由してほうれい線。
そして、頬からあご、うなじへと続く。
でも、私がもっとも触れて欲しい場所は、いつも素通りする。
いつも私は願っている、その指で優しく触れて欲しと。
できることなら指ではなく、彼のもので、激しく重ねて欲しいと。
クジャクの羽で、服のホコリを払ってくれる。
お食事を汚さぬよう、それが彼のお仕事。
触れて欲しい場所に彼の指が触れないのも、同じ理由。
服を破り捨ててもいい。全裸で食事してもいい。
彼の魔法の手で、私を暖めてくれるのなら。
自動で開かれる、エントランスの扉。
正面にはツインテールのように伸びる二階への階段。
奥の扉は、広々としたダイニング。
今日、私が向かう場所。
でも私は左のドアを抜けると右を向き、廊下を早足で歩く。
目をつむっててもわかる。
だって、私の家だから。
私が……”造った”家だから。
「ついてこないで!」
「ジェノヴァ家の執事たる者、主のお側を離れるわけには参りません!」
「レストルームよ!」
「ご安心下さい。お嬢様が淑女になられたゆえ、
「こんのぉ~! 変態執事ぃ!!」
レストルームに入ると、共用の手洗い場。左右の扉はそれぞれ紳士、淑女用と別れている。
当然、アイツは廊下へ追い出した。
扉を開けると、床や壁、天井の風情と調和しない、真新しい、最新型のトイレセットが鎮座していた。
”ウィィ~~ン”と自動でフタが開き、便座に暖が注がれる。
同時に流れる、川のせせらぎ音と小鳥のさえずり。
まるで、急ごしらえであつらえたトイレ。
そうよね、だって、”この物語”には、トイレの描写なんてなかったのだから……。
下着を下ろし、腰を下ろす。
最後の一滴まで小水を落とすと、私だけの時が始まる。
左手の指先は、主の顔をゆっくりとなでる。
そう、そこは、ついさっき彼が触れた場所。
左手の指先から伝わる彼の温もりと感触は心臓を経由して、右手の指先へと流れ落ちる。
そして、右手が向かう先は、小水を落とした女の茂み。
淫猥な雫をしたたり落とす、秘密の蜜壺。
四方を壁に囲まれたこの空間は、私が私であることができる、唯一の場所。
彼の指は、私の顔を優しく愛撫しながら、彼の指は、私の秘所を無心で
淫欲も、叱責も、狂気もなく、彼の指はジェノヴァ家の令嬢の”皮をむき”、ただ
”……”
二枚の扉を超えた先には、生身の彼がいる。
いえ、目の前の扉の前にいるかも……。
『……耳を澄ませながら、扉の横で控えさせて頂きます』
”……!!”
心の耳元で囁かれた言葉により、私の顔は
ふしだらな行為による、衣服がこすれる音。
禁断の遊技に溺れる為の、悦楽の肉の
それを彼が聞いている。聞いて欲しい。
そして扉を開けて……貴方の冷たい瞳で、見下して、軽蔑して欲しい!
例え、ひとときの気まぐれでも、
例え、仕置きによる結果でも、
例え、私を娼婦と侮蔑しても、
私は貴方のすべてを受け止める覚悟はできている。
その為に、”行為”をする時は、鍵をかけていないのだから……。
再びジェノヴァ家のマルゲリータの皮を被った私は、手を洗って一息つくと……タオルがない!
当然、エアータオルもない。
「タオル!」
「御意!」
嬉々とした顔で扉を開けたアイツは、タオルが掛かった右腕を
彼の右腕をタオルハンガー代わりにして、私は両手を拭く。
「なってないわね! タオルを準備しておかないなんて!」
「来客用ではなく、まさか家人用のレストルームへ足を運ぶとは思いもよりませんでしたから、慌ててタオルを準備しようと後を追いかけたのです。そうしたら……」
「い~わけ無用! もしお客様が迷ってここへたどり着いたら、ジェノヴァ家の恥よ!」
「はっ! 申し訳ありません」
しっぽを丸めた子犬みたいに、胸に手をあて謝罪する。
ううん。むしろ謝罪するのは私。
罰を受けるのは、貴方を苦しめた、この私……。
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